とある打ち合わせのあとに時間が空いたので、彼女とふたりで、目黒の庭園美術館でやっている「ブラジル先住民の椅子―野生動物と想像力」を観てきました。この美術展のタイトル、そんなに単純に受け入れられるようなものであってはならないと、個人的には思います。先住民とか野生動物とか想像力とか、そういった言葉遣い、言葉の並びのなかには、どうしてもある種の無自覚的な暴力性が伴わざるを得ないからです。展示の最後の方では現地で撮影したドキュメンタリーを上映していて、そのラストで、製作者たちがひとこと、自分の名前を言ったりするんですね。それは凄く印象的なシーンなのだけれど、でも、そこで彼らが自らを「アーティスト」であると名乗る、自己をそのようにして規定せざるを得ない、そのことの背景にあるものに、やはりぼくらは注意深くあらねばならないと思うのです。それを眺めているぼくらって、いったい誰なんでしょうか。その「誰」とは、いったい何を準拠点として計測されたものなのでしょうか。
でも、それはそれとして、動物たちの椅子はユーモラスで美しいものでした。特に最後の部屋では、黒ベースが多い椅子と白い部屋との対比、そして木の椅子の美しい曲線と白い床に落ちるシャープな影との対比が見事で、めずらしく展示方法として成功しているように思いました。けれども、そこかしこに白いクッションが置かれ、観客がそこに凭れてスマートフォンを弄っているのですが、それはどうなんだろう。これはぼくの反応が病的であることを認めたうえで書くのですが、どうも、そういった人びとから滲みだしている自己意識というものがほんとうに怖ろしく、みなスマートフォンに集中しているので静かは静かなのですが、そこには同時に凄まじいまでの自己意識の叫び声が鳴り響いてもいて、想像力の対極にあるようにも思えるその叫び声に、ぼくはひどく消耗しました。
もちろん、「椅子かわいい」で何も問題はありません。そもそも問題のあるなしなどぼくに決められるわけでもありませんし、実際、下の写真だと伝わりませんが、いろいろな動物を象った椅子はそれぞれにほんとうにかわいいし、ユーモラスです。だけれども、そのワッとしたかわいさとユーモアのどこかに、寂しさがある。そうして、寂しさは同時に静けさでもある。物理的にはどのみち静かな展示室で、でも静けさとにぎやかさ、無音と騒音が幾つもの次元にわたって交差しているのを、彼女とふたりでぼんやり感じていました。