いま書いている論文は、メディア史を語りなおすみたいなことが目的なのですが、その一環として宗教史や美術史を勉強しなおしています。そのためにだいぶ新しい本を手に入れて読んでいるのですが、日本基督教団出版局から出ている『死者の復活―神学的・科学的論考集』がなかなか面白い。もっともだいぶ特殊な内容なのでお勧めするわけではありません。今回のブログタイトルは、N.ヘルツフェルド「サイバネティックス的不死対キリスト教的復活」の一節(p.274-275)です。ちょっと引用してみましょう。
科学と技術の中心的目的は客観的、物理的な世界を理解しかつ制御することである。[…]そのような世界においては、サイバネティックス的不死は「より多くの時間」となり得るだけである。物理的宇宙の限界ということを考えれば、それは終わりのない時間ではなく、またわれわれはそれがそうあって欲しいと望むだろうと私は推定することもできない。[…]地上の命は天国でも地獄でもない。それは、大きな苦難が大きな喜びと並んで存在する中間の領域である。Alle Menschen müssen sterben.全ての人は死なねばならない。命は、そのようでなければ、その味わいを失うだろう。
他にも興味深い論考がいくつもあるので、ゆっくり読んでいこうと思います。
そういえば最近は銀座に近寄ることもなく教文館に寄ることもなくなったのですが、まだあるのでしょうか。あるといいですね。上の階にある洋書フロアとか、とても良い雰囲気なので、機会があればぜひ立ち寄ってみてください。ちなみにぼくは外国語どころかそもそも人語も良く分からないのですが、昔はずいぶんうろうろしていました。あそこでシリア語辞典を買ったのも良い思い出です。いまとなっては鈍器以外の使い道はないけれど。
先々週くらいだったか、仕事を少し早めに上がった日、そのまま延々一時間ほど電車に揺られ、東京に出ました。丸善で資料本を買い、やはり仕事を終えた彼女と落ち合い食事をして、ふたりで八重洲のブックセンターに行きます。特に何を買うということでもなく徘徊し、気になるタイトルをチェックしていきます。徘徊とはいってもふたりでそのペースは異なり、彼女はあらゆるものに引っかかってしまうひとで、一方ぼくは、ただ自分の注意を強烈に引き寄せるものだけに焦点を絞ります。そこで『イメージ、それでもなお―アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真』(G.D=ユベルマン、平凡社)に心惹かれ、しかしそのときは手持ちのお金が足りなかったので――クレジットカードで買い物など、ぼくのようなアナクロな人間には怖ろしくてできません――後日、手に入れました。これもまた優れた本で、印象的な文章が幾つもあります。34ページから引用してみましょう。
写真を撮るのは技術的には非常に簡単なことだ。そして多くの様々な理由にかこつけてそれをすることができる。善き理由、悪しき理由、公的であれ私的であれ、公言するにせよしないにせよ、暴力の積極的な助長として、あるいは暴力に対する抗議として、等々。単なるフィルムの切れ端――歯磨き粉のチューブに隠せるほど小さな――が、現像や複製、そしてあらゆるサイズへの拡大を、無限に生み出すことができるのである。写真はイメージそして記憶と結託している。したがって写真は卓越した感染力を備えているのだ。
その後、いま書いている論文の資料集めをしているときに、バイオメトリクスについても書くので、『指紋論―心霊主義から生体認証まで』(橋本一径、青土社)を買いました。これもとても面白い。それで、しばらく会社の行き帰りで読んでいてふと筆者の紹介欄を読んでみると、訳書になにやら覚えのあるタイトルがあります。『イメージ、それでもなお』。ちょっと驚きました。無論、橋本一径さんという方が非常に優秀なので自然と目につくとか、あるいは考えてみれば専門ジャンルがぼくのそれと重なってるので当然、ということなのかもしれません。でも、そういう偶然なのか必然なのか、ともかくそういうのって、不思議で楽しいですよね。もっとも、そんなことで不思議がるのはぼくくらいのもので、普通のひとは著者や訳者を最初からしっかり把握しているのかもしれません。
きょう、紀伊国屋の南口店が閉店になるというニュースを聞きました。そもそもぼくの年齢だと南口店は新しい印象があるのですが、それでもできてから20年近く。でもよく覚えています。開店してからしばらくした頃、当時は別のところで働いていた彼女が仕事を終えるのをビルの前で待ち、ふたりで散歩をしてときには新宿まで出て、途中の道では空いていれば紀伊国屋でも覗こうよなどと言いつつぶらぶらしているうちに閉店時間を過ぎ、ということがしばしばありました。
つい最近紀伊国屋に立ち寄ったとき、人文系の棚の荒みぐあいに驚きました。閉店のニュースを聞いたとき、その情景を思いだし、むべなるかな、という気がしました。本のあるところへ行けば、自分にとってほんとうの意味で必要な本を見つけ出すことができる。それが、数少ないぼくの才能のひとつです。でも、それももう、すぐに時代遅れで無用のものとなるのでしょう。