数日前、彼女がとある手続をするために担当窓口に行ったところ、ずいぶんと失礼な対応をされたという。彼女からその話を聞き、ずいぶんプロフェッショナルとしての意識が低いひとがいるものだなと嘆息したのだが、しかしそこには案外根深い問題があるようにも思う。おそらくその担当者は、自分の仕事に対する本質的な喜びや誇りを持っていないのだろう。あるいはより悪く、心のどこかで自分の仕事を侮蔑してさえいるのかもしれない。それは結局のところ、自分の生を侮蔑するということだ。世界には、もっと素晴らしい仕事がある。他人に評価される仕事、いやそうでなくとも社会の役に立つ仕事、真に有意義な仕事。けれど、本当にそうなのだろうか?
ぼくが所属している研究室は環境思想が中心テーマで、そこでは現代において極度に分業化、合理化された仕事が人間を疎外する、といったような考え方がけっこう共有されている。それはそれで、そういった面もあるのかもしれない。けれどそれだけだとはどうしても思えない。現に、プログラマーという (彼らの基準でいえば)もっとも人間性からかけ離れたような仕事をしているぼく自身が、自分の仕事に対して喜びと誇りを持っているのだから。無論、そこには多くの問題がある。ぼくとて、やりたい仕事だけをやりたい時間にやりたい場所でやってきたわけではない。むしろその逆だ。無茶苦茶な労働条件を生き抜いてきたと断言できるし、それを肯定するつもりはさらさらない。けれどそれはシステムの問題であって、そのなかで戦っているぼく自身の誇りの問題とはまったく次元の異なる話だ。
繰り返すけれど、労働者を搾取するようなシステムは無条件に否定されるべきだ。しかし一方で、では労働者に対して喜びや誇りを抱かせるようなシステムが存在するのか、あるいは望ましいのかと聞かれれば、ぼくはそれもまた冗談ではないと答えるだろう。喜びや誇りは、誰かに与えられるものではない。システムによって与えられた誇りなど、考えただけでもおぞましいものだ。喜びも誇りも、ただ自分の魂の内からしかもたらされることはない。
自分の仕事に誇りを持つ、そこに喜びを見出すということは、何もごく一部の英雄や天才たちにのみ与えられた特権ではない。そんなはずはない! ぼくらがしていることは、世界を救うとか歴史を変えるとか、そんな大それたものでは決してない。けれども、以前にも書いたけれど、ぼくはカムパネルラの犠牲よりも、再び日常へと戻っていくジョバンニの勇気を愛する。そこに救いはない。父が戻り、母の病が治り、級友たちと楽しく過ごすような日々がジョバンニに訪れることはついにないだろう。それでもなおかつ、きょうという一日を生き抜き続けるジョバンニにこそ、ぼくは人間に可能なもっとも気高い姿を見る。
それは、既存の社会体制の維持をはかることの大切さなどではない。システムなど、糞喰らえだ。人間としての情が大切だということでもない。それはただ自分の魂の戦いの枷としかならない。小さなところに幸福を見出そうなどというような下らない日常主義でもない。そんな連中はおしるこ万才を叫んでいれば良いのだ。
そうではない。ぼくらの仕事は、大抵の場合は下らない。誰の役にも立たない。にも関わらず、ぼくらはそこに他の誰のものでもない、自分自身の魂をかけて勝負をするのだし、自分自身の魂をかけて戦わざるを得ないのだ。そしてきょう、きみは仕事を終え、例えつまらぬ無意味なものであったとしても仕事を終え、生きて帰ってきた。ぼくらはきょう、また一つの勝利を手にした。そして明日もまた戦うために、身体を休める。それが偉大でなくて何だと言うのだろう。そしてそう言うためにぼくらは、ただそれを言うためだけにぼくらは、プロフェッショナルとして、自分の仕事を遂行しなければならない。不貞腐れ、本当に自分にふさわしい仕事はこんなものではないなどと呟きながら働くのではなく、自分のすべてをかけ、その仕事を完遂しなければならない。それが戦うということだ。それがプロフェッショナルであるということだ。
もし、いまの仕事がひとを傷つけるようなものであるとしたら、あるいは自分を損ねるようなものであるとしたら、無論、それでもなおかつその仕事を続けることに意味はない。そのような状況を耐えること自体に意味はない。あると言うのであれば、それは奴隷労働や犯罪の肯定でしかない。そして一方では、それでも仕事を続けなければ食べていけないという事実もあるだろう。残念だけれど、それに対する簡単な答えはありそうにない。
けれど、ひとつだけ断言できることがある。誇りも喜びも、仕事それ自体にあるのではない。それはただの幻想に過ぎない。目立つ仕事、格好良い仕事、ひとの上に立つ仕事、収入の良い仕事。ひとの役に立つ仕事、歴史に名を残す仕事、文明をより高める仕事。みな、幻想に過ぎない。何度でも繰り返そう。誇りも喜びも、それは自らの内側からしか生まれないのだ。
ぼくらは、天才ではない。英雄でもない。世界を救う機会など、恐らく一生与えられることはないだろう。だからこそ、尊いのだ。無意味で無価値な日々の生を、にもかかわらずぼくらは最大限、全力を振り絞って生き抜いている。決して勝利のない戦いを、死ぬその瞬間まで続けている。それは狂気じみた戦いであり、それ故、それだけですでに瞬間瞬間の勝利の連続なのだ。
ぼくは、ぼくの凡庸さを誇る。ぼくの凡庸な仕事を誇る。そして誇るために戦い続けるとき、ぼくの魂はたしかに、かけがえのない喜びを感じているのだ。