中井拓志『レフトハンド』

気がつけば7月末締め切りの論文があり、さて何を書こうかのう、などとぼんやり考えていました。書きたいことだけは幾らでもあるのですが、与えられたテーマと合うものとなると多少のアイデアが必要です。そういうときはぼんやりがいちばんで、待っていれば何かしら良い考えが浮かびます。浮かばなかったらそれまでで、別段、論文も研究も楽しいからやっているだけ。無理をすることはありませんし、無理をするほどの義理もこの世にはありません。

とはいえ、ぼんやりするというのはなかなか難しく、長時間通勤の間など、放っておくとどうしても頭は何かを考えようとしてしまう。そういうときには小説を読むことにしています。物語に没頭して、素晴らしいラストを通過してその余韻に浸っているとき、ぼくの脳みそは普段の不断の独り問答から離れることができます。良い物語にはそのくらいのパワーがある。ただ、ぼくはもう新しい何かを探すのには疲れてしまっていて、いまは好きな物語を繰り返し読むほうが多いです。昔は書店に行けば文庫や単行本の棚の前でじーっと背表紙を眺めるだけで楽しかったのですが、いまはそういうのはありません。けれども寂しい話ではなく、もう残りの人生十分過ごせるくらい、繰り返し読むものが自分の本棚にあるということで、それはとても楽しいことです。

今回はそういった本のなかの一冊、中井拓志『レフトハンド』角川ホラー文庫(1997年)について。例えば無人島に持っていく三冊の本、ということであれば、うーん、悩むけれども『人間の土地』、『箱舟さくら丸』、あとは……、だめだ、選べない。『ニューロマンサー』かな……。でも百冊だったら絶対にこの『レフトハンド』が入ります。そのくらいお気に入りで、このブログでも紹介した気になっていたのですが、検索してみたらしていませんでした。むかしはてなブログで書いていたときに紹介して、その投稿はこっちに持ってきていなかったのです。でもこの数日でもう何度目か分かりませんがまた読み直して、やはりこれは凄く、ほんとうに凄く美しい物語なので、改めてご紹介しようと思うのです。はてなの投稿、もう13年前だ……。ぼくの自意識は常に直近の数か月程度の記憶しかないので、これはもう前世に読んだと言っても過言ではないでしょう。ともかく、もったいないので少しその投稿を抜粋。

ある企業の研究所でウィルスの漏洩事故が発生し、その建物が完全に隔離されます。何とかしなければならないのですが、事態の深刻さのあまり関係各省はそれぞれに責任逃れをして、なかなか解決策が見出せません。しかもそのウィルスを研究していた研究員が、研究続行を認めなければウィルスを外界にばらまくと脅迫までし始めます。このウィルス、感染するといまのところ致死率100%というとんでもなく危険なウィルスで、しかも死体の左腕が勝手に分離し動き始めてしまうという馬鹿馬鹿しくも困ったウィルスなのです。感染しながらもワクチンによって生き残っている研究者はいるのですが、ワクチンはあくまで発症を遅くするだけで、いずれは脱皮する(左腕が抜け落ちてしまう)ことになる。でまあいろいろな思惑が入り乱れて、実験体として何も知らない一般市民の男女ひとりずつが研究所内に入れられてしまう。もちろんその時点では直接的な人体実験をするためではなく、非感染者の血液なり何なりで試験するためだったのですが、結局彼らはふたりとも感染してしまうのですね。ここから物語は急加速していく。

ぼくは何度も読んでいるので、それぞれの登場人物に極めて愛着を感じているのですが、最初に読むとき、あるいは客観的に見れば、この登場人物たちの魅力のなさといったら救いがないのを通りこして笑いすら起きてしまうほどなのです。みんな身勝手で、短絡的で、浅薄で、どうしようもなく俗物です。別段、美男美女も登場しませんし(そんなものはこちらも要求していませんが)、強い倫理観を持って事態を収拾しようとする者もいない。そうして案の定、事態は悪化の一途を辿ります。

ところが。ところが、なのです。最後の最後になって、まったく救いのない状況に陥ったとき、突然、その身勝手でどうしようもなかった登場人物たちが、そのままで、その中に眩いばかりの人間性の気高さ、誇り、真の意味での愛、悲しみを顕すんです。本当の最後になって。これがね、凄く良いんですよ。どこにも救いはない。もしかしたらその一歩を踏み出したとき彼らは、あるいは大げさではなくこの世界は、滅びるかもしれない。だけれど、そんなのは些細なことなんです。そんなことを突き抜けて、彼ら、彼女ら、いえ、彼と彼女の選択と躊躇いと後悔と決断と……、要するにその生きてきた軌跡がそこで交差して、その一点で静かに眩く輝いて、静止しているけれども無限に開放されて……。

物語というものは、一つの世界を持ちます。それはそれだけで完成していて、でも、この宇宙でぼくらが一本の線を引こうと思ったときにどこまでもどこまでも引けるように、無限に開かれているものとしての完成体です。その開かれを直観させることが良い物語の唯一の条件だとぼくは思います。

『津川さん、きっとあたしにだまされているだけなんだよ。だって……』/『……あたし嘘つきだから』/『どうでもいいさ』/『俺は君が生きていてくれて、助かった』。

主人公のラストのセリフに何と胸を打たれることか。そしてそれが彼女に伝わったかどうか分らないまま、外の世界に一歩踏み出す。その一歩踏み出した先に何が待っているのか。物語の余韻というものをこれほどうまく感じさせる小説もあまりないでしょう。どうしてそこまでして海を見に行くことにこだわったのかという主人公の内的独白とあわせ、あまりに切なく、あまりに美しいラストシーンです。

大げさではなく、これは安部公房の物語が持つ構造と極めて似ています。安部公房の小説においても、登場人物たちは優れた能力を持っているわけでもないし、倫理観や正義感を持っているわけでもない。むしろその逆でさえある。それでも、例えば『砂の女』や『方舟さくら丸』がそうであるように、そういったどうしようもない彼ら/彼女らが、突然ある種英雄的な何ものか、しかもそれは、人間を超えた超人性としての英雄ではなく、普通の人間の中にあることが分るからこそぼくらを心底感動させるような類の英雄性なのですが、それを持っていたことが明らかになる。それが物語に、徹底して人間の物語であるにもかかわらず神話的な奥行きを与えるのです。

無論、それだけではなく、基調はかなりユーモラスで、オフビートな疾走感にあふれています。ちょっと類を見ない文体、類を見ない構成で、ぼくが何を言っているかなんて無関係に面白く読めると思います。

というわけで、何が何やら分からないかもしれませんが、『レフトハンド』、文句なく傑作です。あのですね、ぼく、けっこう本を読みます。嘘じゃなくて。その上で、これは90年代日本文学の金字塔と言っても良いと思います。ほんとに。

残念ながら、作者の中井拓志氏、角川ホラー文庫で幾冊かを出版したあと(そのどれもぼくは好きです)、もう執筆から遠ざかってしまったようです。本当に残念です。