先日、相棒に頼まれた用事があり、めずらしく都心を歩き回った。混雑した街中を歩くのは、好きではないけれど、だからこそ普段目にしないようなさまざまなできごとに遭遇する。あるデパートのなかを歩いていたとき、端のほうで何やら騒ぎが起きていた。店員らしきふたりの男女が、暴言を吐きつつ暴れる客の女性を抑えつつ、バッグの中身を確認しようとしている。要するに、万引きの現場を押さえられたらしい。店員側の態度は暴力的なものではなかったし、また、これはあくまで印象だけれど、客(と呼べるかどうかはともかく)の女性の態度は無実のものとは到底思えなかった。繰り返すけれど、これはあくまでぼくの推測であって、事実はまったく逆かもしれない。
万引きそのものは恥ずべき行為だと思う(無論、そこにもまた様々な、個人にのみ帰すには無理がある状況が存在する場合もあるだろうが)。ただ、ぼくが嫌に感じたのはそのことではない。原則として、ぼくは自分が解決に手を貸せるわけではないと判断した場合、いっさい関わりを持たないことにしている。でなければそれは、単に下世話な好奇心に過ぎないからだ。だからぼくは、数秒状況を確認してからすぐに立ち去った。けれどそのとき、その騒ぎを(安全圏内から)取り囲むようにして、多くの人びとが薄ら笑いを浮かべながら見物していた。何やら自分たちのために用意された見世物を眺めるように。
それはとても恐ろしい光景だった。
これはまた別のお話。相棒が話してくれた。彼女がとある道を歩いているとき、少々奇抜なファッションをしたお婆さんがいた。そうして、その後を歩いている男女が、携帯電話のカメラでそのお婆さんを撮っていたという。言うまでもないけれど、例えばそのお婆さんに被写体としての魅力を感じて、ということではない。なぜその場にいなかったぼくが断言できるのかと言えば、ぼくはぼくの相棒の感性を知っているからだ。少し話はずれるが、どれだけ長くつきあい、愛しあっていてさえ、相手のことを真に理解することはできない云々ということをしたり顔に言うひともいるし、それはそれで正しい面もあるのだろう。だけれど、それだけであるはずはない。愛することによって、ぼくらは相手よりもより深く相手を知ることができる。信頼などではなく、単純な事実として、ぼくは彼女の感性のかたちを知っている。だから断言できる。彼らがお婆さんに向けたカメラに、愛情はなかった。ただ侮蔑だけがあった。
それもまた、とても恐ろしい光景だ。
ぼくは、自分にとって美しくないことに対してはいっさいの容赦をできない冷酷で偏った人間だ。犯罪そのものより、そういったものに逃避する人間の弱さを嫌悪するし、自己を客観視できない自己愛の押しつけにもうんざりする。万引きをした誰かに対して「きみにそういった行為を取らせた社会が悪い」というつもりはないし、悪目立ちする服装を着た誰かに対して「きみ独自の感覚が独自であるがゆえに素晴らしい」と言うつもりもない。それでも、そうであってなおかつ、そこにはぼくが手を触れることのできない何かがある。要するにそれは、そこに至るまでのそのひとの人生全体だ。
それは、そのひとに対する、そのひとのみに向けられた愛がなければ、触れてはならないものだ。しかしもしそうであれば、ぼくらは社会を営むことなどできない。だからこそぼくらは法を持つのだし、社会的な(すなわち糞のような)常識を持たざるを得ない。
どこかに正義があるわけではない。真理があるわけでもない。断罪する権利が、他人を嘲笑ってよい権利があるわけではないのだ。
なぜ、自分だけは特別で、安全な場所に立ち、愚鈍で無価値な他者を見下すことができると思うのだろうか。ぼくらは誰もがそうなのだ。無価値で、愚かで、生きている価値などない。なぜそんなに、自分が生きているということに対して自信を持っているのか?
ぼくにはまったく分らない。
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あるとき、ぼくと相棒はある場所にいた。そこには緑がたくさんあった。道を歩く人びとはみな、口々に自然の良さやら何やら、そんなことを話していた。多くのひとが木々を見上げ、その癒しとやらについて語っていた。けれども、舗装された道の上で、何匹もの虫たちが、彼ら/彼女らに踏み潰されて死んでいた。稀にそれに気づくひとがいても、嫌そうな顔をして避けるだけだった。
世界は、きみのためにあるのではない。ぼくらはみな、ただ偶然によってのみ生きている、生きる価値も必然性もない存在だ。だからこそ尊いのだし、だからこそ、他の生き物もみな同じように尊ばないといけないのだとぼくは思う。ぼくとて、無論、聖人ではない。そんなものにはなれないし、なりたいとも思わない。多くの生き物を自覚的/無自覚的に殺してきたし、無数の生き物を見殺しにしてきたし、数え切れない生き物を見下して生きてきた。これからもそれは変わらない。だけれど、そのことに居直るのであれば、それは途轍もなく醜いことだ。
他人を嘲笑いたければそうすれば良い。足元の生き物など踏み潰せば良いと思うのであれば踏み潰せば良い。けれど、ぼくがそうであるようにきみにもまた生きている価値などないのだ。もしそれを忘れるようなら、そのときこそ、きみには本当の意味で生きる価値がなくなるだろう。