先日のゼミで、何の話からか映画「アバター」の話題になりました。教授も珍しくご覧になったそうで、娯楽映画は娯楽映画だと前提したうえで、共生という観点から見てもそれなりに良く作られている映画だったよ、とかなり好意的に評価なさっていました。ぼくは「アバター」を観ていませんし、関心のないことは徹底的に忘れてしまうのですが、ともかく自然と共生する先住民が何とかで、そこに悪い地球人が来て、でも良い地球人もいて先住民と共闘して愛が芽生えちゃったりして、それでどうせ最後は肉弾戦に違いない。全然違うか。
でまあ、教授が仰るには、異星人の見た目というのが、最初は違和感があるけれど、観ているうちにそれに馴染むというか、それはそれとして美しいものとして見えてきて、それが面白い、ということでした。ぼくは精神的にも肉体的にも疲弊しきっていたときに教授に拾ってもらったという恩義を感じていますし、また実際に学識豊かであり紳士でもあり、紛れもなく日本を代表する環境思想家の一人だろうと思っているので、これは決して教授に対する批判ではないのですが、根が偏屈なので、偏屈魂がムラムラムラムラと湧いてくるわけです。で、教授に訊ねたのです。以下意訳。
「そう仰いますが、それってやはり凄い計算されてデザインされた「異星人」なわけですよね。最初は違和感があるけれど途中でその美しさに気づくよう緻密に計算された。しかもその美っていうのは、つまるところベースをぼくらの見た目と共有しているような美であって。それで、もしそんなものから始まる「共生」なんてものがあったら、それは例えばもの凄い勢いでゲロみたいなものを吐きまくって、首をぐるぐる回しながら吠え立てるような怪物にぼくらがであったときにですね、そういったものに対しても同じことを言えるんでしょうか。言えないとしたらそれはやっぱり、単に自分と共有するものがあるものに対する共生でしかないし、もうね、括弧を閉じるのやめて地の文にしてしまいますが、ぼくはそう思うのです。安全な枠内で作られた「異なる」他者なんて、それ他者ではないですよ。いや急にそんな話をしだしてどうしたの、という感じですが、ぼくらの研究室は共生概念が中心テーマでして、この話題もそういった文脈ででてきたのです。
もちろん、これは別にアバター批判ではないんですけれども、まあちょっと絡んでしまったわけです。クラウドリーフさんはとても好青年ですが、ちょっと病的なところもある。自分ではそんなこと思わないけれど、客観的にみたらちょっと気味が悪いかもしれない。で、教授のお答えは、そこで語られている共生というものはぼくが言うものとは次元の異なるものであるというような内容でして、これはこれで面白いお話だったのですが、いまは触れません。ぼくはそれを聞いてなるほどと思いました。思ったのですが、やはりそれは(ぼくが関心を持っている)共生ではないよなあ、とも思いました。
基本的に、「想像もできないような他者との共生」っていうのは、関心を共有しにくいようです。最近特にそれを感じます。それはある意味もっともでもあって、ぼくらは現実の世界に対して、現に他者との差異が争いを無限に生み出し続けているような社会のなかで、意味のある思想を構築しなければならない。そしてその他者っていうのは、まったく理解不可能で共通性を持たないような「ナニモノカ」ではなくて、やはり、同じ人間なんだよ、ということなんだとも思うのです。
だけれどぼくはどうしてもそんなものに関心を持てないし、それに意味があるとも思えない。もし何かを共有しているのであれば、それはもうわざわざ考えるまでもなく、普通に地道に話し合っていけばいいんじゃない、と思ってしまう。個人的には、それほど切迫感を感じないのです。けれども、共有するものが何もない他者ということを考えると、これはぼくにとっては(ぼくの主張はしばしば抽象的だと指摘されるのですが)非常に現実的なレベルにおいて、生死のかかった危機的な問題として迫ってくる
さらに考えてみれば、ぼくはどうも、「共有する」ということ自体を信じていないようなのです。ぼくにとってのぼくも、ぼくにとってのあなたも、それはまったくわけの分らない他者として現前に存在している。逃げようと思ったって逃げようがない。どうしてだかは分らないけれど、その異質性に対する恐怖というものがぼくに刻み込まれている。
しかしその一方で、その異なる他者を自らに引きこんで「理解」しようとしたり、あるいはその相手を無批判に「受容」しようとする、そういったことをしようと思っているのでもない。それは結局、共有するものがないという現実から目を背けた、体のいい自己保身と他者の拒絶に過ぎないし、そんなことをしなくたって、どのみちぼくらは誰もが、そういった他者とどうしようもなく共に存在しているのです。だから、不可能だけれど理解しなければならないし (理解できる、ということとはまったく異なります)、無茶苦茶恐ろしいし苦痛でもあるけれど受け入れざるを得ない。
けれども、ぼくは思うのです。それはもの凄く自由なことなんだ、と。ぼくは、無数に存在するあらゆる存在物と、いっさい共有するものを持たない。ぼくはどこまでいっても、ただこのぼくでしかないんです。どんなものによっても定義づけされないし、「普遍」的な人間性なり道徳性なりに縛られることもない。でも同時に、ぼくは孤絶しているわけではなく、異なる他者のただ中で絶えず変化している。どうしようもなく関わっている。共有するものがない無数の他者のなか、ただ独りで在るということは気が狂いそうな恐怖だけれど、同時にその自由こそがぼくがぼくであることを保証してくれるし、そして同時に、ぼくらは皆そういうものとして、確かに関わって生きている。そういった他者なしに、恐怖を感じる「ぼく」は存在しようもなかったのです。それは、魂が存在するということの、まさに存在するということに対する喜びの源泉になっている。
ぼくはそんなふうに思っています。