夜空のミンコフスキー・ダイアグラム

最近、暇な時間にprocessingでandroidのアプリを作る遊びをしていて、うわあ、何だかほんとうに暗い生活だなあ、ともかく以前に購入したSIMカードなしのスマートフォンにインストールして動かしたりしています。このスマートフォンにはCDからダビングした音楽をたくさん入れてあるので、プログラミングをしている間はそれをかけっぱなしにしたりもします。でも、最近のアプリはあれですね、ダウンロード前提でデザインされているから、ぼくみたいにCDからダビングしてローカルで聴くという人間には、ちょっと使いにくい。慣れればそうでもないのかもしれませんが。

やはり根が古い人間なのか、音楽はCDで買う派だし、本は紙が好き派です。ダウンロード販売などもってのほか。いやまあそこまで原理主義的にやっているわけではありません。カメラだって銀塩ではなくてデジタルだしね。でも、kindleとかはどうもやはり肌に合いません。紙の質感とか、匂いとか、そういったものすべてを含めて、一冊の固有の本です。それが好きなんですよね。

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近頃、AIとかDeep learningとかいう言葉が世間を騒がしていますが、ほんとうにその下品さが嫌で嫌で、いやもちろん、それを専門に研究しているひとたちが口にするのは構わないのですが、どうも何だか、ほんとうにそのことを話しているのかな? という気がしてしまいます。先に『現代思想』のことを腐しましたが、でも、人工知能特集のときの西垣通さんの論文だけはさすがに読む価値があります。ああいった議論をこそメディアは冷静に取り上げるべきだと思うのだけれど、やっぱりあまり面白くないからということになってしまうのでしょうか。

まあ、あんまり大した話ではありません。AIとかってね。やがていつかどうなるかは、それはもちろん分かりません。ぼくは反技術主義者ではないし、技術は行けるところまで行くしかありません。J=L.ナンシーの言葉を借りれば「そもそもそれ自体として限界を知らないものに対して限界を設定するというのは問題となりえない」。これは『フクシマの後で―破局・技術・民主主義』という本からの引用ですが、この本はほんとうの名著です。機会があったらぜひお読みください。そう、それで、技術はどこまで行くか分からないし、「理性でコントロールしよう」とか言っちゃっている限り、人間は決して技術の本質を知ることもない。それでも、少なくともいまの時点において、AIは技術的な問題というよりも、単純に無知と経済的な問題なのだとぼくは思っています。

もちろん、ぼくだって無知です。無知無知している。でも同時に、ぼくらは誰も無知ではない。囲碁の話とかもありますが、あれほんとうに、ぼくは不愉快だし、怖いのです。だって、囲碁ってそんなものではないですよね。石の手触り、それを盤面に置くときのカチリという音、対面している棋士たちの表情、呼吸、その場全体の匂い。定石の歴史、その一手一手に想いをはせること、自分の打った一石、その一瞬のことをやがていつか誰かが想うかもしれないと想うこと。うーん、5桁の乗算を人間よりも電卓の方が素早く行うことに対して感じる以上のことを、どうしてぼくらがいま感じなければならないのかが分からない。でも、感じるのであれば逆に、ぼくらは電卓のなかで起きていることにだって驚異を覚えることができるはずです。だってそれ、人間の歴史が生みだしたひとつの結晶なんだもの。

そんなことを言うとすぐに、お前は反技術主義者だとか言われるし、逆に技術は進むものでしょ、と言うと(言うのですが)、お前は計算機至上主義者か、とか言われる。学会のなかでも一部の仲間以外からはみそっかす扱いですね。えー、クラウドリーフがいると鬼ごっこもつまんねえんだよなあ。まあ良いですけれども、でも、人間の生って、そんな二元論じゃないだろぉ! そうだろぉ! と思ったりもします。

きょう、ついに刷り上がった研究会誌が届きました。ぼくの私用の手持ちは20冊なのですが、たった20冊とはいえ、これが重い。ずっしりしていて、宅配されたのを受け取ってから、よろよろと玄関までの階段を上っていきます。研究者には別枠から配る予定なので、この20冊は自分の知人に配る分になります。これと、あとはちょっと前にできた文芸誌の第2号もセット。興味のない人にはアレなアレですが、でも、なかなかにアレなアレになったという確信はあります。

当然、原稿の入稿はpdfファイルでやります。最後の校正もタブレット上でやりました。そうするとすごくきれいなんですね。表紙のデザインとかは上に書いたprocessingで作っているし、そういったのって、デジタルに映える。でもやっぱりそうではないんですよ。いやそれでも良いんだけれど、別にそれを排斥しようというのではないんだけれど、紙に印刷して仕上がってものは、やはりまた格別です。もちろんそれはデジタルテクノロジーでデザインされたものだし、出力されたものだし、配送されたものです。だから、原理主義的にどちらがどう、ということではない。ないなかで、でもやっぱり紙の本が好きなんだよね、という、その中庸感覚って、実はけっこう気合いと根性がいるものです。こっちだと言い切ってしまえば話は分かりやすいけれど、でも、現実って、そんな二元論じゃないだろぉ! そうだろぉ!

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何にせよ、これを、あちこちに配るのです。ひとつにはNYにいる友人に。彫刻家である彼は、彼女とほとんど同じだけ古くからの友人ですが、いま、情報技術に関心を持ち始めているんだよ、と、このまえ電話で話していました。自分自身の彫刻のスタイルを果敢に変えていくその姿勢には圧倒されます。でも、何より、ぼくとはまったく異なる感覚を持った誰かが、遠くの地で、同じ何かに対して関心をもって制作をしているというのは、とても面白いし、何やらこれは見えてくるのではないかな、という高揚感もあります。

最近、別の友人にメールを書いていたときに、急にルネ・ドーマルの『類推の山』を紹介したくなって、本棚から引っ張りだしてきました。

「おわかりのように、私には試金石がありませんでした。けれども、私たちが二人になったという事実が、すべてを変えるのです。仕事が二倍だけ容易になるということではない。不可能だったことが可能になるのです。ちょうどある天体から地球までの距離をはかろうというときに、あなたが地球上のある既知の点をあたえてくれたようなものだ――計算はまだ不可能です、けれども、あなたが第二の点をあたえてくれればそれは可能になる――そうすれば私は三角形をつくることができるからです。」

三角形! ぼくらの脳内のシナプスが共鳴し、鋭くも荒々しい光の線が、天空に巨大な三角形を生みだします。そうして恐らく、それはただの点と点と点ではなく、それぞれの点がミンコフスキー・ダイアグラムの巨大な円錐が接するいま・こことして、途方もない拡がりを秘めています。

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