小さな丸い穴から空を見た

この一年近く書いていた論文を、ようやくほぼ書き終えた。一緒に研究をしている仲間に的確な批評をもらえたので、GWには集中して最終的な手直しをしようと思う。他にも書かなければならない原稿があるから、GWは集中して書くときにしようと思っている。それがいまから楽しみだ。昔、食事もほとんど取らず、風呂にも入らず、ひたすら何かをやっていた時期を思い出す。あれは確かに夏休みだった。けれども、そのとき「何を」していたのかだけ、記憶からまったく抜け落ちて、どうしても思い出せない。

ともかく、あと1.5週間を乗り切らなければならない。毎日毎日職場に向かうために27の儀式を行い精神を高めなければ家を出ることさえできない。だんだん精神が脆弱になっているし、これが50を超えたら、ぼくも出家の頃合いだろう。人がたくさんいるところは、恐いし、つらい。そういうときは、だから庭いじりをして心の平安を得る。ここしばらく、休日は彼女とふたりで庭に出て、畑仕事をしていた。でも、もうじきぼくの苦手な生物が出てくるだろうから、冬が来るまで土いじりは仕舞いになる。平穏な日々は終わりをつげ、悪夢と強迫観念と精神的外傷の毎日が始まる。毎年毎年、どうやって晩春から晩秋にかけて生き抜いているのか、これもまたまったく記憶にない。ともあれ、いまのところはまだぎりぎり、庭に出てぼんやり土を弄ったりしている。地面からコガネムシの幼虫がいまだに掘り出され、庭の隅に彼女が掘った穴に放り込もうとトタンの覆いを捲ると、暗がりに潜んでいたガマガエルが迷惑そうな顔をしているのにばったり出くわす。

先日は近くでやっていた(といっても歩いて三十分くらいだろうか)何とか市というものに行き、猫の置物を買ってきた。小さな置物たちの傍に置き、しばらくして慣れたら、本格的に連中の仲間に加える予定。

そうだ、それから、水戸芸術館で開催しているポストヒューマン展に行ってきた。いま自分が研究しているテーマにかかわるので、研究だから、研究だから! と言い張って仕事を休んだ。どのみちフリーのプログラマなど社会不適応者が90%を占めるのだ(パーセンテージには個人差があります)。最近、生き残ることを最優先に設定したので、いままで以上に社会性が零れ落ちている。会社に行くだけでもありがたく思え! などとぶつぶつ呟きながら出社している。だけれどもその日は一日自由で、ポストヒューマンとやらをふんふん眺めてきた。

セシル・B・エヴァンス《溢れだした》2016
エキソニモ《キス、または二台のモニタ》2017
ヒト・シュタイエル《他人から身を隠す方法:ひどく説教じみた.MOVファイル》2013
エキソニモ《キス、または二台のモニタ》2017

ポストヒューマンもAIも、まあ、だいたいナンセンスで惨めな妄想か、企業の作りだしたありきたりの商機のひとつに過ぎない。カーツワイルは唾棄すべき阿呆だとは思うけれど、同時に、彼の内面のことを想うと、胸が痛む気もする。生きるっていうのは、実際怖いことばかりだよね。そういった意味では、ぼくも彼も、それほど大した違いはないのかもしれない。言葉に憎悪を込めることなく、GWは言葉に沈潜していようと思う。