アウフ・ヴィーダーゼーエン!

最近、ふたたび歩きだした。普段から歩いている方だけれど、結局活動量計を買ったので、一日のノルマを決めてテクテク歩いている。数日前、職場であまり歩数を稼げなかったので、地元に帰ってきてからひさしぶりに近所を歩き回った。昔、まだ父が生きていたころ、とはいってももうだいぶ身体が弱っていたので、たまには目先の変わった身体に良さそうなものでも買って帰ろうかと思った。そうだ、このブログをちょうど書き始めた時期だったかもしれない。もう8年以上前のこと。そうしてたまたま通りかかったところに、天然酵母のパン屋があった。ぼくはそこで、父に天然酵母のパンを買おうと思った。

しばらく前に、彼女と二人で、仕事先近くにあるホテルに泊まった。特に意味はない。夜、彼女と落ち合い、素泊まりのプランだったので、夕飯を買いに近くのコンビニまで歩いて行くことにした。近くだよ、と彼女に言う。その日はだいぶ冷え込みが厳しかったのだが、といってもぼくは寒いなどとは感じなかったけれど、彼女は近くならマフラーはいらないよね、と言った。それからぼくらは、ぼくの主観的にはほんの一瞬、彼女の主観では延々歩き、コンビニにつく頃にはもう遭難寸前になっていた。時間や空間、環境の認識って、ひとによってずいぶん違うよね、ほら、ユクスキュルも……、そういう問題ではない、と彼女は冷たく遮る。でも、そのホテルは工場地帯にあり、食品工場も多々ある。だから翌朝、ぼくらは互いの認識として共有し得るほど近くの直販店でさまざまな食品を買い込み、ほくほくしながら家に帰っていった。

そんなことがあったので、ぼくはふと、昔散歩の途中で見つけたパン屋のことを思いだし、こんど天然酵母のパンを買っていってあげるよ、と彼女に言った。ちょうど歩数も足りなかった日、だからぼくは、まだその店がやっているかどうかを確認しようと思い、暗い住宅街のなかをのたのたと歩いて行く。不思議なことに、徹底的に記憶力の悪いぼくだけれど、散歩をした道、そのときに見た光景というのは、決して忘れない。でも、その記憶の中に、歩いていたぼく自身は存在しない。それは昔読んだことのある本を読み直すような不思議な感覚だ。

もう、次の論文を書き始めなければならないのだけれど、クレームや不具合に追い立てられる日々、なかなか、電車の行き帰りに他人の論文や分厚い研究書や白書を読む気にはなれない。だから昔読んだ小説をひっぱりだしてきて再び読み直したりしている。もう、見当がついているかもしれないけれど、いま読んでいるのはアーヴィングの『ホテル・ニューハンプシャー』だ。でも、最後までは読めないだろうと思っている。良い物語だけれど、たぶんぼくは、もうこういう物語を読むことはできない。だけれど、別段、それは寂しいことではない。一度読んだことのある物語であれば、どのみちそれは、すべて頭に残っている。

いずれにせよ、次の論文を書き始める前に、今回の研究会誌をあちこちに謹呈しなければならない。とはいってもこれが重いので、珍しく研究仲間に我が家へ来てもらい、共同作業で発送準備をすることになった。珍しく? 考えてみると、家に誰かを呼ぶなど、二十年ぶりくらいのことかもしれない。書いていて自分の性格がちょっと怖くなってきた。まあいい、ともかく、当日は郵便局が閉まっているので、ある程度はポストに投函することにした。ぼくひとりならその場で歩き回れば良いのだけれど、仲間も一緒なのでそういう訳にもいかない。最適なルートを決めておこうと思い、夜半にごそごそと家を抜け出し、近所にあるポストを巡る旅にでた。

ひさしぶりに歩く道もあり、周囲の変貌ぶりにちょっと驚く。特に昔通っていた高校の周辺など、もはや何の面影もなく、地形すら変わっている。それでも、そこに昔ぼくが見ていた光景を重ねがけするのは簡単なことで、二重写しになったその光景のなかを歩いてみるのは、それはそれで、そこはかとなく寂しくはあれど、どこかに楽しさもある。その楽しさとはたぶん、記憶と現実が重なるところに現れるリアリティへの実感、そう、まるでぼくらが小説を読んでいるときのように「その世界」を実感している誰かの喜びの投影なのだと思う。

歩いて行った先に天然酵母のパン屋はなかった。代わりにありきたりなチェーンのクリーニング店ができていた。その看板ももはやだいぶ古ぼけていたから、パン屋が潰れたのもここ最近ということではないだろう。結局、そこで天然酵母のパンを父に買うことはなかった。彼女には、また仕事先近くの工場直販店で、何かを買っていこうと思っている。