なぜ書くのか、などと言うと偉そうに聞こえてしまいますが、そういうわけでもなく、ぼくの書く文章はあまりに拙いかもしれませんが、それでも書かなければならないという衝動がある限り、なぜ書くのかということは、つねに自分に対して問わなければならないことです。
去年から今年にかけて、ぼくは幾つかの死に関係しました。しばしば、死者は生者の心の中で生き続けると言います。これはたしかに真理かもしれません。けれどぼくは同時に、生者こそが死者によって心を、少なくともその一部を殺されるのだと思っています。誰かと関わるということは、自分の心が変化し、それまでとは異なる新たな命を手にする、ということです。また、そうでないのであれば、ぼくらが誰かと関わる意味などないでしょう。自分が変化しないのであれば、それは要するに、ただ独りでいるのと同じことです。けれど他者と関わるとき、ぼくとその誰かさんとの交わりによって生まれた新たな自分というものは、その二人の存在によって保証されるものです。ある人は、だからこそその片割れが死んだ後でも、その一部が残った片割れの心の中に生き続ける、と言うのでしょうし、またある人は、だからこそ片割れが死んだとき、生き残った片割れの心もまた同時に死ぬのだ、と言うでしょう。どちらが正しく、どちらが間違っているということではありませんが、しかしぼくは、いつも後者の見方に囚われています。ぼくらは生きるためには人と関わらざるを得ませんが、同時に、だからこそぼくらは、生きようとすれば生きようとするほど、常に、絶え間なく、自分の中に死を内包し続けていかざるを得ません。
死は自分の外に独立してあるものではなく、ぼくらの内側に、ぼくらの一部として存在しています。にもかかわらず、それは完全な暗闇で、無で、そしてそれらでさえありません。だからこそ、それはぼくらが認識できる、認識そのものとしての「ぼくら」であることの基盤を根源的に揺るがします。そしてだからこそ、ぼくらはそれに形を与えようとする。どうにかして表現しようとする。それは言葉でも写真でも絵でも音楽でも、いやもっと漠然とした、生き方とか笑い方とか、そういったことを通して形を与えようとする。けれどもちろん、そもそも形を持たないものを形として表現しようとする以上、それは最初から矛盾しており、不可能な営みであることが約束されてしまっています。
誰かが死んだときに、それをそのまま悲しいと、ぼくは言えません。それは、悲しいという言葉によっては(あるいはそうでなくとも、要するに悲しみを直接的に表現することによっては)、ぼくが感じているもの、あるいは感じることができなくなってしまったものを表すことは決してできないとぼくが思っているからです。それはぼくにとってあまりに安易で、失われたものへの想いを放棄することにしか感じられません。念のため申し上げれば、他の人が悲しみを悲しいという言葉によって表すことに対しては、まったく違和感を感じません。むしろ、例えば相棒がストレートに悲しみを表現するのを見ると、それは人間として自然で、美しくさえあると感じます(これは別段、彼女を理想化しすぎているとかそういった話ではありません)。ですから、ぼくがここで書いていることは、あくまでぼくの個人的な感覚の問題であり、ぼくがとるべき態度の問題です。
結局のところ、ぼくは表現できないものの周りを、いつまでもぐるぐる、一向に近づくことなく回り続けることになります。しかし考えてみればそれは表現と言われるものすべてに共通することでしょう。絵を描くとき、もし目の前にあるものをそのまま表現したいのであれば、それは写真を撮れば良い。同時に、写真を撮ったところで、それは自分が見たもの、表現したいと思ったものをそのまま写し撮れるわけでもありません。ぼくらはある対象をそのままに表現したいと思ってるわけではないし、かつまた、そのままに表現できるわけでもありません。それはどのような表現にも共通して言えることですし、その断絶があるからこそ、あらゆる表現は唯一独自のものであり、表現は無数のバリエーションを生み出すことができます。けれども、その対象が死であるとき、ぼくらはさらに重ねて、もうひとつの断絶を抱え込まざるを得ません。すなわち、対象をそのまま表現できるわけではなく、表現したいわけでもなく、なおかつその対象自体が存在しないという断絶です。
ぼくらはぼくらである限りにおいて、自分自身を表現しなくてはなりません。表現するためには他者が必要ですし、また他者なくしては表現すべき自己も存在し得ません。けれど自己認識が生存を前提としたものである以上、他者はやがて必ず死者として現れることになり、それはぼくらの中に絶対的に表現し得ないものとしての死を導きます。ここでぼくらは初めに戻ることになります。ぼくらは、ぼくらである限りにおいて、自分自身を表現しなくてはなりません。しかしそのぼくらとは、決して表現し得ない他者の死を内包したものであって、要するに、生きるということは、つねにかつ必然的に、矛盾に耐え続けるということなのだとぼくは思っているのです。