めずらしく風邪を引いている。薬を飲んで、少しぼんやり。
学会発表の申し込みとか、論文の修正とか。毎日仕事で終電帰りの割には、それとなく何となくケンキュウシャっぽいことをしたりしている。だけれども、そんなことには何の意味もない。学会発表は雑多なジャンルと言われ、投稿論文は査読者を探すのが難しいと遠まわしに愚痴が聴こえてくる。聴こえない声に聴こえないままに耳を済ませ、届かない声を届かないままに大気に流す。それらをすべて、名前と肩書を持った連中の大きな声が塗りつぶしていく。
この世界のリアルを語りたいんだよね。へえ、そうなんだ。そうなんだよ。莫迦っぽいのは知っているさ。
嘘くさいけれど、最近、愛について少し分かった。あれは何だったっけ、そうだ、アガンベンの『到来する共同体』を読んでいたときだ。言葉に書くと伝わらないから、無理をして何千文字も重ねて書くより他にないのだけれど、でもほんとうは、そんなことは下らない。何年も前に、そんな苦痛とか恐怖のことばっかりじゃなくてさ、もっと愛とかについても書きなよ、といわれたことがある。そうですね、そうですね、えへへ、と答えたけれど、でもやっぱり、ぼくは苦痛と恐怖のことを書くより他にない。そして、そのなかにとどまり続けることより他に、愛の表しようも愛の現れようもないじゃないか、とも思う。
大学から講義のアンケート結果が戻ってきた。今回で終わる講義の評価がやけに高くて、嬉しい反面、寂しくもあった。学会発表でやったら即座に帰れといわれるようなスタイルと語り口で、Youtubeで拾ってきた動画を流しながら、リアルって何だろうね、リアルって何だろうねと、その一点だけをみなで考える。スマートフォンを弄っている子も眠っている子もいるけれど、それら全部を含めてそれ自体がリアルだ。
こんな感じさ、そんな感じさ。莫迦っぽいのは知っているさ。
鹿児島の夜、きみは優しいひとだねえと、数年ぶりにお会いした先生にしみじみ言われる。学生からのアンケートに、××先生の優しさが凄く感じられて良かったと書いてあったりもする。咽に指を突っ込んで嘔吐きまくって、ようやく少しだけ落ち着き、ありもしない赦しを得たような錯覚に安堵する。それは全部コピーだ。いまはもう居ない、居る権利があったはずの人びとの表現し得たもののコピーに過ぎない。媒体は、だいたい大概、糞のようなものだ。
議論とやらを強制される。まあ、それは構わない。所詮は暇つぶしのゲームのルールに過ぎない。それでも、最近、妙にしんどい。きみみたいにタフな人間ばかりじゃないんだよ、と言われる。そうだらうそうだらう、とぼんやり思う。きみみたいにナイーヴじゃ社会は成り立たないんだよ、と言われる。そうだらうそうだらう、とぼんやり思う。
屑の、屑による、屑のための人生。ひとりで、いまはもういないきみに語っているときだけは、それでも何だか、妙に楽しい。