歯に銀を詰めたんだ。このサイボーグ感がたまらないね。

ブログを書いていないあいだに、庭では気の早いアマガエルが雨になると鳴き始め、裏の山では鶯がすでに上手に囀っています。ガマガエルたちは無事に卵を産み、ふたたびどこかへ帰っていき、季節はすっかり春のようです。とはいえ、ぼくは春があまり好きではありません。多くの生き物たちが出てくるのは嬉しいのですが、その分、目にする死もまた増えてしまうからです。それでも、時間はどんどん先に進んでいきます。

時間。
あいかわらず仕事はいっさい先が見えません。それでも、四月から契約形態が少し変わり、時給もほんの少しだけあがりました。歯医者にも毎週休まず通い、あとふたつみっつ、気の重いことを先に進めれば、ほんの少しだけ、まともな生活に近づけるのではないかと思います。先日、研究仲間の単著構想会(要は、お互いがんばって単著書こうぜ、という集まりです)に参加し、また他の研究会にも誘ってもらい、ひさしぶりに研究者として活動している気持ちになりました。学会活動からはなるべく遠ざかるようにしていますし、今年は投稿論文も書かない(単著原稿執筆に集中する)つもりですので、そういうところに誘ってもらえるのは、とてもありがたいことです。おつきあいで研究者の集まりに顔を出すのはもう十分ですので、あとはもう、自分にとって意味のあるものにだけ参加していこうと思います。

研究。
そういえば、数日前、遅れていた共著本が出版されました。出版ぎりぎりで表紙デザインが決まらないということになり、急遽、執筆者のひとりとして写真を幾葉か出版社に送り、結局そのうちの一葉が使われることになりました。けれども、これは、嬉しい反面、がっかり反面です。嬉しいというのは、まあ、何はともあれ自分の名前で自分の写真が使われるというのは嬉しいということ。がっかりというのは、送った写真のなかでも、もっともつまらないものが選ばれてしまったということ。これは、ぼく自身は良いのですが、他の共著者のひとたちにはかなり申し訳ないなあという気持ちになり、だいぶ落ち込みました。しかし、けっこう攻めた写真も送ったのですがそちらは採用されなかったので、要はぼく自身の才能のなさということです。それは受け入れるしかありません。できあがった本を彼女に見せたところ、やはり表紙はちょっとねえ・・・、という素直な反応がありました。それでも、ふたりで、安い不二家のケーキを買い、ちょっとだけお祝いをしました。

お祝い。
そういえばずっと昔、とある大学院を受けたとき、小論文と作品提出みたいなものが一次試験で、それに通ったあと(結局二次で落ちたのですが)、まあお祝いだよねという謎理論で、少しだけ良い時計を買ったのです(ほんとうに少しだけ。でも、値段が問題ではないですよね)。だいぶ気にいってつけていたのですが、ある日、バンドと時計本体を繋いでいる小さな金具が錆びて折れ、それ以来、腕時計をつけることもありませんでした。けれども先日TOEICを受けた際、やはり腕時計がないと不便であると改めて感じ、彼女と散歩をするついでにいかにも地元の時計屋さんという感じのお店に入り、その、本体とバンドが分離してしまった時計を修理してもらったのです。その時計屋さんはほんとうに昔からあるようなお店で、暗い店内の奥の上がり台のようなところにお爺さんが居り、作業台と材料棚のなかにぴったり収まっています。直してくだされい、とお願いをすると、どれどれとにこにこしながら手に取り、ぼくはてっきり修理に一週間くらいかかるからきょうは渡すだけかしらと思っていたら、その場で何やら呟きつつ、すぐに修理を始めてしまいました。彼女とぼくは手持無沙汰になり、とはいえそういうときに意外と図太い彼女は、さっそくガラスケースの端に積んであった雑誌を手に取り、眺めはじめます。ぼくもとなりに座って一緒に眺めることにしました。それは、時計の雑誌で、後ろのほうには中古時計屋さんの商品紹介ページみたいなものがたくさんあります。小声で、お互いにどれが良いとか話しつつ、20分ほど待ったでしょうか。それとももっとでしょうか。時計屋さんのなかなのに、なぜだか時間の流れがゆったり減速し続けていくような雰囲気で、何分くらいかかったのか、正確には分かりません。それでも、やがてお爺さんが直してくれた時計は、しっかり部品が噛み合い、つけた感じもばっちりになっていました。お礼を言って(もちろん料金も払い)お店を出て、しばらく歩いていると、彼女が、あのお店、昔祖母と行ったお店かもしれない、と言いました。もう十数年昔のこと。だけれど、お店にいたお爺さん、まったく変わりがなかったようだよ、と、不思議そうな顔をしています。

不思議。
最近、また、この世界のものではないものを見るようになりました。というと少しおかしなアレですが、そういうものを、ぼくは、ほとんどのひとが見ているのだと思っています。まったく見ないひとがいるとしたら、それは、そちらの方が恐ろしく異常なことです。ともあれ、最近見たもの。ひとつは、家の掃除をしていたときのことです。カーテンを開け放つとガラス越しに庭を眺めることができます。ふんふん言いながら掃除機を振り回していると、ふいに、その庭を、何か黒い人間のようなモノが通り過ぎました。もちろん、見た瞬間に、それが不法侵入をした誰かであるとかいうことではないのは、分かります。そうしてそういったものは、不思議と、後になればなるほど、記憶のなかではっきりとした輪郭を持つようになっていくのです。ふたつめは、あれはどこに行っていたときのことでしょう、ふと電車の窓から外を見やると、狭い路地裏で、赤と白の縞々模様を塗られたカラーコーンのようなものが、十数個連なり、お正月の中華街の龍のように渦を巻いて踊り狂っていました。けれども間違いなくそこに音はありませんでした。どちらも、いま、ぼくのなかでますますはっきりとかたちをもって再生されるのです。

研究仲間にこんなことを喋っても、それはそのままでは伝わらないし、伝わったら逆に日本のアカデミズムを心配してしまうのですが、そういった日常の諸々が積み重なり、やがて、自分にとっての研究につながっていきます。ぼくは辛うじてコンピュータを使えます(というか、それが本職です)。それのおかげで、学会やら何やらの片隅で、どうやら、にこにこしながら雑用を片づけている限りは、居るのを黙認されているようなものです。でも、それはどうせ、そんなに長続きするものではありません。とはいえ自分のやっている研究が、誰にとっても無意味であるとは思わないのです。そういう言葉がかつてあったということを残すためにも、やはり(まともなふりをして混ぜてもらっている共著ではなく)単著を、いまのうちに書かなければならないと思うのです。

そんな感じで、楽しく暮らしています。

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