好奇心

激怒したエントリーが多すぎると指摘を受けているこのブログですが、今回も再び激怒します。自分と異なる在り方に対して不寛容であるのは愚かなことですが、けれど自分の美意識に反するものに妥協するのは醜いことです。醜さを許容すれば、それは自分の魂に伝染します。ぼくは立派な人間ではないけれど、しかし魂の戦いにおいて妥協するつもりはない。

時折、ダイアリのトップページに行き、新着ブログのなかでタイトルに惹かれるものを覗いたりします。そしてそのついでに人気記事というところも見るのですが、ここは大抵、タイトルを見ただけでうんざりするようなものが多い。とはいえこれは個人的な感覚の問題であり、本屋に行ってビジネス書が平積みになっているからといって怒ってみても、それは詮無きことかもしれません(そうは言ってもやはりぞっとしますが)。けれどある記事には珍しく興味を持ち、開いてみました。その記事について直接批判したいわけではないので、ここでは触れません。ただ、ある文化における葬儀の形式についての記事だったと言えばお分かりいただけると思います。そしてこれはぼくが迂闊だったのですが、以前どこかで、その状況を撮影するのは禁止されていると聞いたことがあったので、まさか写真が載っているとは思わなかったのです。その葬儀に立会い感じたことを言葉で綴っているのかという先入観がありました。けれど開いた瞬間、青い空の一部がモニタに描かれ始め、ぼくはすぐにブラウザを閉じました。こういうときだけは、超低速回線に感謝します。そして改めてブラウザを起動し、今度は記事そのものではなくブックマークのコメントを読んで、予想通りの写真がそこにあったことを確認しました。

その記事を書いたひとが、どういう意図で写真を載せたのか、それは分りません。またどういう意図で写真を撮ったのかも分りません。もしかしたら、ぼくらが通常は見ることのできない光景を純粋に見せたかったのかもしれないし、生や死について真剣に考えるきっかけになってほしいと願ってのことだったのかもしれない。それはそれで、どうでもいいことです。少なくともぼくはそういった場面に立ち会ったとき、写真を撮ろうとは思わないし、撮るひとと友人になりたいとも思わない。そして相手も同様でしょうが、それで結構。そしてその記事を、その写真が載っていると聞いたが故に見に行くような連中とつきあいたいとも思わない。

ぼくは、例えば自分の愛する誰かが死んだとき、それを弔う場面を見ず知らずの誰かに撮ってもらいたいなどとは決して思わない。例えばそれが (そんなものがあり得るとして)極めて独特の文化に基づいた形式であり、文化人類学的に、あるいはそうでなくともその文化とやらを他の文化とやらに属する不特定多数に「知ってもらうため」に差しだすつもりになど決してならない。ぼくの愛するひとは、そんなことのために生き、死んだのではない。そしてもし立場が逆であり、その誰かを弔うひとが撮影されることを許可してくれたとしても、ぼくはそれを撮影しようとは思わない。もしその葬儀に立ち会うのであれば、亡くなった誰かの死を悼み、その死に打ちのめされている誰かのために悲しむだけにしたい。不可能であったとしても、そうしたいと思う。

下世話な興味など論外だが、上っ面だけの「生と死の厳かな云々」などというコメントで誤魔化すのはやめてほしい。あるいは本気でそう思っているのであれば、それこそ救いがたい。要は好奇心に過ぎない。それも極めて低俗な好奇心だ。一輪の花が咲き、雲が流れ、草木がざわめき、日が蔭る。それはとても不思議なことで、ぼくはそれを一日飽かずに眺めているひとを知っている。謎に惹きつけられるのは自然であり、美しい。けれども、他人の悲しみ、苦しみ、恐怖に対して抱く関心は、痛みの共有がないのであれば、極論だと言われるだろうが断言しよう、それはひどく下世話なものだ。

好奇心は、人間だけに与えられたものではないかもしれないが、しかし少なくともぼくら人間の何ものにも変えがたい能力であり、才能であることに違いはない。けれどあらゆる能力がそうであるように、ぼくらはそれを抑制する力も同時に得たはずだ。人間の好奇心こそが科学や文明を発達させてきた? 冗談ではない。ごく一部の、自分の天才にどうしようもなく突き動かされた人びとならいざしらず、ぼくを含めた大部分は凡人に過ぎず、しかしそれは卑下などではなくむしろ偉大なことなのだ。ぼくらは自分を抑制することができる。自分の在るべき魂の姿を目指し、醜い行為を断じて拒否するだけの力さえ持っている。それが凡人であるということだ。そしてそのぼくらによって作られてきた人間の世界は、進むことだけではなく、醜い方向へ進む欲望を前にして断固として立ち止まることによってもまた、逆説的にだが前進してきたはずだ。

前にも書いたかもしれないが、もう十数年昔、ある朝ぼくは大学へ行くために駅へと向った。すると駅前の高層マンションの前に人だかりがある。何かといえば、その屋上に自殺をしようとしているひとがいるらしい。すでに警察も消防も来ており、いまさら手を貸すようなことがないと判断したぼくはそのまま通り過ぎることにした。何かを期待するかのようにビルを見上げる人びとの呆けたような無表情さがほんとうに薄気味悪かったのを覚えている。けれど何より嫌悪を感じたのは、そこにいた三人の小学生たちが「死んじゃだめだ!」とか「お母さんが悲しむぞ!」とか、どこかで聞き覚えたのであろうセリフをにやにやと笑いながら叫んでいたことだ。

そこで死を迎える、迎えたひと、その人生の総体。あるいはその死によって生へと取り残される彼/彼女を愛した人びと。たとえ不可能であったとしても、それを自分のものとして受け止め、そのために全力で何かをできないのであれば、あるいは少なくとも自分の痛みとして共感しようとする覚悟がないのであれば、ぼくらは口を噤み、立ち去るべきだ。

そもそもきみは、きみの隣にいま生きている誰かを愛しているのか? そもそも虚構としての「異文化」の向こうで死んでいく誰かさんの死体を不特定多数の好奇心の目に曝さなくては、きみは死すらを想像することができないのか?

好奇心のまま数枚の写真を眺めて揺らぐ程度の薄っぺらな死生観など、どぶに捨ててしまえ。

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