狙う

書こうと思っていきなり躓いたのですが、さてどう書こうかな……。以前のエントリーで触れたことがありますが、ぼくはアーチェリーで全国第三位になったことがあります。ちゃんと竹下登とか書いてある賞状もある。あほらしいですね。でまあ実際あほらしい記録なんですけれども、いかにあほらしいかというのはここではもう触れません。あんまり言うと自分が寂しくなるから。人生、ちょっとしたはったりも大事です。ぼくの場合ははったりだけで九割超えるのが問題ですが、ばれなければはったりではない。

とにもかくにも、アーチェリーは意外にまじめに打ち込んだ時期があります。アニマル的(まと)を射ろとか言われてうんざりしたのと、あと紳士淑女のスポーツだから女子は白のスカート、男子は白のスラックスを着用とかわけの分らないことを言い出して、しかもそれに関する下品な冗談とかもあって、本当に気味が悪くなってやめてしまったけれど、でも浅い経験なりに、やっていてすごく良かったな、と思えることもありました。

ぼくは、何かを狙うということが自分の性格の大きな属性だと思っています。などと書くと何やらストーカー的な感じがしないでもありませんが、そういうつけ狙う的なものではありません。何ていうのかな……。これは感覚の問題だからなかなか言語化しづらいのですが、ある種の集中に近いものです。ひとつの概念に焦点を合わせるということ、あるいは概念そのものになるということ。と書くと、こいつまたおかしなことを言い出した、と思われるかもしれません。けれどそうでもないのです。例えば写真を撮るとき、特に小さな虫とか花を撮るひとは、カメラを構えてファインダーに被写体を写して、シャッターを押すまでの時間、それがこの「狙う」なんじゃないかな、とぼくは思います。ぼく自身、写真を趣味にするようになってから、あらためて自分の中にある「狙う」という感覚に興味を持つようになりました。

そのとき、ぼくらは恐らく、自分の眼とカメラと、そして被写体そのものとさえ一致している。一体化、というのとは違う。本当にひとつになってしまっている。世界に存在するすべてのものが持つそれぞれの固有のリズムが、その瞬間、眼とカメラと一匹の虫において完全に共振している。そしてたぶん、それはカメラだけではなくて、例えば自動車の運転とか楽器の演奏とか、それぞれにおいて同じような感覚があるとぼくは想像します。論文を書いたり、プログラムを組むのも同じです。

もともと自分のなかにあったそういった性質を、アーチェリーを通して、具体的なイメージとして描くことができるようになりました。具体的、というとちょっと違うな。何だろう、何かに向うとき、射場で的に向って立っていたときの感覚、それを身体に呼び戻すような感じ。

そのとき、確かにそこにはぼくがいて、弓を構えていて、的に向ってはいるのだけれど、その物理的な位置関係においては確かに狙うということが現れているのだけれど、でもそれだけではない。狙うということは同時に、狙うものと狙われるものという関係を突き抜けて、すべてをひとつのものにするようなものでもある。一致すること。ひとつのリズムになること。

いま、ぼくはアーチェリーそのものに対する関心はまったくありません。けれども、もしもう一度やるとすれば、当時よりもはるかに腕を上げているだろうということを確信しているのです。それは、いかに的の中心を射るか、いかに高得点を得るか、ということではありません。狙うということに、昔よりいっそう近づいているという確信です。そしてそのとき、ぼくは弓を持つ必要を感じません。ただ的があり、それに向って立つ自分さえいれば、狙うには、もうそれだけで十分なのです。

写真も同じで、いつかきっと、カメラがなくても何かを撮れるようになるかもしれません。それは中途半端に悟った気持ちになる、ということではありません。技術がある水準に達するということでもありません。そうではなく、狙うということは最終的に、きっと自分自身を狙うということ、自分自身と一致するということに行き着くでしょう。

それは究極的に自己のうちに閉じてしまうことなのでしょうか。そうではないとぼくは思います。自分自身を狙い、自分自身のリズムと一致したとき、きっとぼくは初めて、他の誰でもないこのぼくになれるのです。そしてそのときこそ、初めてぼくは、このぼくとして、世界に語りかけるぼくの言葉を持てる。写真を撮るということ、論文を書くということ、狙うということ。それはぼくになったぼくを世界に向けて放つことなのかもしれない。そんなふうに、いま考えています。

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