いろいろ書きたい言葉はあったけれど、そんなものはみな消えてしまった。けれども、それでいい。何でもかんでも残そうと思えば残せる。けれども、それはとても寂しいことだ。そうして、消えるものが消えるままにまかせることもまた、寂しいことだ。だけれど、それはほんとうは諦念なのだ。どうにかできる、どうにかしなければと思っているのなら、そこには醜い自己愛しかない。
きょうは相棒とふたりで、新国立美術館にメディア芸術祭とかいうものを観にいった。場所も名前も、ぜんぶ違うかもしれない。ぼくは固有名詞がまともに覚えられないけれど、大した問題ではない。行って、観て、帰ってくることができる。ともかく、メディア芸術祭だ。そうだ、文化庁メディア芸術祭だったかもしれない。「文化庁」「メディア」「芸術」「祭」。いろいろ莫迦かと思うが、そういうぼくだって莫迦なのだ。卑下でも自嘲でもなく、それはそれでリアルだ。
面白いものもあった。糞のようなものもあった。古いものもあった。新しいものは例外を除いてほとんどなかった。個人的には、芸術的には、致命的。的、的、的。所詮はお役所の名を冠したものだ。けれども、隠しようもなく、何かが起きている、その予兆のような、微かな匂いはあったかもしれない。それはそこにあった「作品」よりも、むしろそれを観に来ていたひとびとの総体のうえに漂っていた。かもしれない。違うかもしれない。ただ少なくともその予兆は、良い意味ではない。良い意味だとしたら、むしろそれは救いようがなく悪い意味だ。悪い意味ならそれはリアルで、ぼくはそのリアルが好きだ。
途中で頭痛が始まった。最近、休む時間がなかったし、無理が出たのかもしれない。痛みのあまり身体が動かなくなる。彼女に手を引いてもらって歩く。喫茶店で彼女の声に耳を傾ける。身体も傾ける。まわりの糞のような下品な音に掻き消され、よく聴こえない。寂しいことだ。それならお前はどれだけ上品なのかと問われれば、そうではない。下品で糞で、しかもタフではないというだけだ。それはほんとうにどうしようもないことだ。
少し前、一年ぶりに友人の彫刻家に会った。ずいぶんとたくさんの話をした。彼女を除けば、いまのところ唯一関係が残ったひとだ。ぼくら三人の関係は思えば奇妙なもので、誰かひとりが欠けてもアンバランスになるかもしれない。彼の家で三人で話すのは、数少ない、周囲の音に煩わされずに済む空間であり時間だ。何かやりなよ、何かやろうよ、と彼がいう。漠然としているけれど、その問いの意味は途轍もなくシリアスでシビアでリアルだ。
査読に応答した論文を提出して、受理された。しばらくして読み返してみるとと、自分でも何を書いているのかよく分からない。けれどもまあ、そうじゃねえんだよ、という叫びだけはあるような気がする。
所属している研究会誌に掲載する見知らぬ誰かさんたちの原稿を、義理で校正している。もう少ししたら、本業の学会でも校正が始まる。言葉に対する愛のない連中の言葉を校正するという絶望的な作業に絶望する。愛のない言葉を幾ら直したところで、それは綺麗な糞を作るだけのことでしかない。彼ら/彼女らの言葉を書くことへの必然性がどこにあるのか分からず、それが途轍もない恐怖を生む。それは途轍もない、途轍もない、恐怖だ。
recreationっていうのは恐ろしい言葉だ。re-creation。その恐ろしさは畏怖であり、そこには確かにぼくらを魅了するものがある。けれども、ぼくはやはりそれを断る。ぼくはこの世界の糞のような、恐怖に塗れたリアルさに惹かれる。それが何なのか、言葉にしたい。