人間の匂い

大掃除の合間に辞書の原稿を書いています。けれども老骨に鞭を打ちすぎたのか、ここ数日の労働ですっかり腰を痛めてしまいました。原稿のバージョンを上げるたびにレーザープリンタを部屋の隅から持ち出してきて印刷をするのですが、変な拳法の使い手のように身体をそろそろとくねらせ、たった一枚プリントアウトし、律儀にまたそろそろとプリンタを部屋の隅に持っていきます。

* * *

投稿論文の査読が戻ってきました。ひとりの査読者の査読コメントはどうしようもない質でしたが、もうひとりの査読者はぼくの論文本体に匹敵するくらいの分量のコメントを書いてくれ、読んでいて楽しいものでした。基本、掲載は確定しているのですが、できる限りコメントに応答できるよう、期日まで手を入れていこうと思います。

何だかんだで、それなりに研究をしているような気がします。何だかんだで、それなりに哲学をやっているような気がします。仕事先からはいつまでこんなふらふらした生活をしているのかという圧力を受けますし、老後どころか五年後のことを考えれば会社の言っていることの方が正しいのは分かります。最近ますます、自分のなかにある「明るい自暴自棄」みたいなものが大きくなっているのを感じます。まあ、それはそれで仕方のないことです。明るい自己肯定なんて薄気味の悪いものに比べれば、数段マシなことには違いありません。

資本主義市場経済システムと情報技術と、人間を抽象化してしまうという点において何が違うの、と訊ねられ、それ自体で完全に自足し抽象化された空間でぐるぐると渦を巻き溶けていく貨幣=金融のイメージが湧きます。それは人間を苗床にして生まれた何かなのですが、けれどもその美しいまでに純化されたデータの渦に、もはやいかなる人間の痕跡も残されてはいません。くんくんくんくん、犬のように利く鼻で人間の匂いを辿り、やっぱり居ないなと確認して巣穴に戻ります。

だけれども、情報技術がコミュニケーションと結びついている限り、そこには必ず人間の匂いが残されています。無論、それは良い匂いなどではなく反吐が出そうになるものです。情報技術なんていうものもまあ、阿呆な技術論者でもない限り誰もが知っているように、糞のようなものです。糞のなかから胸の悪くなる匂いを探しだす。その嗅覚のない人間があまりにも多すぎます。悪趣味なようですが、決してそんなことはありません。何故ならそこで問われているのは、単に在るか無いか、ただそれだけだからです。

どんなに糞でも、そこに人間の匂いがある限り、それは糞のような人間の世界であり、糞のような人間が存在しています。けれど、最近、徐々に人間の匂いがしない世界が拡大してきているのを感じるのです。人間だったものから、生命を持たない無数の生命が羽化し、飛び立っていきます。

* * *

腰が痛くて眠れないまま、布団のなかで奇妙に丸まりつつ、来年の研究テーマがどこからか降りてくるのをじっと待ちます。自分でもある程度納得のいく論文としては、存在論で3本、情報論で3本、他者について考えてきました。これからしばらくは芸術にシフトしつつ、人間の匂いとしての他者が消え始めている「芸術」について、つらつらと考えていこうかななどと夢想しています。

コメントを残す