生活派

いろいろあって時間がかかってしまいましたが、ようやく最新の論文がアップロードされました。客員研究員として所属している研究所の、研究部会のウェブサイトから、あるいはぼく自身の(地味ですが)研究業績一覧を羅列しているサイトからダウンロードすることができます。このブログは基本的に匿名的な感じで書いていますが、ぼくの名前をご存じの方はすぐに検索できますので、興味があれば読んでもらえれば嬉しいです。今回は雑誌の表紙も良いので(まだオンライン版しかありませんが)、そちらもぜひ。

先日、長年深くかかわっていた学会をようやく退会できて、そうしたらほんとうに気が楽になって、自分でも驚きました。生きるってこんなに気が楽なことなんだ、みたいな。といっても、仕事の方が泥沼状態に陥っているので、どのみち人生全然楽ではないのですが……。

参加している学会の数が減ると、それはけっこう論文数に直接響いてきますし、特にぼくのようにニッチな研究をしている場合は、その影響は顕著に出ます。知るか、業績のために研究してんじゃねえよ! と、突然キレたりしつつ、何だかんだで楽しく研究しています。仕事は地獄だけれど。でも、苦しいとか楽しいとか、そういう言葉を一つ超えた次元で、やっぱり研究は楽しいのです。そして同時に、そこには生活もあるわけですしお金は欲しいわけですから、庭から石油でもでないかしら、などと環境倫理を一応やっている人間とは思えないような妄想に耽り、ニヤニヤしたりもしています。

毎日、会社に行くのが憂鬱です。それでも、3時間を少し切るくらいの通勤時間のあいだに、次の論文のための本や論文を読んでいると、とても幸せです。アイデアだけは幾らでも湧いてきますし、読んだ内容について議論をする相手だって頭のなかに幾らでも居ます。寂しいひとだ! 正直、パーマネントな職を持っているひとたちは、研究室を持てるというだけでも、というよりその一点においてのみ羨ましいのです。ぼくは、たぶん一番研究に時間を割いているのは、電車のなかです。だけれども、無いものを羨んでも仕方がありません。喰っていくということは生きる上でもっとも重要で欠かせないもので、それがリアリティを生み出します。だとすれば、哲学そのもので食べていけるだけのお金を得ていないぼくは、所詮は傍流でしかないのかもしれません。

だけれども、それこそ「知ったことか!」です。ペンと紙さえあれば、いえ、考える脳さえあれば哲学はできますし、それができないのなら、そいつには結局哲学なんぞできるはずもありません(哲学研究はできるかもしれませんが)。なんて偉そうなことを言いながら、実際にはノートパソコンとインターネットがなければ、論文執筆の効率も相当に落ちるでしょう。お金もないのに、耐震上の問題から早急に家を改築しなければならず、ならばついでに四方の壁全面を作りつけの本棚にした部屋をひとつ作ろうなどと妄想に耽り、再びニヤニヤしたりもします。繰り返しますがお金もないので、相変わらず株に手を出してちまちま小銭を儲けたりもしています。それでも最低限の線は引き、自分の倫理観に照らし合わせて納得の行く企業の株にしか手は出しません。

そんな、嘘と建前と破綻だらけの生活で、それでも、そういった全体からこそ生まれるリアリティがあるとぼくは思うし、そういったリアリティによって支えられる哲学だってあり得るのだとぼくは思います。そんな思いを抱きつつ、だからぼくは、最近、研究仲間の内で自分の立場を「生活派」などと自称して笑っています。あまり伝わりませんが、自分が笑えるのですから、それで良いのです。

今朝、ぼんやり庭を眺めていたら、ガマガエルがのそのそ姿を現し、しばらくしてまた壁の陰に戻っていきました。だからやっぱり、庭から石油などが湧いて出てきたら困ります。困ることばかりですが(もっとも石油は湧いてこないので、それについては困りません)、日常生活は所詮困ることの総体としてしかありはしないのです。だからせいぜい、壊れるまではこの日常のなかで、哲学をしていくしかないのでしょう。それはそれで、リアルで幸福なことだと思っています。

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hasu