もうすっかり春で、蟻や蚯蚓が地面を這っています。たくさんの生き物が現れては死んでいく春はあまり好きではありません。けれどもそれは、あまりに脆弱で、他者の痛みを怖れる臆病で卑怯な自分の心根の表れに過ぎません。だけれども、そういった小さな生き物に惹かれる自分の在り方が決して偽善という言葉だけによって片づけられるものではないこともまた確かであり、もともとぼくはそういった物事への関心をこそ強く持って哲学をしているんだぜ、という思いもあるので、できればここ2、3年のうちに、そのことについて多少はまともな論文を書くつもりです。とはいえ物事には順序があり、まずこの一年はメディア史と美術史についてまとめなければなりません。いったい何の研究をしているのでしょうか。しばしば問われ、大抵の場合は理解されません。でも、ぼくの頭の中では、現代情報技術も歴史も美術も信仰も庭のカエルも、みなすべてひとつのナニカを指示しているナニカです。自分もまたそのナニカへと還るべく、生きている限りにおいては何かしらを書いていかなければならないのでしょう。何故なら混沌のなかを方向も分からず足掻くように溺れるように進み続ける以外に還る方法はなく、ぼくの場合はたまたま書くということがその泳ぎ方のひとつだからです。
そうはいっても、しかし食べていかなければなりません。ぼくはもともと欲というのが極端に薄く、せいぜい、おいしいものが食べたい、働きたくない、毎日遊んで暮らしたい、できれば気に食わない連中は島流しにしたいとか、そんなささやかな願いしか持っていません。それでも、そんなささやかでつましい日常を過ごすにも、この社会ではお金が必要です。働かなければならぬ。何かこう、引き出しを開けたら金塊とか出てきませんかね。そういえば先日掃除をしていたら、昨年どこかで喋ったときの謝礼金がでてきてイエイイエイと踊りだしたのですが、その週の交通費にすべて消えました。そんなんなら、独り言を言いながら電車に乗っているのと同じじゃないでしょうかね。違うか。ともかく、いま、ぼくはフリーのプログラマ(何だか胡散臭い響きですね)として食べるお金を稼いでいますが、さすがに、そろそろ個人としてやっていくことの限界を感じています。個人というのは、やはり、この社会システムのなかでは相当に弱いものだと実感します。ですので、昨年あたりから、法人化のことを考え始めました。法人。変な言葉ですね。法的人間。大江健三郎か。それは性的人間か。
どうせ赤字だとか、続くはずがないとか、ビジョンが見えないとか無謀だとかいい年して夢を見るなとか、まあ、いろいろあります。ですが、何度も書いてきたように、そういうことを言う人びとが、ではぼくの人生にかかわりがあるのかというと、本当にないんですね。面白いくらいに無関係の人間が、関係(本来「関係」とはとても重いものです)があるかのようなふりをしていろいろ言ってくる。ぼくの数少ない長所のひとつは、そういう雑音がほとんど聴こえないというものです。だから、やろうと思っています。
研究仲間が時折、「何をしているのか分からないような連中がそれなりにどうにか喰っていけた時代」ということを言います。いまの社会にはそれだけの余裕がないという意味合いで、彼はそんなことを言うのです。でも、ぼくのような対人恐怖症のコミュ障超人からすると、いまの社会の方が、よほど「何をしているのか分からないような連中」が大手を振ってそこいらに居るように感じてしまいます。ほんとうに、連中、いったい何をして喰っているのでしょうか。だけれど、ほんとうは、彼の言うことも分かるのです。彼の言うところの「何をしているのか分からない連中」には連中なりの必死さがあったのではないでしょうか。リアリティと言っても良いでしょう。リアリティとは、当然ですが、本人がそう感じるというだけではなく、それを聴いた誰かにも正しく伝わり共有されることによって初めて生じるものです。そうして、いまそこいらに居る訳の分からない連中に、ぼくはリアリティを感じない。「何をしているのか」という言葉、「している」という部分に、生に対する必死さ、生きていることの恥をまるごと引き受ける覚悟、要するに美学を感じ取ることができない。無論、ぼくが間違っている可能性の方が高いです。何しろ社会に適応できなかった人間なのですから。
そしてそういう自分自身、けれども、世間のひとから見たら、きっと「何をしているのか分からない」人間なのだと思います。それはその通り。それでも、研究者の世界にはうんざりだと言いながらも研究を続けつつ、プログラミングにだって愛はあるんだぜとぶつぶつ呟きながら企業の片隅でプログラムをぽちぽち打ち込みつつ、それらのすべてが自分の人生として統合された在り方を目指してやっていくしかありません。少なくとも人間は、もしそこに自分のリアリティがあると自分自身に対して感じるのであれば、それを共有する誰かが現れるまで、時代をさえ超えて、生きられる限りにおいて生きなければなりません。
「庭のカエルがさ……」と言います。それはただの言葉ですが、だけれども、同時にそれは、世界に通じる絶対的に固有な、ひとつのリアルな窓なのです。こちらにあるぼくらの全存在から向こうにあるぼくらの全存在のすべてを、そのときが来るまで、不器用な指で焦らず結びつけていけば良い。そんなふうに思っています。