初めにマイムが

パントマイムが好きで、時折youtubeなどで良さそうなものを探して観ています。

もうすぐ後期の非常勤が始まるのですが、コミュニケーション能力に重大な問題を抱えているぼくが講義をするのは、本来であれば(『洪水はわが魂に及び』的にいえば)コートームケイな物語でしかありません。けれどもなぜかぼくは昔から演技をすることを存在の基本様態の一つにしており、偶にこれをしないと息苦しくなってしまうのです。ですので、講義はそのためのちょうど良い場になります。別段変なことをするわけではなく、外からみれば単に普通の講義をしているだけなのですが。

けれど演技をするといっても、基本的には(黙っている間も含めた)喋りが主な表現方法になります。あたりまえですよね、講義なのに無音だったら……いや、それはそれでありかもしれません。単にぼくの演技のベースは喋りにあるということ。それはお世辞にもうまいとは言えないものかもしれませんが、でもまあ、やらにゃあならぬ。存在するって、どのみちそんなものです。

とにかく、そんなぼくからすると、無音で表現するパントマイムは極めて興味深いのです。観て学べる何かがあるわけではありません。何しろモードが違いすぎます。魚が鳥を見るように、鳥が魚を見るように。いやペンギンは? ともかく、自分に取り込めない巨大な何かを観取するというのは、これ以上ない恐怖であり自由であり、要するに存在することそのものの実感に直結した喜びになります。

まあそんなことはどうでもいいですね。とにかくパントマイム。youtubeで気軽に観られるものをいくつかご紹介していきます。ちなみにぼくの数少ない友人のひとりである彫刻家は、子どものころマルソーの日本公演を生で観たそうです。「youtubeで観たってそんなもんマイムの何も分かりゃしないよ」と言われ、ぐぬぬ・ぬ、ぐぬぬ・ぬ、と、アーサー・ゴードン・ピムの物語の紛い物じみた唸り声を上げつつ泣いて退却するばかり。でも良いじゃない、youtubeだって。外に出るの怖いんだもの。

Walking Against the Wind

これはマイムじゃないだろうと言われればそうなのですが、非常に良くできた短編映画。ユーモアもありつつ、パントマイム特有の悲しみもありつつ、最後は見事に落ちがつきます。

The Mime

極めてシンプル。ラスト、パントマイミストの表情がとても良いです。

上記二つの動画はとても好きなもの。何よりもぼくが憎むのは、「マイムをしているこの自分を見ろ」という意識が露骨に見えてしまうものです。演ずるというのはそういうものではない。演技も自分も消えてしまわなければならない。話は変わりますがいわゆるハリウッドスターは別です。ジョン・ウェインとかオードリー・ヘップバーンとか。でも少しでも「俺が」というものが出てしまったら、もうそれはマイムではない。独断による断言。これほんとうにただの偏見なので気にしないでください。いずれにせよ、上の二つはそんな偏屈なぼくが観ても面白い。

だけれども、やはりそれだけではないのです。いえ、繰り返しますが上の短編、文句なく面白いし、凄いです。お勧め。その上で、恐らくマイムの究極的な到達点というのは、無音でこの世界を創り出す、そのくらいの力を持ったものであると思うのです。無音で世界を表現するということを超えて、世界を生み出してしまう。そんなん可能なの? といえば、ぼくらはそれをマルセル・マルソーを通して確かに観ることができます。

Le Mime Marceau

もはや、ぼくごときの下らない説明は不要でしょう。

と言いつつ好きなので喋ってしまうのですが、マルソーはチャップリンの影響を受けているとのこと。実際、マルソーの動きの幾つかはほんとうにチャップリンです。チャップリンの動画(できれば映画)もぜひ観てみてください。

ぼくはチャップリンも大好きですが、でも、チャップリンの場合は人間として地続きな気がします。喜怒哀楽が分かる。というか、彼がそれを天才として見事に強力に表現している。でもマルソーには人間から断絶した何かを感じます。恐らくそれは天地創造に近い……、などと意味不明な供述を繰り返しており……、近所の住人によれば普段から怪しい言動を……、云々。

不合理故に……

ひさしぶりに彼女とふたりで散歩に行きました。ぼくは最近右肩を傷めてしまい、というかアレですね、身体が不調だとかそんなんばっかですが、けれどもこれは他者に押しつけることは絶対的にないという前提の上で、ぼくはけっこう痛いとか辛いとか、いや書いたそばから何ですが自分自身のことで辛いと思うことはないな、ともかくそういうネガティブなことって、別段ネガティブには感じないのです。「わあ、ぼくは痛がっているぞ!」みたいな。ちょっとオカルトっぽいですけれども魂みたいなものがあって、それがつねにこのぼくであることを、ほんの一瞬、ただの偶然としてぼくという形があってこの世界をうろうろうろつきまわって、転んだり起き上がったりしているのを眺めて喜んでいる、そういう感覚があります。痛かったり怖かったりすればするほど、「わあ!」と思っている何か。自分についてはね。他者の苦しみについてはいまだに凄まじい恐怖があります。だからみなさん幸せに生きてください。

ともかく、うろつきまわっています。子どものころに住んでいた土地は半径10kmは歩き尽くしてしまい……、いやそう書くとぜんぜん大したことはないですね。二十年近くかけてのことですから。でもその範囲内ならどの道を見ても分かるくらいにはうろつきました。もちろん、いまとなっては山さえ削られてしまっているけれど。そのころに鍛えられた脚は、いまでもぼーっと生きているぼくの上半身をどこかへ連れて行ってくれます。

だけれども、いま、ふたりで住んでいるところは、時代が時代だから仕方がありませんが、散歩をするにはちょっと厳しいところです。家を出れば裏山があって、などということがないので、車やコンクリートや人間がたくさんのところを通っていかなければならない。電車に乗って移動したりさえしなければならない。これでもうへとへとになります。へとへとになってから、ようやく散歩が始まる。などと言いつつひさびさに散歩らしい散歩に行きました。

その日の目的の一つは尾花屋さん。東小金井にある古書店です。初めて行ったのですが、本揃えも良いし、小さいけれど密度の高い本屋さんでした。お勧めですので、近くにお寄りの際はぜひ覗いてみてください。

今回はそこで幾冊か購入。どれも良い本ですがこれは特に良い本。埴谷雄高『不合理ゆえに吾信ず』。アフォリズム集というか、詩集ですね。後半には谷川雁との往復書簡が載っています。ここから少し引用してみましょう。

もし私達の自然も私達自身も姿も形もなくなってしまった或る天文時間のなかで、或る種の判別能力をもった何かが私達の傍らの空間をかすめすぎながらさながらガイガー・カウンターを近づけるごとくにすでに埋もれてしまった私達について何かを測定することがあるとすれば、人間とは不思議な自己否定へ向って絶えず進み行くところの不思議な運動体と見つけたり、ということになるかも知れないというのが、《自同律の不快》と《自然は自然に於いて衰頽することはあるまい》との一聯の対句の内包しているところの意味なのです。

埴谷雄高『不合理ゆえに吾信ず』現代思潮社、1961年、pp.127-128

埴谷雄高ですね……。こういう文章を書ける人、批判ではなくていまの日本には居ないでしょう。いや、やっぱりこれは批判ですね。そして安部公房が書いていることは恐ろしいまでに正しい。

でも作家は読者なにしにはありえない。読者が生まれなかったら、作家なんかいるわけがない。

安部公房『死に急ぐ鯨たち』新潮文庫、1991年、p.82

これはいわゆる現代文学というものが「西欧的な方法をよりどころにしているから」ではなく「植民地主義の土台にきずかれた」が故に駄目なのだという厳しく鋭い指摘をしている箇所なのですが、機会があればぜひお読みください。ぼく自身、「何とか文学フェア」とかいうものを(もちろんまずは出版社が生き残らなければ話にもならないのでそこへの批判ではなく、むしろ何よりもまずぼくら読者自身を批判的に見つめなければならないという意味で)疑いの目で見てしまうのですが、その根底には安部公房と同じ考えがあります。読者がいないということの本質に、そしてそこには間違いなくぼくら自身がかかわっているにもかかわらずそれをすっ飛ばしてなされる「正義の味方みたいな顔」みたいなものの欺瞞に、もっと鋭敏でありたい。そしてそれだけではなく、いまの日本にまともな現代文学がないことを恐れた方が良い。いや、あるとお思いになるかもしれないし、別段、ぼくが正しいかどうかなんてどうでも良いことです。

なんてことを散歩しながら考えているので、顔つきがだんだん陰鬱に、陰惨になっていく。呻き声を上げる。「おおお……」なんて苦悶しながら髪を掻き毟り脚を引きずりよろぼいつつ、彼女に「パン食べよう」と言われて川のほとりに腰を下ろして保冷剤で冷やしておいた水を飲み途中のパン屋さんで買ったきのこロールを食べつつ草むらに生えたキノコを眺めつつ(毒キノコだった)、にこにこしている。まあそんなもんです。

そうして、雨のあとでぐずぐずにぬかるんだ川のほとりを「あ、キノコ、あ、トンボ、あ、ザリガニ」なんて言いながら登山靴でぐっぽぐっぽ歩いていきます。橋の下をくぐり、道に戻る階段を上がろうとしたら、そこには高校生くらいの男女がふたり座り、語らっている。青春。そこに泥まみれで「ぐっぽぐっぽ」とか言いながら(言いはしないが)肩の痛みで眠れず目の落ちくぼんだおっさんが這い上がってくる。恐怖です。でもそれがいつか二人の良い思い出になってくれることを願いつつ、あとから来た彼女と合流し、てくてく家に帰っていきました。

宇宙の修理とメンテナンス

カネゴンが眺めています。

というわけで『現代思想 特集=メタバース』(2022年9月号)が発売されました。ぼくは「宇宙の修理とメンテナンス」というタイトルで載せてもらっています。郡司ペギオ氏の論考など面白いものが幾つもありますので、書店で見かけたらぜひぜひ。ぼくの原稿の冒頭はこんな感じです。

メタバース。当然ここではユニバース(宇宙)が意識されている。もし私たちが何らかの信仰を持っているのなら、この宇宙を創ったのはその信仰体系における神かもしれない。ではメタバースを作るのは誰なのか。技術に支配された現代社会において、いうまでもなくそれは技術を従え神であるがごとく振る舞う私たち自身だ。それをボードリヤールに倣って世俗的な神(démiurgie mondaine)と呼んでも良い。このメタバース(宇宙)にはすべてがあり、私たちはそこで為したいことのすべてを為せる。私たちが自由を求める存在であるなら、不自由しかないユニバースからメタバースへの脱出もまた歴史的必然だといえる。

だが果たしてこの世俗的な神は本当に無から有を創り出せるのだろうか? 無論そのようなはずはない。そこには他者に対する抑圧と搾取が隠されているし、その欺瞞の上に居座りコントロールされたAIたちにどれだけ賛美されたところで、存在に対する不安と渇きが解消されることもない。本稿では近年注目されている「修理する権利」と、そして歴史学者保苅実による「歴史のメンテナンス」という概念を参照しつつ、メタバースが真の意味で宇宙になるための条件を考察する。

という感じで、メタバースメタバース言うけれど他者をリソースにしていることに対して無自覚でいたらダメだよねとか、じゃあどうしたらメタバース(という名称は本当にダサくていやなのですが)が真の意味でぼくらの生の場になるのかなとか、そんなことを書いています。他の方とはかなり明確に関心の対象が異なっているので、良くも悪くも独自性はあります。いやあるかな。あー、そこにないならないですね。

あと何だろう……。雑誌を覗き込んでいるのはカネゴンですね……。そうそう、カネゴンもそうなのですが、映画『銀河鉄道の夜』のサウンドトラックのカセットテープが実家の奥深くから発掘されたのです。数十年ぶりにそれを聴いたのですが、音がゆわんゆわん揺らいで、でもそれが何とも言えずに良いんですよ。皆さんにも聴いていただきたいくらい、別の世界がそこに立ちあがります。なんかそんなことをだらだら話していたいんですよ。ぼくはやっぱりアカデミズムというのでしょうか、何だか分かりませんがあの表現しにくい独特の雰囲気が苦手で、もういよいよ学会発表とかやる気がなくなってきてしまっています。「メタバースって響きがやばいよね、ザッカーバーグやばいよね、銀河鉄道のサントラ良いよね」みたいなことだけだらだら喋っていたい。ダメですかね。いや部屋で独り言を言っている分には誰の許可を得る必要もなく、定職もないままに研究者ですぅなどと意味不明な供述を繰り返すのも自由です。いまの生活はほぼ全面にわたりばくちですが、そうとしか生きられないのでもうこれは仕方がないことだし、それはそれでけっこう満足しています。

そんな感じで、けっこう好き放題に書いていますが、自分では良い論考になったと思っています。自画自賛ということではなく、なぜ自分が研究しているのか、そのオブセッションは影みたいに出せたのではないかということ。よろしければ、ぜひ。

http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3718

単著が出ます

12月に単著が出ます。出版社は共和国。いまもっとも優れて尖った本を出し続けている出版社だとぼくは思っています。共和国に今回の企画を目にとめてもらえたのは本当に幸運でした。書誌情報は以下の通り

ISBN 978-4-907986-75-9 C0010 四六判 288頁
価格 2,800円+税
発行 共和国
書店発売日 2021年12月15日

デザインは宗利淳一氏によるもので、帯も含め非常に美しい仕上がりになっています。

帯あり表紙。共和国代表の下平尾直氏による帯の文章もすばらしいです。「きみは神になりたいのか? そして、人間は、人文学は、いかに回復可能なのか?」

帯を取るとこんな感じ。共和国のロゴが美しいですね。

裏表紙です。

内容や目次については版元ドットコムのページをごらんください。ここで普段書いているようなことを別のフォーマットで表現してみるとこんなになるという感じで、興味がある方はぜひ手に取っていただければ嬉しいです。共和国の本はどれも一つの作品として成立している美しい佇まいのものばかりです。まだ実物はできていないのですが、ぼく自身、実際に手に取るのが楽しみです。

研究者としては常に次のテーマに向かって進み続けなければならないのですが、とりあえず、まずは一点刻めたなと、いまは少しホッとしています。具体的に名前を出すわけにはいきませんが、ここまで支えてくれた人びとに、そしてもちろん、このブログを読んでくれている皆さんにも、心からの感謝を。