物質は光速を超えては移動できない、らしい。ぼくの物理に関する知識は等速直線運動止まりのままで、けれどいまさら物理の教科書を紐解くのも億劫なのであやふやな知識のまま話を進める。この話を聞くたびにぼくがいつも考えるのは、名づける、ということについてだ。例えば夜、空を見上げる。もし街の灯りもなく、晴れてさえいれば、そこには無数の星々が浮かんでいるだろう。ぼくらは、その星々に名前をつけることができるし、実際、そうしてきたのだ。そして、名づけた瞬間、その星はその名前を持つ。それは何百何千という光年すら超えて、瞬間的にぼくから星へと伝えられる、関係性の絶対的な変化だ。
もちろん、それは一方的な思い込みであって、名づけるという行為がその星に伝わるには、それこそ光速の限界があるのかもしれない。けれどもそれは物理学者たちのパラダイム内における言説でしかなく、詩人には詩人の、長距離走者には長距離走者の、そしてぼくにはぼくの世界があり、論理がある。物理は存在の原因となり得るかもしれないが、愛は存在の理由だ。そしてぼくは原因ではなく理由を愛する。
ぼくが名づけたその星が、いま、この瞬間にも存在しているかどうか、そんなことの保証はどこにもない。ただ、ぼくらはそれを信じることができる。そこに星があると信じ、それに名をつけることが、できる。
無論、それは極めて一方的な関係で、レヴィナス的に言えば迫害でさえあるだろう。その通り。ぼくが言っているのは愛の問題で、愛とは常に暴力的なものだ。言うまでもなく、暴力は決して愛ではない。しかしもし愛が理性によってコントロールできるのであれば、それもまた、決して愛ではないのだ。
地球の裏側に住む誰それさんが、いまこの瞬間存在することを信じ、それに名づけること。それはひどく倣岸で暴力的で、しかも孤独な営為だ。しかし恐らく愛とは、例え互いに向かい合っていたとしても本質的にはそれと同じことをしているに過ぎない。そして世界に、それぞれただ独りとしてしか存在しない無数のぼくらから放たれる無数の軌跡が、ある一瞬偶然交わり鋭く輝くとき、例えそれを見るものが誰もいないとしても、やはりそれは美しいとしか表現しようのない何かなのだ。
ふらりとやってきた野良猫はそこで一息つくと、「そういうわけで、きょうからきみは『モンプチくれるひと』ね!」と言った。ぼくは「断る」と答え、彼の口にカリカリをひとつ、放り込んでやったのさ。