希望

先日新聞を読んでいて、ある記事が目にとまりました。「アルツハイマー病記憶回復ワクチン」が実験段階ですが成功したというものです。記事そのものはしばしば見かける――などと表現してしまってはいけないのですが――新たな治療法に関するものです。けれどもその記事が他の類似した記事と異なっていたのは、研究チームに所属する教授のコメントでした。それは「人間にもワクチンが有効となることを期待している。患者さんには希望を持ってほしい」というものでした。ぼくはこれを読んで、珍しいなと思うと同時に、単純な話ですが、やはり胸を打たれたのです。「患者さんには希望を持ってほしい」。普通、こういったコメントというのは、なかなか現れてこないようにぼくは思います。特に治療法の開発というのは科学に関するものですから、コメントも大抵、慎重かつ客観的なものとなりがちです。例えばこの記事でも、第三者的な立場にいる他の教授は、この発見の重要性を認めつつも「ただし、ホモシステイン酸を除去した場合の人体への影響を確認する必要はある」という、まさに慎重かつ客観的コメントの見本のようなコメントをしていました。

もちろん、大半の研究者や医者が抽象的な「患者」をしか意識していない、自分の研究にしか関心がない、などということはないとぼくは思います。そしてまた、この記事において前者は患者のことを真剣に考え、後者は冷淡に研究対象としてしか捉えていない、などという話でもありません。実際、ネット版でのこの記事においては、「患者さんには希望を持ってほしい」というコメント自体がカットされていました。同様に、後者の教授が本当にひとりひとりの患者の苦しみをなくしたいと思い、日々血の滲むような努力をしている可能性だってあるわけです。ですから、どういう発言をしたからどうとか、しなかったからどうとか、そういうことを言いたいわけではありません。ぼくが思ったのはただ、「患者さんには希望を持ってほしい」という言葉の持つ力、それを信じたいということだったのです。

個人的な話ですが、父が病気になったとき、その病状が深刻であることは歴然としていたのですが、それでもなおかつ「希望を持ちましょう」と励ましてくれたお医者さんに、ぼくはいまでも感謝しています。それは何よりも父を、そして母を力づけてくれたからです。言うまでもないことですが、それは例えば、医者が患者に事実を伝えることを非難している、ということではありません。また一方で、嘘をついてでも本人を力づけるべきだという考えを否定するつもりもありません。それは本当にケースバイケースで、神ならぬ身である以上、間違えることも失敗することもあるでしょう。ただ少なくとも、そこには患者のことを真剣に考えるということが前提とされるべきではあると思いますが、それは現場を知らない人間の理想論に過ぎないのかもしれない。ぼくには何かを断言することはできません。

けれども、繰り返しますが、ぼくが言いたいのはそういうことではないのです。医者の不足、病院で死ぬのが当たり前になっている現代社会、あるいは最新の医療ですら治療できない病、そういったさまざまな問題に対して、しかもそれに直面している無数の人々のそれぞれの苦しみに対して、ここで「こうすれば解決だ」、「こうすべきだ」ということなど書くことはできない。けれども、それでもなおかつ、ぼくは希望を語りたいし、人間には絶対的に希望が必要だと思う。だから、「患者さんには希望を持ってほしい」というコメントに胸を打たれるのです。もし、放っておいてもすべてが良くなっていくのであれば、希望なんて必要でも何でもない。そうでないからこそぼくらは戦っているのだし、そこにはやはり、語られる「希望」がなくてはならない。希望がなくても戦えるほどの狂気を持った人間など、恐らく数えるほどしかいないでしょう。そう、それは強さではなく、まさに狂気です。だから、希望を求めるということは、弱さではない。人間として自然で、正しいことです。「患者さんには希望を持ってほしい」。それは、すでに失われてしまった人には届かないし、いま失われつつある人、その人の隣にいる人の恐れ、痛みを和らげることができるかどうかは分からないけれど、それでも、その理不尽な恐怖と苦痛に対する、ぼくら人間の「ふざけるな!」という存在しない神に対する怒りの叫び声であり、そして確かに、そこには希望があるのです。

先日戻ってきた論文の手直しをあと二、三日で仕上げなければならないのですが、ある査読者のコメントを読み、かなり意外に感じたことがあります。その査読者はぼくの論文のラストについて、決して否定的な意味でではないのですが、「ペシミスティックである」と書いていました。ぼくは、少なくとも自分が論文を書くときには、希望がないような話なら書かないほうがましだと思って書いています。希望がないなんてことは分りきっているわけで、それならわざわざ書く意味などない。けれどだからこそ、その希望がない世界を無理やりこじ開け、その向こうに隠された希望を力づくにでも引きずりだしてくる、そのくらいの覚悟と執念を持って書くべきだとぼくは思っています。そして実際、それは可能なのです。だからその査読者のコメントは、かなり意外に思いました。

ただ、一方でこうも思うのです。父が亡くなる(本当の)最後の瞬間まで、ぼくはとにかく、絶対に大丈夫だと父を励まし続けました。それが正しかったかどうかは分りません。もしかしたら、駄目だということを認めた上で、共にただ悲嘆にくれるということも一つの方法だったのかもしれない。それはきっと、決してどちらが正解だったかなど分らないことなのだろうと思っています。けれども、大丈夫だよ、大丈夫だよと言っているなかで、本当は駄目なんだな、という瞬間がやはりある。それはどうしても、避けようもないものとして現れてしまう。

それでも、ぼくは思うのです。どんなに駄目な瞬間であっても、それはただ駄目なわけではない。ちょっと何を言っているのか伝わらないかもしれませんが、例えば、ぼくらは誰もが死ぬわけです。けれども、確かに死は恐ろしいし悲しいし寂しいことかもしれないけれど、それはそうなんだけれど、でもそれだけではない。それを貫いてなおかつ、確かにぼくらが生きていたという事実を肯定できる何かを、ぼくらは持ち得たし、そして持っていたと思う。ぼくはそう思うのです。だから、その駄目な瞬間においても、駄目かもしれないけれど、でもそれだけじゃないんだよと、ぼくは父に伝えたかった。それはある一面においてはペシミスティックに見えるかもしれないけれど、けれど本当はそこに、たぶん真の意味でのオプティミスティックな希望があるはずです。

「希望を持ってほしい」ということは、誰もが知っているように、そんなに簡単に言える言葉ではないでしょう。けれどもやはり、ぼくらはそう言わなければならないし、実際希望はある。そしてもしその希望が届かない深淵にぼくらが直面したとしても――遅かれ早かれぼくらはそれに直面することになるのですが――それでもなおかつ、ぼくらはきっとまたもうひとつの希望を持ち得るはずです。

そんなことを考えながら、いま論文を直しています。

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