ブック/ライフ/タイム/スパン

ここしばらく、仕事でソフトウェア開発入門編のようなものの講習会をしていた。全4回なのでやる意味があるのかどうかという感じではあったし、そもそもハード屋さん向けの講習だったので、ぼく自身も講習生も、ともに何だかピントがずれているなあと思っていたかもしれない(その会社の戦略上、ハード屋さんにもソフトのことを多少理解しておいてほしい、ということがあったらしい)。それでも、ひさしぶりの本職での講師役は楽しかった。新しい知識も習得し直したので、総体的に悪くはなかったと思う。

そんなこともあったせいで、最近はずいぶんプログラムの腕を磨き直すことに時間をかけている。もうひとつ理由があって、それはいまの自分の研究上、それなりの技術力もないままに技術論はできないだろう、ということもある。スティグレール的に。技術論的なことに踏みこんでいるのに技術には暗いです、と開き直る哲学者は意外に……でもないか、非常に多い。でも、人間の在り方の根本には技術があると考えるのであれば、いやあ私は技術には疎くてねえ、などと呑気なことを言っている場合ではない。

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講習会の後半ではインターフェイスデザインについても少し話したのだけれど、ちょうど(大学の方での)講義で使おうと思って買っていたジョナサン・シャリアートとシンシア・サヴァール・ソシエの『悲劇的なデザイン』(BNN、高崎拓哉訳、2018)があったので、読み直してみた。これが面白かった。問題のあるデザインの実例が幾つも挙げられていたし、語り口が平易で、インターフェイスデザインに興味のある一般のひと、要するにぼくみたいな人間にもお勧め。というと何だか軽いけれど、デザインが人を殺すこともある、ほんとうに重要で、失敗したときにはとんでもない悲劇を生み出すものなんだよ、ということが良く分かる。20年近く前、まだ会社員だったころ、新人研修でインターフェイスデザインについて教えるのに、電気ポットの例を挙げて話をしていた。そこでボタンの配置を阿呆な感じにしてしまったとして、或る誰かがやけどをする、その痛みをほんとうに、ほんとうに真剣に想像してみよう、みたいなことをやっていた。当時は自分自身の知識も経験も浅かったけれど、こういうテキストがあると、とても助かるだろうなあ、と思う。

そういえば『悲劇的なデザイン』にはヤコブ・ニールセンが出てきていて、ニールセンの『ユーザビリティ・エンジニアリング原論』、これはいま段ボールのどこかに眠っているので情報が定かではないけれど、当時の新人研修では、それをかみ砕いて使っていたのを思い出す。自分の人生の客観的な時間軸に沿った経過と、そのときそのときで買って読んできた本がマイルストーンとして結ばれた本読みの人生の主観的旅程とは、少しばかりずれがあって、それが面白い。

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今度出す論文では、近代的合理性のようなものについてずっと批判的(批判的というのは、地獄へ堕ちろ! ということではなくて、対象の本質を分析的に扱うみたいな感じ)に論考しているのだけれど、合理性というのは結局透明性であって、それがガラスの都市というイメージにつながっていく、とか、まあそんなブルーノ・タウト的な言及がちょっと出てくる。それはケヴィン・ロビンスというカルチャラル・スタディーズにおける中心的な研究者の『サイバー・メディア・スタディーズ―映像社会の〈事件〉を読む』(田畑暁生訳、フィルムアート社、2003)の引用。これも凄く良い本です。で、ある日、読む本もなくなってしまって、段ボールを漁っていたら、ずっと昔に買ったパウル・シェーアバルトの『永久機関 附・ガラス建築』(種村季弘訳、作品社、1994)が出てきた。買った本はすべて覚えているけれど、意識しないと思いださない。でも、ああ、これまさにガラスだよなあ、と思って読み直してみると、やはり批判的に面白い。でもって1994年といえば(出版されたときに買っているので)ぼくはまだ田んぼから出てきたばかりで、都会の大学で英語ばかり喋る連中に囲まれてみんなお洒落でハイソサエテーでもう田んぼにカエル! とかぐったりしていた時期だ。当時はこの『ガラス建築』、何が言いたいのか良く分からなかったけれど、いまになってみると、凄くストレートに理解できる。シェーアバルトの夢や虚勢。たぶんこいつ嫌な野郎だったんだろうなあ、とは思う。でも、その作品は、なかなか、全否定できるようなものでもない。

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あとは……そうだ、今回の論文では、木だって木同士でコミュニケーションしているだろ、みたいなことを書いていて、何だかこう書くと自分が何の研究をしているのか、これを読んでくれているひとにはまったく伝わらないのではないかという気がしてくる。別にクスリをやっている訳ではなく、極めて単純に、コミュニケーションとかメディアという言葉を捉え直すことで、この世界や人間といったもの自体の概念をちょっとずらして理解することができるし、それって必要なことだよね、みたいなこと。

それはともかく、木同士のコミュニケーションよね、なんてことを言うための参考文献としてDavid Haskellの”The Songs of Trees”(Penguin books, 2017)を手に入れた。英語が出来なくて大学を中退したぼくは、直感とフィーリングとグーグル翻訳だけを友達に原著を読むのだけれど(でも彼はヘブライ語が読める)、読んでいるうちに、あれ、この作者、何か記憶に残っているなあと思ったら、つい最近彼女にプレゼントした『ミクロの森』(三木直子訳、築地書館、2013)の著者だった。これはAmazonで注文したので、ぼくが家に居るときに受け取り、彼女が帰ってくるまで段ボールを開けずにまっていた。単に、開けるときの楽しみを彼女に取っておこうという心優しい謙虚で愛に満ちた我が気高く美しい心がそうさせたに過ぎなかったのだけれど、これが自分の命を救った。彼女が帰宅して、段ボールを開け、本を取り出したところ、ぼくの苦手なアレに殻の付いたアレ、殻が背中に乗っているだけでカワイイ~なんて頭がどうかしているような評価を受けるアレの写真が裏表紙に載っていたそうな(伝聞)。俺にその本を近づけるな! と、プレゼントだとはとても思えないようなリアクションで彼女にそれを押しつけ、あとはとんずらした。

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客観的にいえば、特に良いこともなく、将来も見えず、この年になって将来が見えないって、もうそれ見えるようになる前に将来が尽きるんじゃないかという気もしつつ、でもまあ、ぼんやりと本に囲まれて、その連続性とネットワークのなかで、何となく楽しく生きている。