天才の悲劇

先日、TVで”Pollock”をやっていました。有名な映画ですので、ご存知の方も多いかと思いますが、ジャクソン・ポロックの生涯を描いた映画です。けれども、ぼくはどうにも好きになれませんでした。非常にまじめに作られた映画であることは間違いありません。しかし結局のところ、これは昔からある「天才の悲劇」を扱った陳腐な物語に過ぎません。

もちろん、それはあくまでぼくの主観でしかありませんから、あの映画を良いと思う方がいらしても、それを否定するつもりはまったくないのです。ただ、生き残ることだけを目的に生きているぼくのような人間からすれば、「天才の悲劇」という物語構造はもっとも唾棄すべきものなのです。

“Basquiat”もそうですね。確かにとても胸を打たれる。特にラストの、友人の運転する車に乗って街を疾走するシーン、ぼくは涙なくしては観られない。それでも、観終った後でふと疑念が生じます。なぜ、悲劇で終わらなければならなかったのか。

当然それは、バスキアの生涯がそうであったから、ということになりますが、ここで言っているのはあくまでも物語としての「バスキアの生涯」です。どちらの物語も、「天才の悲劇」である前にひとりの人間としての悲劇を描いているのも事実でしょう。しかしそれなら、そこにポロックやバスキアのような天才を持ってくる必然性はない。

繰り返しますが、このような物語には価値がない、と言っている訳ではまったくありません。 あくまでぼくの主観の問題として受け入れることができない、ということです。なぜ、悲劇で終わらなければならないのか。

ぼくは、多くの人間がそうであるように、特別な才能のない凡人です。けれどもそれは、決して恥ずべきことではない。とんでもない! むしろそれは誇るべきことでさえあるとぼくは思います。ぼくには、恐らく世界と戦うような機会は一生与えられないでしょう。ありきたりの日常を生き、老い、死んでいくのでしょう。

けれども、その平凡な人生を送るということは、決して平凡ではない。特別なことが何もない日々を生き、自分で在り続けること、それはぼくらが考えるよりも、遥かに困難で、その一瞬一瞬が奇跡的な勝利の連続だとぼくは思います。

「天才の悲劇」という物語を楽しむのは誰でしょう。それはぼくら凡人です。だからこそ、ぼくは言いたいのです。そんな物語よりも、ぼくの、あなたの日常の方が、比較にならないほど英雄的であるのだ、と。あなたが今日目覚め、人生の雑事に立ち向かい、あるいは逃げ出し、恥をかき、惨めに這いつくばり、ほんのささやかな喜びに微笑み、そしてとにかくも、夜再び眠りにつく。生きて、また明日を迎える。それはもはや悲劇的という言葉すら超えた、死で終わることを約束されてなお戦い続ける、気高い、凡人の勝利の物語です。

「天才の悲劇」など、ぼくには必要ありません。

さて、けれども、ここまで書いてきたことがすべて、単にロジックの問題でしかないことを認めなければなりません。ぼくはぼくの限界として、論理を超えることはできない。そして論理で語れるあらゆるものは、政治システムや宗教と同様、大して意味のないことです。

「天才の悲劇」は、論理を超えたところに確かに存在する。それを、例えばシーレやゲルストルの絵を観たとき、魂の直感として感ぜざるを得ません。ぼくがシーレの絵を初めて観たのは、確か東京ステーションギャラリーでした。あの時の衝撃は、いまでも忘れることができません。何を描いても、誰を描いてもどうしようもなく自画像になってしまう、シーレが抱えた圧倒的な孤独。それでもなおかつ昂然と立つその悲しいまでの美しさ。最も好きな画家です。

ゲルストルについては、ぼくが無知なだけかもしれませんが、日本ではそれほど有名ではないようです。しかし彼もまた、「天才の悲劇」を生きたひとりでしょう。もしご覧になったことがなければ、googleの画像検索で”Richard Gerstl Self Portrait Laughing”を検索してみてください。

「笑う自画像」。これほど恐ろしい笑顔を、ぼくは見たことがありません。この笑顔を説明する言葉をぼくは持ちません。けれどこれが、ぼくの知っているこの世界とは断絶したどこかへ向けたものであることは分かります。あるいはそのどこかを垣間見てしまった者がふとこの世界を振り返ったときに見せる笑顔。いずれにせよ、このような笑みを浮かべた者が、この世界で生きていられないことは、明らかです。シーレもゲルストルも、若くして死にました。

凡人たるぼくには視えない世界を視てしまうのが天才なのだとすれば、確かにこれは天才の悲劇です。

だから生きることに全力を尽くすぼくのような凡人からすれば、天才というのは―それに憑かれた人間を、名もないどこかへ連れ去っていく―まさに生に対立する敵でしかないのです。

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