研究する喜び

あるエントリーで、研究というものは役に立つか立たないかという次元で評価されるべきではなく、むしろ研究者個人が楽しいからこそやるのであり、その結果偶然として文明が進歩したり人類の役に立つものが発見されたりする、と書かれていた。ぼくはそれを読んで、どうも趣旨がよく分からなかった。そのいちばんの理由は、そのエントリーが「役に立つ研究」と「研究者が純粋に楽しいと思ってやる研究」のふたつを対置して考えているからだと思う。でもほんとうにそうなのだろうか。

それが社会に有用でない研究だからといって切り捨てるのは正しくないことだと、ぼくも思う。けれど、もしその研究が社会の役に立つのであれば、それは研究者が純粋に楽しいと思ってやる研究と同じように素晴らしいことだ。

ここで、それはおかしいと思うひとも多いだろう。確かにそのとおりで、「社会の役に立つ」と安易に書いたけれど、実はこれはけっこう問題がある。何が「社会」で、何が「役に立つ」ことなのか、その普遍的な定義は難しい(というより不可能だろう)。そしてしばしば、「社会の役に立つ」ことが危険な場合さえある。一方で、研究者が純粋に楽しいと思ってやる研究というものも、当然だけれど無垢で祝福されたものなどではない。それはたまたま誰かの何かの役に立つかもしれない。しかし逆に誰かの何かを傷つけるかもしれない。科学者本人にはそのつもりがなくても、結果的にその研究成果が人間を傷つけることに利用された例は枚挙に暇がない。

そのエントリーの目的が、何かを知るということがそれ自体で純粋に喜びであることを伝えたいというところにあるのなら、ぼくはそれに同意する。あるいは基礎研究が即座に有用でないからといって否定されるべきではないということにあるのなら、それにも同意する。けれども、その対立項として「楽しいからやる研究」を持ち出し、楽しいことが第一義であるとするのであれば、首を傾げざるを得ない。それはとても危険なことだ。科学者として、いやそれ以前に人間として、ぼくらは(人間以外の存在も含めた)他者に対する責任を持っているはずだと、ぼくは思う。単に楽しいからやるというのであれば、それは子供の遊びでしかない。楽しい先に何があるのかを考え、その危険性を想像し、場合によっては自らの好奇心さえ抑制できるからこそ、ぼくらは人間足り得るのではないだろうか。

少なくとも、ぼくは修士と博士の時代を通して、楽しいからという理由だけで研究をしている人間を見たことがない。無論、自らの研究に喜びを見出している学生はたくさんいた。けれどそれ以上に、あるいはそれに先行して、やはりこの世界に対する疑問、苦しんでいる人びとが存在するという事実に対する怒り、そういったものが彼らを研究に突き進ませていたことをぼくは断言できる。そしてそれは何も研究者に限らず、多くの人間がそう思って自分の仕事をしているはずだ。

誰だって、自分が楽しいから、自分が知りたいからという理由からだけで、自分の人生を削って何かに懸けることなどできはしない。子供の遊びであれば、叱られれば泣きながらやめるだろう。楽しいということにはそれ以上の重みはない。けれどもぼくらが研究をするとき、そこには人間としての責任が伴う。それは投げ出したり無視したりするわけにはいかないものだ。ゲバラはキャンプが好きだったから地を這ってまで戦ったのか? サン・テグジュペリは飛行機に乗るのが楽しいから負けると分かっていた戦線に加わったのか? そんなはずはない。それでは自己をなげうった彼らの精神をまったく理解していないことになるだろう。

研究とは違う、というひともいるかもしれないが、ぼくはそうは思わない。何かをしなければならないという思いがあって、その上でぼくらはそれをどう表現するかを選ぶ。それが論文であっても音楽であってもプログラミングであっても、それ自体は出力フォーマットの問題に過ぎない。

何が正しく、何が間違っているかなどはわからない。自分の研究は人類の役に立つものだ、などと決め込むことほど恐ろしいことはない。それは自分さえ楽しければその結果がどうなろうと知ったことではないというのと同じくらい無責任であり、潜在的な暴力だ。だからこそ、ぼくらは(現実の、あるいは想像上の)他者との議論を通して、絶えず自己検証を続けていかなければならない。普遍的な答えがなくても、完結した答えがなくても、いやないからこそ、それをし続けなければならないのだ。

人類とか責任とか、そんなものを超越し、自分でも制御できない何ものかに突き動かされたまま創造するごく一握りの天才を除き、ぼくらは(決して卑下して言うのではなく)凡人なのだ。凡人であるということは、己を律することができるということでもある。けれどもそれは、研究をただの苦行として、何の喜びもないものとして行うということではまったくない。基礎研究だとか応用研究などといった枠組みを超え、自分の研究が確かにこの世界に存在するあらゆるもの、あらゆる人びとにつながっているものだということを知ることこそ、ぼくは研究をする最大の動機であり、喜びなのだと信じている。

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