一月半ちかくブログを書いていなかったのですが、ちょっとそんな感じもしないのです。たぶんネットとは別のところで毎日言葉を書いていたからでしょう。とはいえしばらくブログから離れていると、どうもどんな文体で書けばいいのか、ちょっと戸惑ってしまいます。まあ、書いているうちに調子が戻ってくるでしょう。
ぼくは普段、あまりひとと話すことはありません。もちろん仕事上必要であるとか、大学で誰かに会ったときなどは、極普通に話すほうだろうとは思います。けれども、積極的にだれかと話したいという気持ちはほとんどありません。PHSに電話があっても、よほどのことがないかぎりでることはありません。留守電にメッセージが入っていなければ、こちらから連絡をしかえすこともありません。最低ですね、と言われれば、たぶんそれは、そのとおり。
最近、かなり忙しい日々とを過ごしていたのですが、ある日、ふと手が空いてしまったことがありました。そういうとき、ぼくは掃除をします。べつだん広い家ではないのですが、ひとりで掃除をするには少々手がかかります。やるとなったら、一日がかりです。そうして少し頭をクリアにして、翌日、まだ時間が空いていたので、ひさしぶりに友人にメールを書くことにしました。
ぼくにはほとんど友人がいません。というと語弊があり、ぼくほど友人に恵まれた人間も珍しいだろうとも思っています。仲良しごっこなど、見ただけで反吐がでそうになります。たった一人でも友人と呼べる人間に出会えたのなら、それは本当の奇跡でしょう。
けれども、友人だからといって、その人がいま何をしているのか、むろんそんなこと、ぼくに分るはずもありません。毎晩電話をしているわけでもなく、メールをやりとりしているわけでもない。数年間会っていない人だっています。であれば最悪、もしかしたらすでに死んでいる可能性だってあるでしょう。これは決して、言葉遊びでいっているわけではありません。
ぼくはたいてい、その友人とは完全に個人的なつきあいをしていますから、その家族からぼくに連絡がくることなどまずないでしょう。そもそもぼくの存在を相手の家族が知っているかどうか疑問ですし、連絡先となれば間違いなく知られていないことには確信があります。そう書くとなにやら不気味に思われるかもしれませんが、さてどうでしょう。そうかもしれませんが、ぼくはそれでよいと思っているのです。誰かが友人であったとしても、その家族や知人など、ぼくの知ったことではありません。人間の関係はつねに個と個のものであり、それを超えたところにあるものはすべてノイズにすぎないのです。
だからいま、相手が元気に暮らしているかどうか、ぼくには何の手がかりもありません。それは相手にとっても同様で、ぼくが本当に元気で暮らしているのかどうかは知りようがないでしょう。ぼくらはふだん、電話やメールでやりとりをすることによってつながっているわけではない。友人とは、少なくともぼくにとっては、そのようなものではない。物理的なつながりに保証されるようなものではない。したがって死んでいようが生きていようが、きっとそれも、大した問題ではない。
とはいえ、もちろん、元気で暮らしているのならそれに越したことはありません。ぼくはメールを何通か書きました。返事は来るでしょうか? 数日おいて、ぽつりぽつりと、地球上のどこかからか、ばらばらとメールが返ってきます。返ってこない場合もあります。向こうからある日ふいに連絡があることもあります。そうして数年ぶりにあったりすることもあります。そうでないこともあります。
お互い、誰もが、つねに独りです。あるときたまたまひさしぶりに顔をあわせ、何気ない言葉を交わします。元気だった? もちろんさ。きみは? ぼくも元気だったよ。ある日、気がつけば誰かがいなくなっています。それは決して避けようのないできごとです。稀に出合ったその瞬間を永遠にすること。たぶんそれだけが、ぼくらが死に打ち勝つ方法であり、それに確信を与えてくれることこそが友情なのです。
きみは元気だったかい? ぼくはいつもどおり元気だよ。たぶん千年後も一万年後も熱的死のあとでさえも、ぼくはきっと、元気だよ。