毎日の食卓

ここ数か月、帰りの電車がいつも「××行き最終」とか、そんなふうになっている。よく働いている。他にやることがたくさんあるときに限って仕事も忙しくなる。けれども、こういった下らない忙しさがぼくのリアリティを支えているとも思う。彼女に会う時間が制約されるのは困ったものだけれど、それは残業で手に入る泡銭と気合と根性とストーカー紙一重の粘着気質でどうにかフォローする。そのほかのことは、基本、諦める。

それでも、先日、ひさしぶりに会社を早く上がり、八重洲ブックセンターに立ち寄った。最近は休日に東京に出るにしてもoazoの丸善に行くことが多かったので、ブックセンターはひさしぶりだ。oazoができる前は、三越前から歩いて丸善、明治屋、ブックセンターというのが散歩のお決まりルートだったけれど、どうしてだろうか、いまの日本橋丸善には、それほど魅力が感じられない。oazoの丸善だって似たようなものだけれど、結局、利便性を考えるとそちらになってしまう。明治屋も休業してしまった。

ともかく、八重洲ブックセンターだ。帰りに読む本が欲しかったので、一階の文学をうろうろした。昔とはやはりだいぶ本の並びが変わっている。海外SFの棚が縮小されたように感じる。幻想文学の棚にはバロウズがやけにたくさんある。ぼくが大学のころには、何だかちょっと格好をつけて(どう格好がついていたのかは知らないけれど)バロウズなんてよく読んだけれど、いま思えば、バロウズは空っぽで、文学的な価値などほとんどない。まあ、それはそれで、別に誰も困らないのだろう。

無駄なお金、ということでいえば、そもそもお金自体が無駄なものだ。高いハードカバーを買う気にならなかったのは、だから、その大きさと重さに耐え得るだけの魅力を持った本が見つからなかったからに過ぎない。心惹かれる本は、そもそも、既に持っているか読んだことがあるものばかりだ。結局、五階の文庫本のフロアに行き、村上春樹の東京何とかという短編集を買った。

村上春樹には興味がない。悪く言っているのではなく、単純に趣味ではないというだけだ。けれどいま参加している同人誌で村上春樹のある短編を読まなければならず、ぼくは意外にまじめなので、この機会に他の作品も読んでみようかと思った。内容は、やはり趣味ではなかった。ぼくにとってはバロウズ程度の意味しかなさそうだ。それでも、帰りの電車のなかをやりすごすには十分役立った。

外の世界は、まあ、だいたいにおいてハードすぎる。年をとるにつれて、それはどんどんきびしくなっていく。けれども彼女以外の誰に言っても、「きびしくなるね」というそのほんとうの意味は、伝わらない。

* * *

もうだいぶ前、彼女と、とあるホテルに泊まった。運よく部屋をグレードアップしてもらえ、ぼくらには分不相応な部屋に案内された。そこにはバルコニーのようなスペースがあり、こっそりふたりで頭を覗かせると、ロビーフロアを見下ろすことができる。広くて調度品も高級な部屋のなかも、自分たちの人生には何も関係がないという意味ではフィールドワーク的な面白さがあったけれど、その何もないバルコニーにこっそり隠れ、コンビニで買ったお菓子をもぐもぐもぞもぞと食べていると、何だか莫迦ばかしくも面白く、ふたりでくすくす笑っていた。

毎日の食卓

虫

龍神様

速かったり遅かったり人生だったり、そして転んだり。

やっぱりぼくは、暗い話を書いている方が性に合っているように思うのです。何だか最近はすっかりユーモアがなくなってきてしまいましたので、暗い話を下手に避けようとしても、不自然になるばかりです。先日会社に行く途中で人身事故があったのですが、携帯電話のカメラで奇声のような笑い声をあげながら写真を撮るひとびと、にやけた顔で良いものを見たと言わんばかりに肘で突きあうひとびと、仕事に遅れるじゃねえかといらいらしながら、迷惑をかけずに死ね糞がと吐き捨てるひとびと、そんななかで日々を過ごしながらなお明るい話を書けるというのであれば、それはそれでちょっとばかり陰惨な情景ではあるでしょう。

というわけで、じみじみと根暗に、地下に潜ってきました。もちろん、地下に潜ったといっても、ごくありきたりな観光地化された洞穴に過ぎません。さいわいそれほど混雑もなかったのですが、せっせと潜り、せっせと這い出てきました。まあ、人間、あまり長く暗闇になじんでしまっては、その分日差しの下へ戻ってくるのがつらくなるだけです。ぼくのような凡人には、せいぜい15分か20分程度の暗闇が、毒にならないちょうどよい塩梅なのかもしれません。

地下

地下には、氷やら溶岩の奇妙なかたちやら、それなりに面白いものがありました。氷の塊なんて、じっくり丁寧に撮れば、素人なりにきっと美しい写真になるように思います。けれど結局、それなりに気に入った写真は、電燈を写した1枚だけでした。

洞穴内は研究仲間と一緒に歩いていたので、やはり歩くペースは、自分だけのときとは異なります。歩く速度が普段よりも物理的に速かろうが遅かろうが、それは結局、自分のペースでないものに引きずられていくという意味において「速い」のです。良い悪いではなく単純な事実として、「速い」なかでは、自然は撮れません。けれども人工物は、意外に、そういった「速さ」のなかでこそ、何となく気に入った写真を撮れたりします。

いえ、単純に自然と人工物に分けられることでもなさそうです。もし写真がある瞬間を切り取るものではなく――少なくともそれだけではなく――むしろ被写体それ自体がもつ歴史の全体を写しだすのだとすれば、写しだす行為そのものにも、その歴史に比例した時間が求められるのでしょう。そう考えれば、古い家具を撮るのにはそれなりの「遅さ」が必要ですし、彼女と雨のなかを歩きながら何気なく撮った一枚の葉が雫に弾かれる美しい様などは、「速さ」のなかでこそ可能であったのかもしれません。

みなのペースに引きずられるという「速さ」のなかで撮られ、撮るからこそ、旅行先でのスナップ写真には、その生き生きとした瞬間性がまざまざと写しだされます。逆に、たった独りの対象に極限まで同化してひとつの「遅さ」を生みだすとき、その対象の肖像画にはその対象の人生がまるごと現れてきます。

* * *

などともっともらしい嘘を考えながら、地下で氷の塊を撮ろうとしていたら、足元の氷に気づくのが遅れ、つるりと滑って右半身を強打しました。カメラを守りつつ転倒したときに思わずシャッターを押していたのか、ピンボケのぶれぶれのまま、ぼくの情けない顔の一部が写っています。歴史も人生もあったものではありませんが、そのぶれぶれのみっともなさのなかには、それはそれで、ぼくの人生が映しだされているような気もしたりするのです。

夜、庭で蛙が鳴いているから。

雨が近づくと、庭で雨蛙たちが鳴き始めます。彼女の家の庭の場合は蝦蟇蛙です。無論どちらもかわいいのですが、面白いことに、雨蛙よりも強面の蝦蟇蛙の方が、鳴き声が慎ましいのです。昔、まだ近所に田んぼしかなかったころ、たくさんの牛蛙がいました。あの鳴き声はさすがにたいしたもので、夜のあいだ、いつまでも町中に響いていました。いま、牛蛙はほとんどいません。

雨蛙が鳴き始めると、そっと障子を開け、庭のどこかに潜んでいる連中を探すのですが、さすがにそう簡単には姿を見せてはくれません。庭にはいろいろな鳥もよく来るので、そんなのんきなことをしていたら、あっという間に鳥に食べられてしまうでしょう。それでも、持って生まれた根気の良さで、じっと庭を観察していきます。時折、庭の奥の岩陰に、蛙の鼻先を見つけたりもします。

先日は、裏山に登る階段途中で、山楝蛇に会いました。昔、川沿いの高校に通っていたころは、しばしば蛇にも会っていたのですが、最近は滅多にお目にかからなくなっていました。何となく懐かしく、蛇が嫌がらないように大回りをしつつ、挨拶をしておきました。

まだまだ、けっこう、ぼくらの周りには生き物たちがいます。ぼくらの日常が大量の生命をすり潰していくことによってのみ成り立っていることは事実です。センチメンタリズムは嫌いですし、現実から目を逸らした綺麗ごとには反吐がでます。けれども、現実の上に開き直り残酷さのリアリティを気取るのもまた、どうしようもなく醜く卑怯なことです。

格好の悪い話ですが、いま、ここに眼を向けること、それを受け入れ、かつあがき続けること、自分の美意識に反するものには美意識に反すると言い続けること、一線を超えたと思うのであればその一線の手前で立ち止まること、それが、少なくともぼくには、必要だと思えるのです。

ほんとうに格好の悪い話です。けれども、論理とか原理とか、そういったものには、大抵、どうしようもなく暴力がつきまといます。しかもそれは、単なる自己弁護や自己愛やらに塗れた、覚悟のない暴力です。だから、中途半端でもよいのです。悩み続け、立ち止まり続け、失敗し続け、けれどもその過程に在り続けるところにのみ、倫理という問いが可能になる場があるのではないでしょうか。

ぼくはもともと、極めて倫理観のない人間です。残酷さというのは、残酷さがあるということではなく、何かがない状態なのだと、自分のなかを覗いていて感じます。それでも、夜中に雨蛙が庭で鳴いているのを聴くと、その鳴き声が、静かに、一滴ずつ、ぼくの心のなかにある欠落を満たしていってくれます。

水滴

 

小さな子供でさえ撮影者を撃ちかえすために銃を抜く

猫磁針
相棒が、大学の部屋を掃除したときに発掘された古い方位磁針をぼくにくれた。野帳に挟んで、方位を確認しながらメモを取れるようになっている。ぼくは、最近庭仕事を始めた彼女に、”Derek Jarman’s Garden”を贈った。とても良い本だ。ちなみに、写真に写っているのはLingisの”Wonders seen in Forsaken Places”。これもまた素晴らしい本。

英語などろくすっぽ読めないけれど、彼女と寝そべりながら、分かりもしない英文を読み、写真を眺める。

ぼくらは、実はもう死んでいるんだよな、と、ふと感じる。

a life and a thing

きみはとあるところへ旅行へ行き、ひさしぶりにのんびりと、好きな写真を撮る。近所でカメラを構えていると不審者だと思われ通報されるきみだが、観光地であるここでは道端でカメラを構えていても、そんな心配はない。お気に入りの新しい帽子も被り、風は強いけれどしあわせな時間。東京へ戻り、彼女に会う。その帽子、不審者っぽさが倍増するからやめなよ、と言われる。部屋の隅で毛布をかぶり、きみは嗚咽する。

一瞬交差するぼくらの時間

相棒が陶器の小鳥をくれた。むくむくしていて小さくて、ちょっと尊大そうな顔つきが可笑しい。ぼくらが出会ってからの時間を記念してのものだという。

上の写真は、タムロンの60mmで撮ったもの。最近は細かな撮影データとかはどうでも良くなってきた。

昨日、注文していたマウントアダプターが届いた。数年前、彫刻家の家で発見した古いミノルタのAマウントレンズがα300に装着できたのには、(知識としては当然だと分かっていても)感動した。だけれど、父の遺したキヤノンのFDレンズが、いまぼくの使っているα700で使えるというのには、同じくらい感動する。感動というのは安っぽい言葉ではあるけれど、まあ、ぼく自身の感情が安っぽいものだから仕方がないし、安っぽいということが悪いことだというわけでもない。無論良いことでもなく、単にそうだというだけの話。安っぽさや嘘っぽさのなかにも、その奥に「どうしようもないこと」があるのなら、それはその言葉通り、どうしようもないことだ。

ともかく、下の写真は、そのFDレンズで撮った。ぼくが生まれた年に発売されたレンズ。描写の甘さとかなんとか、そういったことはあるかもしれないけれど、でもそんなことはどうでもいい。

相棒とであってから過ぎてきた時間、父がレンズを買ってから過ぎてきた時間、ぼくがみっともなく生き残ってきた時間。そういったあらゆる個別の、唯一の時間の流れが、ある写真の、薄っぺらい表面で、一瞬交差する。交差してまた離れ、それぞれの方向に向かって再びどこまでも流れていく。

ぼくが写真を好きなのは、きっと、ぼくら在るものがそれぞれにそうであるかたちの全体を、一葉の写真があらわしているからなのだとぼくは思っている。