時間というのは不思議なもので、どうしたって進んでしまう。それで困ることもあれば、助かることもある。家族の病気のことを考えれば、できれば時間は止まってくれた方が良いんだよなあ、と思う。時間が進めば進むだけ、病状は悪くなる。まあもちろん、最後には誰もが死ぬ訳だけれども、少なくともそこに至るまでが安楽であってほしいとは思う。一方、いまのように、いろいろ良くないことが一気に押し寄せてくるようなときであっても、とにかく必死になってもがいていれば、もがいた分だけは前に進む。それが無限に続くのでは大変だけれど、気がついてみればすべてが終わっていて、終わってから振り返ると、無様に転がっていたかもしれないけれど、それでも、転がった分だけは前に進んでいたことが分かる。
いろいろ疲れると、買い物に行く。買い物というのは口実で、散歩に行くのが本当の目的。いや別に、口実を設けなければ外に出られないなどということではないけれど。ぼくは散歩が好きだ。春と梅雨以外のどのような季節も、外を歩くのは気持ちが良い。朝でも昼でも夕方でも夜でも、外を歩くのは気持ちが良い。ぼくの住んでいるのは少し山沿いの地域で、坂しかない。昔はいまよりももっと山しかなかったけれど、人間というのはまあ恐ろしいもので、山の一つや二つ、簡単に削ってしまう。ある日突然、いままで見えなかった山の向こうの街の灯が見える。愚公山を移すのは壮大な話だが、こちらはただの宅地造成に過ぎない。とは言え、まだまだ家の周りは山ばかり。どこへ行くにも、登って下って、また登る。
高校までは本当に地元から出ないような暮らしをしていて、それこそ田んぼと山の中で過していた。電車にもほとんど乗ったことがなく、だから、大学に入って初めて、自分で電車に乗ってどこかへ行く、ということを経験して、慣れるまでが大変だった。そしてとにかく、大学周辺が平らであることに驚いた。どこまで行っても、とにかく平らなのだ。本当に、これなら世界一周だってできるとさえ思うくらいに真っ平らだった。ぼくが東京で育っていたら、きっと天動説を主張していただろう。大地は円盤で、その端からは海水が轟々と流れ落ちている。
けれども、散歩をするなら、ぼくは坂道だらけの地元を歩くのが好きだ。平地の散歩は、どこまでも行けるけれど、少なくともぼくにとっては、何も遠くへ行くのが散歩の目的ではない。竹やぶに挟まれた狭い坂を上りきると、突然、眼下に町が開けている。昼過ぎの穏やかな町、どこか遠く、それとも近くから聴こえてくる子供たちの声。夜の寝静まった町、風に乗って届く車のクラクション。息をつきながら、足元だけを見つめ、階段を一段一段登る。登りきって目を上げれば、いつの間にかぼくは町の最も高いところにいて、どこまでも遠くを見通すことができる。小さな町が少しずつ広がっていくのを、十年、二十年と眺めてきた。
先が見えなくて、何が見えるのだろうかと、いつもそれが楽しい。知っている道でも、飽きるほど眺めたはずの景色でも、それが坂の向こうに突然開けるとき、ぼくはいつでも、かすかな胸の高鳴りを感じる。急な坂を一歩一歩登るとき、ぼくはいつでも、歩いていることをこの上なく実感する。その一歩一歩が、ぼくの人生を刻む時間になる。先の見えない不安、そして喜び。それがぼくを、一歩前に進ませる。
いろいろなことを考えているようでもあり、まったく空っぽになれるようでもある。そうして、心の中に溜まった余計なものが消える頃、ぼくの散歩も終り、坂道を下って家に戻る。
ぼくは散歩が好きだ。それはここを捨ててどこかに逃げ出そうということではなく、何と言えば良いのだろう、登ったり下ったり、思いもかけないものが見えたり先が見えなかったり、要するに、生きることそのものに対するぼくの在り方を再確認させてくれるからだと、ぼくは思う。
家の裏の階段を上りきったところに、街灯がひとつ立っている。ぽつんと点いたその明かりの下に、はるか向こうの街の光が広がり、晴れていればその上には、星空も広がっている。ぼくはほっと息をつく。吐く息は真っ白で、また少し、がんばることができるような気がする。