ある日見た光景

あれは一昨日だったか、珍しく定時に会社をあがり、普段とは少しだけ違う道を歩いて帰ることにしました。朝の電車はたいてい本を読んでいるし、会社につけば一日モニタを睨んでいるだけだし、けれども仕事が終わって遠くの駅まで散歩をするときは、一日の中で初めてゆっくりと周りを見回す余裕ができます。すると風景が途轍もなく鮮やかに見えたのです。だいぶ日も長くなり、ちょうど夕暮れ時で、空は赤みがかった金色に燃え立ち、雲やビルがその光を反射して、世界は恐ろしいまでに、その1ドット1ドットすべてが鋭く立ち上がっていました。

ぼくはいつも、いまこの瞬間に死んでも後悔しないようにと思って生きています。大げさに言っているのではないし、格好をつけているのでもありません。ただ単に、無為に生きることに対する恐怖感が強すぎるだけで、それはむしろ、格好悪いことでさえあるかもしれません。けれども、とにかくこの一瞬一瞬を全力で生きていたいし、感じていたい。だから、いま死んでも恐れずにそれを受け入れる、というより、いま死ぬとしてもその瞬間まで生き続けている自分を感じていたいのです。目に映るすべての光景は、ぼくがぼくとして見るこの世界の最後の光景です。

けれども、頭でそう思っていても、やはり身体はまた別の論理(でさえないかもしれないもの)で動いていて、だからすべての瞬間においてその光景が美しくかけがえのないものとして見えているわけではありません。残念だけれど。でもその日は、本当にすべての光景が最後の瞬間に目にするもののように、美しくぼくの目には映ったのです。美しいというのは、何て言うのかな、単にきれいだ、ということではなく、その一瞬にしか存在しないもののみが持ち得る絶対的な永遠性みたいな、自分でも何を言っているのか分からないけれど、でもみなさんにそれが伝わるであろうことは結構確信しているのです。

そうして一時間くらい歩いて電車に乗って、地元について、その頃にはもう真暗になっていたのですが、街灯に照らされた街路樹の枝々に、まだ先ほどまでの異様な感覚の残滓が残っていました。

別に薬をやっていたわけではありません。ぼくは薬でハイになるとか感覚が鋭敏になるとか、そういった考え方自体が大嫌いです。薬を飲んで世界を見ると云々みたいなことを言う自称芸術家とかっていますけど、てんで可笑しい。普段の自分の目に映る世界が真の世界で、そこに美を見出せないなら、それはきみ、才能がないんだよ、とぼくは思う。特別なことをしていないのに特別になってしまうのが天才の悲劇であって、ひとと違うことをしたいというだけでするのであれば、それは単に肥大化した自己愛の醜い自慰行為に過ぎない。

父が最後のころ、入院していた病室からは海を見ることができました。いま思えば船乗りだった父にとって、それは本当に良かったなあと思うのだけれど、ともかくそこから変な形をした建物が見えていたのです。父を支えて窓際まで行って、あれは何だろうねえ、などと話したのですが、ぼくはあれは江戸東京博物館だろうと主張しました。父はそんなはずはないと言ったのですが、でも江戸博っぽい。みなさんは呆れるかもしれませんが、ぼくは何しろ地理感覚がなくて、自分が自分の足で歩き回ったその範囲のことしか分からない。いまだに神奈川県がどんな形をしているのか知らないし、興味もありません。町田が東京か神奈川かも良く分からない。ああいま、ぼくは全町田市民を敵に回したかもしれない。

ともかく、その建物は東京ビックサイトというものだったのです。ずっと後になって、たまたま地図を見ていて知りました。でも、何となく形が似ていませんか?

そうしてもうひとつ思い出すのは、やはり同じとき、壁に幻覚が見えてきていた父が、ほらあそこに××が、と言って指を指して不安がるので、彼が指を指すその壁際に立って腕を振り回し飛び跳ねて、ほらぼくしか居ないだろう、何が見えたってそれは嘘さ、と父に繰り返し繰り返し言い聞かせたことです。もちろんそんなことで幻覚が消えるものではないことくらい知ってはいますが、しかしその幻覚の世界にぼくが登場することで、少しでも日常的な光景を割り込ませることができればと思っていました。

いまでも、そのときの事々を思い出すと、名づけ様のない感情に気が狂いそうになります。仕事柄使い慣れた双眼鏡すら動かせなくなった父に、ピントを合わせたそれを手渡し、けれどやはりうまく使えない彼とああだこうだと言い合ったこと、あるいはその他すべての、恐らく一生誰にも語ることのないであろう事々。

言うのも恥ずかしい当たり前のことですが、人間は常に独りでいるものです。愛という奇跡は確かにそれを乗り越えるだろうけれど、それはあくまで奇跡であって、ぼくらはまずそれを手にすることはない。独りであることをことさら声高に叫ぶマッチョも、逃避としての甘っちょろい愛を語る嘘つきも、ぼくは好きではない。事実は、単に事実としてそこにあるだけです。

それでも、窓から見えたあの光景が、せめてある一瞬においてだけであっても、彼にとって美しいものであれば良かったと、ぼくは願わずにはいられません。

あらゆる一瞬は、それが始まりから終わりに至るまでのすべての時間においてただその一瞬のみに存在するが故に、永遠性を内包しています。きょう、ぼくの目に映る光景はいつもどおりの日常です。蟻が這い、マンホールが鈍く光り、葉の上では蛾の幼虫が食事をし、緑の落ち葉が見えない風の動きを教えてくれます。それでも、その光景の向こうにある永遠をぼくは知っています。神も救いも存在しないこの世界で、それでも永遠を見る目を持ったぼくらもまた同様に不壊であることを、ぼくは、ある日見た光景にかつて存在した、死んでいったすべての人たちに語りかけるのです。

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