何せ教授の顔が気に食わないと言い放ち期末試験開始直前に席を立って教室をふらりと出てしまうくらいだ。しかしそんなときになって顔が気に食わないなどとのたまうのであるのなら、要するにそれまで彼はその講義に出ていなかったにもかかわらず、もしかすると期末試験さえ受ければ単位を取れるかもしれないなどと舐めたことを考えてのこのこ教室に来たのかもしれず、だとすればその浅ましさたるや見るに堪えないものがあるが、書いていて思いだしてきた、あのとき隣の席には彼女が居て――どうでも良いが生まれついてのストーカーたる彼は、そのときの、いやあらゆるときの彼女の表情を写真のように記憶している――唖然とした顔で彼を見上げていた。しかし当時の彼があまりに恰好悪い若造だったとしても、あの教授の顔が気に食わないというのはいま思い返しても妥当な判断で、そもそもあのエリートぶった大学そのものが気に食わなかった。いまとなってはある理由から、あの大学のエリート臭はますますひどくなっているだろう。
ともかく、彼は落第のプロフェッショナルだ。単位を取るための姑息なスキルを身につけている、ということではない。とにかく、ひたすら落第しまくる。彼女に無理矢理連れられて教室まで行き、突如体調を崩し脱兎のごとく逃げ出す。彼女が卒業した後は、もはや普段キャンパスのどこに居たのか、微塵も思いだせない。あれ? ほんとうにどこに居たのかな。後になって大学に入りなおして何を思ったのか彼女を追って博士課程にまで行き――何しろ彼は骨の髄からストーカーなのだ――いまは本職の傍ら、非常勤講師として何やらもぞもぞごそごそ、いわゆる「応用倫理」に区分されるであろうことをしゃべったりしている。これが楽しい。「応用」なんて地獄へ堕ちろ、倫理に応用も糞もあるか、と彼は思う。倫理は倫理だろ。死ね! 彼は自分を極めて高潔で教養があり倫理的な人間だと思っている。目がイっている。ひとは皆、きみは絶対に権力を持つべきではないね、と彼にいう。
ふたたび、ともかく、彼は落第のプロフェッショナルだ。単位を取ろうとあさましく這いずり回る学生たちの取る手段は、「武士道でござる!」と叫んでひたすらまっすぐ落第し続けていた彼にとっては許されざる非道であり、目を向けずとも臭いで分かる。もはや達人でござる。車種もスポーツのルールもTVタレントも分からない。地理についても税金についても歴史についても知らない。定職もない。だが、代返も代筆もすぐに見抜くし、顔を挙げていないときでも、いちばん後方に座っている学生がスマートフォンを弄って遊んでいるのも分かる。正直に言うと、ちょっと怖いことだ。教壇に立つ、という言葉はほんとうに偉そうで反吐が出るけれども、実際に立ってみると、学生だったころの彼が思っている以上に、学生のことが良く見えてくる。たぶんそれは物理的な状況によるものではなく……、何だろう、でも精神的なものでもないように感じるし、とても不思議だ。そうして、それは他の研究者に訊いてみても、だいたい同じように感じているらしい。何かもう、達人関係ないな。まあいいか。
でも、ぼくが言いたかったのはそういうことではなく、昔ぼくは、せこせこ単位稼ぎに卑怯なことをする連中を嫌悪していた。試験が近づくとノートを借りに来る「友人」とか、まったく信じがたい恥知らずに思えた。でも、不思議なことに、いま、自分が(ほんとうに下種な言い方だけれども)単位を出す立場になってみると、何もかもがどうでも良くなっている。どうでも良いというのは興味がないということでは決してなく、それぞれの、それぞれなりのスタイルや必死さ、嘘のつき方や言い訳の仕方、手抜き加減や世の中の舐めくさり具合が、ある面において微笑ましく思える、ということだ。もちろん、一生懸命講義に出席してノートを取ってレポートを書いて、という学生からすれば、そんな連中は許せないだろうし、そんな連中を特に厳しく評価しない講師はもっと許せないかもしれない。もっとも、ぼくだってあまりに出席状況がひどすぎたりする場合は、さすがにフォローできないし、きちんと講義を受けている学生には、きちんと高評価をつけてはいる。
だけれど、そういうことを超えて、やっぱり、大学は自由だ。落とすのも自由だけれど、でもそれはあまりに下らない。その先には退学や中退があるのだろうけれど、自分の経験から言っても、けっこう、それは取り戻すのがとてもとても、とても大変なマイナスになる。そしてまた他方で、「まじめにやったから評価されて当然」というのは、学問としては何の意味もない。高校までならそれで良いけれど、大学は、本来、唯一、評価とは無関係に自分のしたい勉強をできる場だ。言うまでもなくこれは理想論に過ぎない。現実を無視したまったくの戯言だし、様々な問題や穴がある。でも、こういっては何だけれども、所詮は非常勤講師の持つ一コマの話に過ぎない。だからその限りにおいて無責任であることを認めつつ、ぼくはむしろ、真面目に一生懸命やっている学生さんたちにこそ、とにかく自由にやろうよ、と言う。まじめでない学生さんには、聴く気がないなら大学のカフェテリアにでも行っておいでよ、と言う。本当に自由なのだ、学ぶということは。
その上で、いったい何の話をしたいのかと思われるかもしれないけれど、ぼくが昔は許せなかったようなことをする連中を見て微笑ましく思うのは、その阿呆くさい図太さや(自分がそう思っているだけの)したたかさなどが、昔ぼくが思っていた以上に大事なものだということを、いまのぼくは知っているからだと思う。そういうものがなかった人間は、結局、途中で潰れて死んだりする。いや、死ぬのではなくて、殺されるのだ。人生のあらゆる物事において、そこまでの罪もそこまでの価値も、ぼくらは絶対に持っていはしない。そういった弱さや不適応、あるいは無駄な潔癖や美意識。ぼくらはそういうものを持っていたけれど、でも、それは糞の役にも立ちはしなかった。とはいえ同時に、それは選べるものではない。持ってしまったのであれば、もうどうしようのないものでもある。だからせいぜい多少のフォローくらいしかできないし、きっと、ほとんど意味もないのだろう。
生き延びること、そのために自由であること。自由であること、そのために生き延びること。自分のなかではあまりにクリアだけれど、誰にとっても人生がそうであるように、そのビジョンもまたあまりに巨大で、言葉にするのは途轍もない労力が必要になる。だけれども、下らない「応用」倫理について話をしつつ、時折「魂のヴァイブレイシォン!」などと叫んだりしながら、それを伝えようと気楽に講義をしている。