相棒と会えて良かったなと思えることのひとつに、「寂しさ」の感覚がかなり近いということがあります。ぼくは自分自身のことで寂しいと感じることはない人間です。少しでも寂しくなったら、自分の腸内細菌のことを考えると良いですね。もうわんさかわんさか大騒ぎで、そんなものが自分の中にあるのだから、寂しいどころの話ではない。だから余計にかもしれませんが、自分の外にある寂しさには脆弱です。ふたりで道を歩いているとき、ときおりふと、そこにひどく寂しさを感じさせるもの――ぼくらが寂しくなるということではなく、それ自体が寂しさとしてあるもの――を目にすることがあります。そんなとき、つないでいる手を通して、ぼくらがそこに同じ感覚を見出していることを伝え合うのです。
これから書くことは少々奢っているととられるかもしれません。そしてたぶん、それは当たっています。ぼくは非常に奢った人間です。
道を歩いているとき、あるいは電車に乗っているとき、しばしば、「ああ、醜いなあ」と思う人びとを目にします。相棒は人間の良い面ばかりを見ようとします。友人の彫刻家は、醜い面も愚かな面も含めて、それが人間の面白さであり美しさだと言います。どちらもぼくが尊敬する数少ない友人ですが、これに関してばかりは見習うことができません。ぼくはどうにも、人間の醜い部分ばかりを糾弾しようとしてしまう。いうまでもなく、それは自分自身を含めてですが。
怯えている人びとがいます。しかも極めて数多く。表面的には、それは集団から外れることに対する怯えです。仲の良さそうに見える集団。けれどそのひとりひとりの顔を見れば、顔にはその人の魂のありようが隠しようもなくあらわれるものですが、そこにはただ集団から弾かれまいとする怯えだけがあります。当然、それは集団外に対する敵対行動につながりますし、集団内における自己保身のために(例えば非国民を密告することが、自分が愛国者であることを表す最も安易な方法であるように)他の人を攻撃するということにもなります。それを互いに行うわけですから、集団というのは結局、安寧を求める場所などではなく、ひたすら抑圧し抑圧される場でしかありません。これは別に表面だけの友人関係(しかし友人と呼ばれるいかに多くが偽物であることか!)に限らず、およそあらゆる集団に見られることです。
そしてこの怯えは、そのまま恥知らずな行動へとつながります。仲間内でかたまり道を塞ぐように歩く人びと。電車の中で傍若無人に振舞う人びと。これは、必ずしも集団行動においてのみ見られるものではありません。個人でいるときも同様です。しかしこれは語弊があり、彼らは本当の意味で個人でいることなどないのです。それは結局、仲間でない人びとなど人間ではないという意識の発露でしかない。だからこそ、彼ら/彼女らは少しでも他のひとに注意されると、異常なほどの激怒を持って反応するかあるいはまったくの無反応を決め込みます。仲間内でない人びとに対して、異常とも言える冷酷さや侮蔑を持って踏みにじろうとしてくる。なぜなら、そのような人びとこそが、彼ら/彼女らのアイデンティティ(しかも何とも安っぽいアイデンティティ)に対する直接的な危機をもたらす故にそうせざるを得ないのです。自己の属する集団外の人間を人間として認めるわけにはいかない。そしてそうしなければ、彼ら/彼女らはその属する集団から排除されてしまうでしょう。
これは特定の性、年齢、社会的位置などには関係なく、どこにでも容易に見て取れる普遍的な情景です。要するにそれは、独りで立つことのできない人間の抱える怯えです。やがて死に直面したとき――そのとき人間は必ず独りで立たざるを得ないのですが――自分の人生をすべてよしとして肯定できない人間の抱える怯えです。だから人間は神に頼るのか? 違います。本当に神に頼ることができる人間がいるとすれば、そしてそれは確かにいるのですが、それは途轍もなく強い人間です。普通は、神ではなく宗教に頼る。個人の信仰ではなく集団としての宗教。そして結局、それ以降はいままで書いてきたのろ同じことが起きるだけです。宗教に限らず、国家も民族も会社も家族も友人も本質的には同じです。
言うまでもなく、ぼくはそれらのものを否定しているわけではありません。仲の良い家族とはどういったものかなど想像するのも難しいですが、けれどそういったものが奇跡的にしか存在しないとは思わないし、あるいは宗教や国家というものが人間にとって害毒でしかないなどと思っているわけでもありません(ぼくにはいまひとつぴんと来ないものであるとしても)。けれどやはり、それらが成立する前提として、まずぼくら一人一人が個人として存在しなければならないとぼくは思うのです。誤解のないようにつけ加えれば、これは人が人として成るために社会が必要だとかそういった議論をしたいのではなく、自分が生きた、生きているということの確証を得るためには、もちろん自分以外の集団的な何かが必要なのですが、しかし何よりもまずそこには自分で立つ個人が存在しなければならない。存在しないものに対して何かを与えることなど、誰にもできはしないのです。
大抵のひとは、もしかしたらここに書いてあることを当たり前のことだと思うかもしれません。そうでないかもしれません。確かにぼくは、当たり前のことばかり言うとしばしば言われます。けれど同時に、やはり当たり前のことではないともぼくは思うのです。独りで立つということは、あまりにも難しい。
けれど、それでもやはり、ぼくは思うのです。ぼくらは、個でなければならない。独りであることに怯えてはならない。なぜなら、どのみちぼくらは、どうしようもなく個だからです。「みんな違っていて、それぞれが素晴らしい」などという戯言を聴くと反吐が出そうになります。誰もが徹底して誰とも異なるのです。そしてそれは、途轍もなく恐ろしいことです。この宇宙で、すべての時間を通して、ぼくらはそれぞれが本当の意味でただ独りでしか存在していません。その取り返しのつかなさこそ、ぼくらが感じるべき唯一の恐怖です。そして同時に、だからこそぼくらは、それに怯えて集団に逃げ込んではならない。絶対的に異なるぼくらが集団を構成することなどそもそも原理的に不可能であるからだけではなく、その恐怖に立ち向かい、乗り越え、ただ独りの私であり続ける以外に、まさにこの「私」であることなどできようはずもないからです。
そしてそのとき、ぼくらは恥を知ることができます。あらゆるすべての一瞬においてただこの私にしか可能でない形を世界に刻み込む者としての「私」は、自分の存在に対して恥じるようなことをするわけにはいかない。その一瞬は全歴史を通して唯一の点として永遠に残されるが故に、ぼくらは決して自分に対して恥ずかしく思うようなことをするわけにはいかなくなる。けれどもそれは不可能なことです。すべての瞬間において恥じることのない生を送るなど、もはやそれは人間業ではないし、もしできると言うのであれば、それはすでに、単なる恥知らずに過ぎないでしょう。だからこそ、ぼくらは自分の生を恥じることになる。常に恥じ続けることになる。唯一のものとして存在したぼくらがその唯一性に見合うだけのことを為しえていないことに対する根源的で原理的な恥。
不可能とも思える恐怖を乗り越えた向こうにあるのがただ無限に連なる恥に塗れた生だとするのであれば、そこにどんな価値があるというのでしょうか。けれども、ぼくは、それこそがこの世界に生きるということが意味している唯一の価値だと思うのです。怯えることなく、恥を知り、そして死ぬこと。もしそれを成し遂げられるのであれば、そのとき初めて、ぼくらはきっと、他の誰のものでもない自分の生を誇ることができるようになる。
さて、そんなことを話すと、相棒はぜんぜん納得しないのです。「生きるってそういうことじゃない気がする」と彼女は言います。うん、ぼくもそんな気はするのです。どうもぼくは、人間としてどこか基本的なところが抜けているようです。それが何なのかと訊かれるといまだに良く分からないのですが、けれど彼女と手をつないで歩いていると、何となく、ぼくに欠けている何かが掴めるような、そんな希望が持てるのです。