intermission

彼女に何か楽しいことを書くよ、と言ったら、書けるのかな? 書けるのかな? と挑発するようにいわれた。ぼくは挑発に乗りやすい性格だ。楽しい話などいくらでも書けるさ、と答え、フィールドワークに行った彼女が戻ってくるまでに楽しい話を書こうと思ったが、頭痛でぶっ倒れているあいだにもうこんな時間になってしまった。最近、ひたすら良く眠る。起きていると頭痛が激しくなる一方だけれど、眠っているとだいぶましで、それでも頭が痛くて目が覚めたりする。大丈夫、ぼくは楽しい話を書ける。ちょっと待っていてくれれば、いくらでも楽しかった思い出が皮膚の下から湧いて出てくる。アル中の妄想のようだ。

非常勤講師をしている大学から連絡が来て、来年から講義名が変わるという。これでますます首を切られやすくなったが、でも、新しい講義名は嫌いではない。恐らく日本では他にないものなので、大学が求めているような温い講義のふりをしつつ、自分なりにアヴァンギャルドな講義にしていこうと思っている。アヴァンギャルドとか意味が分からないままに使うのがアヴァンギャルドっぽい。意味は分からないけれど。

非常勤講師というのは、けっこう、悪くない。喰っていかなくてはならないという点ではかなり問題ありだが、ぼくのように(自分ではそれほどでもないと思っているのだけれど、客観的にはそう判断するしかない)集団に属することが苦手な駄目人間にとって、気楽は気楽だ。もちろん、講義そのものは全力でやっている。それに、アカデミックな世界というのはほんとうに阿呆らしいもので、肩書がないと相手をしてもらえない。非常勤講師と言っておけば、まあ、その一角にこっそり忍びこんで壁に落書きをしてくるくらいのことはできる。

ただ、身分証明書と呼べるようなものがないのは辛い。運転免許証もなくパスポートの期限も切れてしまったので、いま職質を受ければかなり怪しい人物だ。もっとも、身分証明書などあったところで、ぼくが怪しいことに変わりはないのかもしれない。最近、人相が悪くなってきたのを感じる。

けれども、この前段ボールを買ったのだ。アマゾンで「フェローズ 703バンカーズBox A4ファイル用 黒 3枚パック 内箱 5段積重ね可能 対荷重30kg」というやつ(ちなみに、段ボール一杯に本を詰めるとだいたい30kgになるので、2段重ねしかできない)。山積みの本の埃を払い、ずんずん詰めていく。足りなくなったので追加注文をして、さらにずんずん詰める。再び足りなくなったので追加注文をして、日にち指定で配送を頼み、その日にベルが鳴ったので扉を開くとぼくにとっては望ましくない団体からの使いが居り、クラウドリーフさんは居ますか、と訊ねる。居ませんね、ええ居ませんとも、彼はインドに虎狩りに行って死にました、因果応報です南無阿弥陀仏と答えて扉を閉めて、まっとうな生活がしたいなあと神に祈る。とはいえ神はいないので、そのあとに届いた段ボールに再び本を詰める。ぼくの持ち物といえば、本と、あとは大量のクマのぬいぐるみくらいしかない。本さえ片づけてしまえば、ほんとうに驚くほどシンプルな生活だ。何だか自分の人生の後始末をつけているような気がしないでもないけれど、もちろんそれは諧謔で、本気ではない。まだまだ書きたいことはたくさんあるし、書きたいことがある限り、どれだけ卑怯な手段を使っても、きっと原稿を書いているだろう。

それでも、手持ちの段ボールをすべて使い切り、半分程度は本が片づいたあと、風呂に入りつつふと鏡を眺めると、いつもより少しだけ穏やかな表情をしている自分がいた。糞下らない学会仕事を睡眠時間を削りながら片づけ、それでも仕事が遅いと嫌味をいわれ、自分の部屋をみれば埃だらけになっていて、明らかに体調がおかしいけれど病院に行く時間もない。ひさしぶりに自分の部屋を整理して掃除機をかける。きれいになった部屋で、次に書こうと思っている論文の資料を読みながらお茶を飲む。たったそれだけのことで、少し、ましな人間になった気がする。

あまりひとには言わないけれど、他者が怖くて仕方のないぼくが講義に対しては心底好きだといえるのは、そのなかの一人か二人か、それともゼロ人でも良い、ともかく、昔ぼくがそうであったような誰かさんが居たとして、その子に、生き残る術を伝えたいからだ。それはマニュアルではないし、たぶん、言葉にできるものでもない。だから怪しげな動きと怪しげな語り口で、怪しげな講義をするしかない。けれども、そこには確かに何かがある。その他の生き残れる誰に通じなくても、それはかまわない。

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