体育座りをしていた。彼の唯一の娯楽であり、心の平安を感じていられる唯一の時でもある。と、やおら動き出し、人間ドックから届いたレポートを眺める。どうやら脂質云々の数値が良くないらしい。うんどうしなけあ、などとぼんやり思う。再びやおら動き出し、amazonで運動量計などを物色しだす。何と充実した休日でせう。しかしなかなかこれというものがない。彼女に言えばまた無駄な買い物をと言われるかもしれないが、そういうときこそのメディア論研究者の肩書だ。いや肩書も何もないな、自称か。ともかく「あの、これ、ほら、ライフログとかですね、いまふうの現代情報メディアの、自分の研究にも……」などと立派な言い訳ができる。あ、この人、言い訳って認めている! ともかく、ざっと眺めても気に入ったデザインのものは見つからなかった。結局何も買わず、生きていることによるカロリー消費以外には無駄な活動もなかったので、持続可能な社会的には実質プラスの日だったような気がする。
そんなこんなで連休も最後だ。ただひたすら体育座りをしていた。それはあまりに悲惨ではないだろうか。いえそんなこともありません。三年くらいぼんやり庭のカエルや雑草を眺めて過ごすのもまったくかまわないのです。何となればそれが三億年だって良い。シーラカンス座り。子どものころから訳の分からない頭痛に悩まされてきた。眼球を抉られるような痛み。もう小学生も後半になれば耐えるしかないことには耐えるしかないということを学ぶけれど、幼いときにはこれがきつかった。何しろ理由が分からないのだから。だけれど、やがて学び、ひたすら膝を抱えて座りじっと我慢をすることを覚えた。ぼくの世界に対するスタンスは、けっこう、この辺からも形作られてきた気がする。まあ全部嘘なんですけれども、それでも、その忍耐強さにより、無為な休日にも耐えるし、無為な人生にも耐える。じっと自分の頭のなかを眺めている。
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ところで、彼には幾つかまったく理解されない激怒スイッチがあり、そのひとつが、アイソレーションタンクとかに入れられると発狂しそうになるとかいう、下らない小説に出てくるあの話だ。莫迦ばかしい。無論、一生そこから出られないとかであれば大変だが、それは「一生ずっと続く」ということそれ自体が苦痛なのであって、感覚遮断とは何の関係もない。ジョニーは戦場へ行ったとか、そういう真の苦しみの話をしているのではない。感覚遮断なんてきみ、自分の頭蓋骨のなかで何か考えていれば良いだろう、とぼくは思う。以前、ぼくはスマートフォンをしながら歩いていて事故に遭うとか、そういったものに夢中になっている人間の不気味さとか、そういうことだけを指して情報化社会を批判した気になっている研究者に対して、でもそれは表層的なことで、技術が進歩して拡張現実とかになったら、見かけ上(あくまで見かけ上)そういった危険や不気味さは解消されてしまうんじゃないかな、と思っていた。
でも、たぶんそれはぼくの認識が甘くて、ああいったものの根本的な問題は、自分の頭蓋骨の内側に留まることに耐えられない、ということなのだと思うようになった。ぼくらは瞑想の達人でもないし、何かしら時間を消費するものが必要だ。物理的にでも心理的にでもかまわない。なければ(無からではないにしても、いや、無からのはずがないけれども)自分で作るしかない。でもそれはかなりの労力が必要になる。それなら買えばよい。働いて時間を潰し娯楽を購入し、その娯楽で時間を潰す。そのサイクル自体はこの何万年だかぼくらがやってきたことと別段変わることではない。でも、それでも、システムが提供し得るものには限界があり、そこに生じる空白を、ぼくらは否応もなく自分で何かを作りだして埋めるしかなかった。だからもし、見かけ上でもほぼ労力なしで空白を追いやることができるのなら、そうして技術はそういう方向へ必ず伸びるのだけれど、その技術の形態がどうであれ、所詮そこに結びついた人間の姿は同じになる。
こういう話をするとすぐにパーソナルファブリケーションなどと言ってくるひともいるけれど、それだって結局は同じだ。生み出すということは、そういうことではない。前にも書いたけれど、ギブスンの「冬のマーケット」のような、新しい技術が出てきたときにそこで可能となる、だけれどもそれは「新しい」というよりも「初めて可能になった」芸術、そういったものとは全然異なる。異なるのは何かというと、パーソナルファブリケーションとか言っている連中の、生きていることに対する覚悟のなさ、その一点に由来する。
もっとも、ぼくはやはりそれだけではないと思う。これは半分お伽噺で、結局のところ、人間はそんな在り方にこそ、耐えられるものではない。だから救いがある、のかもしれないし、だからやがては破局する、のかもしれない。
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ぼくは体育座りが好きだ。何となれば三億年だって座っているだろう。でも別段、それは孤独でも排斥でも遮断でもない。そんな「点」は、この世界には在り得ない。頭蓋骨の内側の暗闇にはシーラカンスが息をひそめ、アルファケンタウリからの信号がきょうも微かに届いている。