「ごめん、待った~?」「ううん、いまきたところ」みたいなシチュエーションに、昔あこがれてた。いやそうでもないけど。ぼくの相棒は約束の時間に来るということがまずなくて、一方ぼくは遅刻するということがない。こう書くとよくある話っぽいが、ぼくらはこれに関して命を削るような闘争を二十年近くにわたり繰り広げてきた。だがいまだに彼女は遅れてくるし、ぼくは時間前に来て無駄に待つことをやめようとしない。ほとんど不死の神々の戦に近いのではないだろうか。と思いつつ、きょうはひさしぶりに二人で美術館に行ってきたのだが、相棒はめずらしく、というより奇跡的に約束の時間の十分前に到着した。だがまだまだ甘い。ぼくはさらにその四十分前には到着しており、暇だったので母方の墓地まで歩いていってお参りをしてしまった。デート前に墓参り! これは流行るね。「ごめん、待った~?」「ううん、いま拝んできたところ」
というわけで、きょうのお目当ては国立新美術館で展示中の「野村仁 変化する相 ― 時・場・身体」。地下鉄千代田線の乃木坂からすぐだけれど、まずはお昼ご飯。我が家の墓地がすぐ近くなので、せっかくなので幼稚園のころから墓参りの後に親戚一同で昼食を取るのが恒例だった中華料理店に彼女を連れて行った。ここには年取った鸚鵡がいて、ぼくが幼稚園のころすでに年取った感じだったけれど、きょうもちゃんとお出迎えしてくれた。ちょっと嬉しい。でもこの鸚鵡はなかなか喋ってくれなくて、ぼくが毎回一生懸命話しかけても、答えてくれたのはこの三十余年で恐らく三、四回しかない。けれどきょう、帰りがけに相棒が何やら話しかけたら、お返事をしてくれた。これは天運というかまあ、嫉ましかったです。ぎちぎちぎち(歯を噛み鳴らしている音)。だいぶおなか一杯になってしまったので、しばらく墓地を散歩。墓石の上の黒猫にガンを飛ばされた。再び国立新美術館に戻り、企画展へ。
結論から申し上げますと、ぼくはあまり感心しませんでした。その原因は大まかにふたつありまして、一つは暴力性を感じたということ。例えばぶった切られた木に化石化した木を継ぎ足した作品は、恐らく作者の意図とは正反対に、生命への冒涜、死体を弄ぶ不気味さ、「芸術」を自称するものの傲慢さをしか、ぼくは感じられませんでした。あるいは幾つかの色のLEDで照らされた植物たち。まるで生体実験の生々しい現場を見せられているようで不快です。漏れ出した水が痛々しい。それが狙いであれば、悪趣味であれ少なくとも製作意図に沿ったものであると言えるのでしょうが、しかし本人が書いたものではないにせよ「自然に寄り添い、宇宙のリズムに従う」とか「自然と科学技術との共生」などといったキャッチコピーを見るに(少なくとも作者自身が了承したはずですし、していないとすればそれは無責任です)、強い違和感だけが残ります。ソーラーカーのプロジェクトも、何故わざわざアメリカまで行って、トラックを随行させながら走らなければならないのか。それがどうして自然との共生につながるのか、ぼくにはまったく理解できません。
もう一つは、これは先のものと重なるかもしれませんが、物事の捉え方があまりに恣意的でしかも浅く、かつ押しつけがましく思えます。例えば月の運行や鳥の飛行の軌跡から音楽を作り、そこに万物を支配する調和とか何とかを見出すのですが、ちょっとこれはどうでしょう。どうしてその「音楽」が「五線譜」に表され、ある特定の「楽器」で演奏されるのか。五線譜や楽器、そして音楽という言葉の歴史や背景を無視して宇宙の摂理などに結びつけるのであれば、それは無神経も良いところです。星の運行が「音楽」になるその過程すべてにおいて存在するのは、ただひたすら、人間の恣意のみです。そしてもちろん、それはそれで良いんです。あるものに何を見出そうが、それはその人の自由です。それを芸術だと言うのも勝手でしょう。しかし「宇宙の摂理」とか何とか、そんなことを言い出した瞬間、その言説は暴力性を帯びたものにならざるを得ません。芸術家を名乗る者が、暴力を肯定するにせよ否定するにせよ、少なくとも無自覚であってはお話にならないとぼくは考えます。
いやまあ、この方の作品が好きだという方がいるのなら、それはそれで良いのです。別に批判したいわけではない。批判しなければならないほど力がある作品だとも感じませんでした。それにどちらかと言えば、ぼくの感じ方の方が異様で病的なのかもしれません。それもまたどうでも良いことです。彼のアプローチによって自然との共生とやらが可能になるのであれば、それはそれで良し。ぼくはぼくの感じ方に従って進むのみです。
それよりも深刻に感じられたのは、地下のミュージアムショップです。これは本当に最低だった。あそこの担当者だか責任者だかは、恥じるべきですね。卑しくも国立の美術館として、美術館が果たすべき機能を果たしていないどころか、むしろ穢しています。「売らんかな主義」の圧力の下ぎりぎりの努力だと言うのなら、そんなん、ぼくらの誰もがそういった中で、なおかつ自分の技術や知識に誇りを持って戦っているのだから、言い訳にもなりやしません。心の底から、あの売り場の荒廃した雰囲気にはぞっとしました。
そんなこんなで、国立新美術館でした。とりあえずしばらくは行くこともないでしょう。でも、展示室の中を巡る相棒は本当に格好良く美しかった。ぼくは美術館に行っても、基本、作品を見るより、作品を見る彼女を見ているのがいちばん好きなんです。いろいろな美術館に行ったけれど、記憶に残っているのはごく一部の作品と、あとはどこでも、作品を前にした彼女の立ち姿の美しいラインだけです。
ま、のろけではなくて深刻な話なんですけれども。