いまだ見知らぬ誰かを愛すること

子供のころから音が聴こえなくなることに対して大きな恐怖を感じていました。身を守るためには、自分の周囲をつねに警戒していなければなりません。視覚と違い、聴覚は全方位性の感覚ですから、背後から誰かが近づこうとしても、注意さえ怠らなければ容易に気づくことができます。小学校低学年のころはすでにそんなふうにして生きていました。いまでも聴覚に干渉されるのは非常に苦手ですし、不安になります。どんなにおいしいというレストランでも、うるさい音楽がかかっていたり酔っ払いが騒いだりするようなところには行きたくありません。自動車が嫌いな理由も、そのひとつにはあの暴力的なエンジン音があります。声の大きいひと(単に大きいのは良いのですが、暴力的な威圧感を持った大声のひと)も苦手です。そうして、周囲の音が聴こえなくなるので、耳までかかる帽子も嫌いです。耳に触られるのも嫌いです。

じゃあ音楽なんて聴けないだろうという話になりますが、確かにそうでして、ヘッドホンで音楽を聴くのは、ふだんはあまりしません。聴いているとき後から誰かに襲われたら防ぎようがないからです。けれど同時に、爆音で音楽を聴くときもあります(もちろんヘッドホンでですが)。たいていそれは、精神的な疲労がピークに達してるときです。だいたいにおいてそこにはある種の自己破壊衝動がともないますので、そういうときは普段ハリネズミのように身を守る、潜在意識レベルにまで刷り込まれた防衛本能が疎ましくなるのです。大音量の音楽で、自分のけちくさい自己保存欲を吹き飛ばしてしまいたい。

もうすぐ父の納骨なので、きょうは骨壷に父の好きだったいろいろな小物を入れました。ぼくに似て、いや逆ですね、ぼくが似たのですが、骨格の頑丈な背の高いひとだったので、骨壷はけっこう一杯です。けれどもああこりゃこりゃちょっと失礼、などと呟きつつ父の骨を詰めなおし、音楽をいれた携帯プレーヤーや万年筆などを詰め、また蓋を閉めました。何故かその後頭痛がひどくなり、しばらく身体を休めていました。けれども、そんなときにぼんやりと物語を考えるのはとても楽しいです。書けるかどうかはともかく、きょうもひとつ、お話を思いつきました。そうして、少し論文の手直しをしました。とある出版社から、自分の論文が片隅に載った本が郵便で届きました。きょうも一生懸命生きたといえる日だったような気がします。

前に書いたかどうか覚えていませんが、ぼくはいま、共生倫理を学んでいます。共生といっても、ただ隣のひとと仲良くしようとか、そんなことには、ぼく自身はあまり関心がありません。いや関心がないわけではないけれど、「隣のひと」っていう言葉をあまり信用していないんですね。そんなひと、本当にいるんでしょうか? 異なるというのであれば、何よりもまずこのぼくからして、ぼく自身と異なっているはずです。そうして同時に、ぼくのまだ見ぬ、想像さえできない誰かさんこそ、どのように共にこの世界で生きることができるのかを考えなければならない相手であるはずです。隣人って、何でしょうね。

この前ゼミ発表がありまして、こんど投稿予定の論文について話したのですが、その後の質疑応答でおもしろいなあと感じることがありました。あまり詳しくは書けないのですが、その論文で、ぼくはバトラーをひきつつ、自分が想像もできないような規範に従い生きる他者への開かれこそに、自らの規範に囚われた「わたし」が持つ人間という概念の幅を広げる可能性があるのだということを書いています。ちょっと乱暴なまとめ方ですが、まあそんなようなお話です。けれども、あるひとがこのように言いました。想像もできないような他者との共生といっても、それを本当に想像するのはとても難しい。むしろそれより、自分の身近な、想像できる人びととの共生から話を始めるべきではないのか?

なるほど、それはまったく正しい意見だと思います。けれどもやはり、ぼくは思ってしまうのです。隣人って何だろう。そんなひと、本当にいるんでしょうか。『倫理〈悪〉の意識についての試論』において、バディウはこう言っています。

「無限の他性とは、端的には、あるいということce qu’il y aなのだ。いかなる経験であれ、無限の差異の無限に配備されている。私自身についての反省であるかに見える経験でさえ、ある統一の許でなされる直感といったものではなく、さまざまな差異化の迷宮であり、それゆえ「私はひとつの他者である」と宣言するランボーは間違ってはいないのだ。例えば、中国人の農夫とノルウェイ人の若い将校とのあいだには、私自身および私自身を含めた誰でもよい誰かとのあいだにあるのと同じだけの差異があるのだ。

同じだけの、だがしたがってまた、それ以上でも以下でもない、差異が」(『倫理〈悪〉の意識についての試論』アラン・バディウ、長原豊、松本潤一郎訳、河出書房新社、p.48)

要するに、すべてのひとが徹底して他者だと、ぼくは思うのです。存在しない身近な隣人などよりもむしろ、想像さえできないけれど確かに存在している他者をこそ、ぼくは出発点にしたい。身近な隣人という言葉に、ぼくは何か、共生とは別のイデオロギーが隠されているように(無論それを非難しているわけではなく、たんにぼくはそうしたくない、というだけの話ですが)思えてしまうのです。

バディウはむしろぼくが書いているような共生倫理に対する鋭い批判をしているひとで、だからその批判を乗り越えるようなものを書かなければならないし書いているつもりではあるのですが、しかしやはりその主張は非常に鋭いものがあります。

「旧ユーゴスラヴィアでの戦争を全面的に取り扱ったあらゆる記事やコメントでいつも繰り返されたある所感から、普通そう思われている以上の驚きが感じ取られねばならない。ある種の主観的興奮やけばけばしい悲壮感に動かされて書かれたのだろうが、そこでは旧ユーゴスラヴィアでの残虐行為の数々が「パリから飛行機でたった二時間」の場所で起きているという指摘が示されている。もちろんこうした記事の書き手たちは、人権、倫理、ヒューマニズムにもとづく介入、〈悪〉が恐るべき回帰を暴力の悪循環として操っているという事実、こうしたことすべてを自然なものとして引き合いに出している。だがこうした観察は即座にその不条理を曝すことになる。すなわち、倫理的諸原則、人間の犠牲的本質、「権利は普遍にして侵すべからず」という事実がそんなに大事なら、なぜ飛行機旅行でかかる時間が重要だというのか? 「他者の承認」が大切なのはこの他者がある意味で身近なときだけ、とでもいうのか?」(同書、p.61-62)

その通りだと思うのです。ぼくはやはり、自分の「身近な人間」から始まる共生倫理というものを信用することはできません。

けれども、きょう、父の骨壷の周囲を掃除していたとき、ふと、そこにお供えしておいた加藤周一の『私にとっての二〇世紀』を手に取り、ぱらぱらとめくっていたら、次のような文章にいきあたりました。ちょっと長いですが、引用します。

「たとえば、孔子の牛のはなしを考えてみましょう。孔子は重い荷物に苦しんでいる一頭の牛を見て、かわいそうに思って助けようと言った。すると弟子は中国にはたくさんの牛が荷物を背負って苦しんでいるのだから、一頭だけ助けたってしようがないのではないかという。孔子は、しかしこの牛は私の前を通っているから哀れに思って助けるのだと答える。それは第一歩です。

第一歩というのは、人生における価値を考えるためには、すでに出来上がった、社会的約束事として通用しているものから、まず自らを解放することです。たとえば牛に同情するのだったら、統計的に中国に何頭の牛がいて、それに対してどういう補助金を与えるとか動物虐待をやめるような法律を作るとかさまざまな方法でそれを救う必要がある。それは普通の考え方です。その普通の考え方から解放される必要があるのです。どうしてその牛がかわいそうなのかという問題です。たくさん苦しんでいるのだから一頭ぐらい助けてもしようがないという考えには、苦しんでいる牛全部を解放しなければならないということが前提にある。なぜ牛が苦しんでいるかへの答にはなっていない。牛が苦しんでいるのは耐えがたいから牛を解放しようと思う、どうしてそう思うかというと、それは目の前で苦しんでいるのを見るからです。だから出発点になる。やはり一頭の牛を助けることが先なのです。

一人の人の命が大事でない人は、ただ抽象的に何百万の人の命のことをしゃべっても、それはただ言葉だけであって、本当の行動につながっていかない。行動につながるのはやはり情熱がなければならない。その情熱の引き金はやはり一人の人間、良く知っている人たちの存在です。アンゲルプロスの自伝的な感じのする映画『永遠と一日』に出てくる偶然町で出会った見ず知らずの少年です。一日の中に永遠を見なければ永遠はない。一日は一日であって大したことはないというのだと、永遠というものは見えない。だから、もし永遠というものがあるとすれば、一日の流れが永遠なわけです。難民となったたくさんのアルバニア人と一人の少年とは同じです。だから『永遠と一日』では、主人公の男は危険を犯して一人のアルバニア人の少年を助ける。どうしてかというと、一人の少年の運命は、アルバニア人全体の運命と同じだからです。そこから事が始まるということをアンゲロプロスは言っている。孔子からアンゲロプロスまで流れている考えの原点は同じだと思います。文学の目的はそういうことがわかるためにあると思う。」(『私にとっての二〇世紀』加藤周一、岩波現代文庫、p.245-246)

父は加藤周一が好きだったので、父の死後出版されたこの本をお供えし、そのままにしていたのですが、たまたまきょう手にとり、開いたページにこのようなことが書かれていたことを不思議に思いました。

一人の少年から無数の人間へとつながっていくこと。たしかに、そうかもしれません。ぼくには一人の人間を想像することがとても難しい。自分の思想が、つねに抽象性へと引きずられているのを感じます。それはもしかしたら目的ではなく手段を愛するテロリストの論理かもしれません。けれど、ぼくはやはり、そうではない! と言いたいのです。想像もできない人びとを想うことは、決して不可能ではないはずです。恐らく一生出会うこともないであろう人びとに与えられている苦しみに対して心底怒ることも、決して不可能ではないないはずです。具体的な「誰か」を愛せないとしても、だからといって愛そのものがないとは、ぼくは決して思わない。

爆音でライヒを聴きながら論文を手直ししつつ、そんなことを考えていました。

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