という訳で何かこうブログというと、その人のカラーとか得意なこととか専門分野とか、そういった中心的なテーマみたいのがあるそうでして、じゃあこのブログって何かあるのかしらというと何もない。自分で書いていて、本当に脈絡がないなあなどと思っていたのですが、きょう凄い発見をしました。これはね、日本全国、ぼくのブログがトップだと胸を張って言えることです。知りたいですよね! ね! うん、あなたが知りたくないことは分っているのですが、寂しいので言わせてください。googleで「デッキブラシ」を検索すると、製品としてのデッキブラシ関連が幾つか出てきた後、このブログが堂々の8 位でヒットするのです(2009年2月29日現在)。凄い、ブログとしてはトップですよ!
はあ疲れた。精神的に。で、きょうの話題ですが、とても真面目な話です。去年の暮れにぼくの数少ない友人である彫刻家が一時帰国しまして、一月くらい滞在してすぐにニューヨークに戻ってしまったのですが、けれどもその一月の間にずいぶんと夕食を共にすることができました。毎週一度か二度、昼過ぎくらいから相棒と二人でお邪魔して、終電近くまでゆっくりと料理をしたり(するのは彼なのですが)お話をしたり。これだけ一緒に過ごしたのは、ぼくらが大学生で彼女がモデルのバイトをしていたとき以来ではないかと思います。ぼくと相棒の関係というのは非常に閉鎖的で歪んだものではあるので、こうして時折彫刻家と会っていろいろな話をするのは、改めて生きていく上でのバランス感覚のようなものを取り戻すとても良い機会となります。もちろんそんなことを超えて、純粋に彼と会うのが楽しいのはもちろんですが。
とにかく彼はしたたかで、あれほど強い心を持った人間をぼくはあまり知りません。けれどもユーモアもあるし、何より人間に対する愛情(などと言うと彼に怒られそうですが)がある。そして極めてユニークな人生を過ごしているし、その独自の視点から語られる彼が見た彼の世界というのは本当に面白い。ぼくに才能があったら、彼を主人公にドキュメンタリーを撮りたいと思うほどです。でもそんな才能は残念ながらぼくにはないので、いま一生懸命「ブログを書いてください」と説得しているところです。彼の語りを独占するのは本当に惜しい。けれどいずれにせよ作品集を載せたサイトの準備もできているので、近々公開する予定でいます。
さて、暮れに彼と三人で食事をしているときのことです。ふとしたことから、ぼくが自分の人生に関して「でも、ぼくはいつでもプログラマとして食べていけるっていう逃げ道があって、だからそういった点では自分に甘えがあると思っているんですよね」云々、というようなことを彼に言いました。すると彼は強い口調で「何を言っているんだ、それは当たり前のことだ」と答えたのです。
ぼくはいま博士課程に在籍しています。まあそれなりに研究はしていますし、自分の才能とセンスにも自信はある。人生の貴重な数年間をかけるのですから、自信がなければ博士課程にいても無駄だとぼくは思います。けれども同時に、当然ですがぼく程度の才能を持った人間などごろごろしている。いやぼく以上の才能を持った人間が、ですね。しかも連中の大半はぼくよりはるかに若い。だから、ぼくが研究者としての職を得る可能性は限りなく0に近いでしょう。それは当然ぼくよりもっと若くて才能溢れる彼ら/彼女らにしても同様であって、だからみんな必死です。
けれども、ぼくはそもそも研究者として食べていくことにそれほど魅力を感じていない。下らないという意味ではなく、それはどちらでも良いと思っているのです。博士号をとるということは独り立ちできる研究者になるということであって、研究者というのは研究職についているからそうであるようなものではない。その人の考え方、世界の捉え方こそがその人を研究者として規定するのです。
などとのん気なことを言っていられるのは、しかし実は、ぼくがプログラマとして食べていけるという(いまのところは)保証があるからです。ぼくはそこに、本気で研究職を目指している人たちに対する引け目というか、申し訳ない気持ちがどこかにありました。もちろん、ぼくとていい加減な気持ちで学んでいるわけでは決してない。それは誤解のないようにお願いしたいのです。ある枠組みの中で自分の考えを鍛え上げていくというのは、自分自身を鍛えることだし、世界と戦う武器を錬成するということでもある。それについて妥協したことは一切ない。ただ、繰り返しますが、これはまあ本当にのん気な主張でもあります。研究職につけなくたって、ぼくはプログラマとしてやっていけるし、プログラマでありつつ研究者であることはまったく矛盾がない。少なくともぼくの中では。けれどやはりそれは逃げではないのか。
と、そんなことをうじうじと思っていたら、先ほどの彫刻家の言葉が出てきたのです。常に退路を確保するのは当然で、それをしないのは挑戦ではなく愚行だ、と言う。もしかしたら当たり前なのかもしれませんが、ぼくは結構驚いたのです。例えば芸術家というと、日常生活なんて破綻していて、常に崖っぷちというか崖から落ちながらこそ創造が可能だ、みたいなイメージがありませんか? いやもちろんぼくもそれほど極端かつステレオタイプに考えているわけではないのですが、でもそんな先入観がまったくないと言えば嘘になる。破滅型の天才、というやつですね。
けれども彼は強い言葉でそれを否定しました。どんなときでも、人は必ず退路を確保しなくてはならない。ちょっと、それを聞いて納得したのです。彼は、もちろん彫刻を創るから彫刻家なのですが、しかしそれ以前に、魂の在り方として芸術家なのです。これはちょっと本人に会わないと伝わらないけれど。自然に生きて、自然に(というのは無理なく、ということではなく、その人にとって苦闘を伴うあり方がその人の本然であるのならそれが自然だという意味で)芸術家である。そんな彼にとって、退路を絶って一か八かで芸術家たらんとする、作品を創るというのは、ナンセンスの極みなのかもしれません。いやもしかしたらもの凄い誤解しているかもだけれど、ぼくはそう理解したということですね。これ後で彼に「全然違うよ!」と怒られるかもしれないけれど。
そうして、生きるということを全力で楽しんでいる彼にとって、そういった破滅型の創作というのは、あるいはそれに対する幻想というのは、まったく馬鹿馬鹿しく、自己愛に満ちたものにしか見えないのかもしれない。
当然ですが、これは「言い訳をする」ということとはまったく違うのです。例えばぼくが「研究職に就けなかったけれどプログラマとしては一流 (済みませんちょっと法螺を吹きました)だし!」と、言い訳として言うのであればそれはみっともないし、自分を貶めることになる。そんな生き方では何も得ることはできないでしょう。けれどもそうでない在り方は、例えば「研究職に就けなかったからもう後は野垂れ死ぬ」というものではないし、そうであってはならない。
念のため申し上げますと、ここで言っているのは、日本において博士号取得者に対する待遇があまりにも悪いとか、そういった社会的な構造の問題ではないのです。そうではなく、何者かになろうとか何物かを創ろうなどと言ったとき、そこに破滅の美学を持ち込んではならない、ということなのです。ぼくは、それはとても納得しました。ぼくらはしぶとく生き延びなければならないし、そうやって人生に(良い意味でみっともないまでに)しがみつきつつ、あるいはふてぶてしい笑みを浮べつつ、進路を変えて生き延びるべきだし、また生き延びて良いのです。
「退路を絶つな!」。そう考えてみると、これはあらゆる場面でぼくらが思い出してみる価値のある言葉だと、ぼくはそんな気がしているのです。