ひさしぶりに嫌なイメージが降臨してしまい、それが右の手のひらだったので、ちょっと困った。物理的に彼女に触れていればそのイメージを抑えることができるのだけれど、そういうときに限って、仕事で不具合が発生して緊急対応をしている最中だったりする。けれども、そういうイメージにはきっと何かしらの意味があるのだと思うし、そこにある予兆を読み取ろうとすること自体は面白い。いまでもそれは残っているけれど、冬になるころには消えていると思う。そして冬には冬で、きっと冬らしい別のイメージがまた身体に憑くことになる。けれども、いまこれが出てきたのは、恐らくここしばらく苦闘していた研究会誌をようやく発行でき、その反動で緩みが生じたからだろう。
そう、先月末に、ようやくいま参加している研究会の会誌の第二号を発刊できた。今回はほんとうに大変な思いをして作ることになったけれど、それだけの価値はあると思う。と同時に、それは発刊された時点で既に過去のものであり、気持ちはもう次の号に向いている。次の号では、腸内細菌からスペースデブリまでを統合的に捉えるような視点を構築し、人類のコミュニケーション史を再定義していく・・・、ということをやろうと思っている。例によって書き始めるとまったく別のものになるのだろうけれど、でも何となく面白そうでしょ?
まあなんかそんな感じで、相も変わらぬスタイルで哲学をしている。基本的にぼくは無害な性格だし、アカデミックな世界に対して利害関係を持たない人間なので、多くの人びとが、ぼくが何をやろうとも無関心か苦笑いで放っておいてくれる。いま一緒にあるひとつの学的フレームを構築しようとしている研究仲間以外には、もうほとんど数人くらいとしか関係が残っていない。それは喜ばしいことで、どのみち哲学なんてものは結局のところ独りでやるしかないし、独りで穴を掘りつづけたら不意にどこか明るい所へ抜け出てしまったという形で、再び皆と再会したりしなかったり、そんなことで良いのだと思う。それが何十年後、何百年後であったとしても。あるいは何億年後であってさえも。物理的な何かが残っていようがいまいが、それはたぶん、あまり関係はない。
ただ、それはそれとして、こんなことを言っているだけでは食べていけないので、数か月くらい前から幾つかの投資を始めた。何しろ生き残らなくてはならないし、そのためにどのような線を引き、選択をするのかというのは、自分にとっての美学や倫理をリアルに認識しなおすという意味でも、思った以上に面白い。そしてありふれた言い方だけれど、そこにはそれなりの、無視できないリアリティも確かにある。幾つかは自分の研究を直接実装し、検証することにもなっている。それにそもそも、ぼくは純粋にゲームが好きなのだ。
絶対に権力を持つべきではない過剰なまでに倫理的行動を強要しようとする自分や、株やら何やらのチャートをモニタ上に並べてニヤニヤしている糞野郎としての自分まで、そういった多面的な「人格」とやらをナニカが眺めている。そうして、そういった分裂しているようにも感じられるすべてを統合し得るような枠組みを、そのナニカを経由して言語化、体系化し書き留めていく。第二号を発刊したあと、仲間と集まって次号の打ち合わせや今号の総評をした。そのなかで、ぼくの論文は、メディアやテクノロジーを扱っているように見えて、実際には神の問題を扱っているんだよね、と言われた。これは、自分自身としても納得の行くコメントだった。ただしそれは好意的なものというより、だからぼくの論文は(その一点を踏まえて読まないと)何を言っているのかさっぱり分からないのだし、そもそもそこで漠然と描かれている存在は一神教的な神であり、その点でも日本的な風土には合わないのではないか、という批判を含んだものだった。これもまた、極めてまっとうな批判だと感じた。だけれども、それが自分の在り方なのであれば、もうそれは仕方のないことだ。
ぼくは何しろ、嘘ではなくて、自分でも驚くほど穏やかな人間だ。そしてこれもまた驚くほど目立たない人間でもある。その全体から漂うありきたり感が気に入っているけれど、でも、最近、もしかすると、他の誰もがそうであるように、自分もまた自分なりのかたちで異様なところがあるのかな、と思うようになった。そしてどのみちそれもまた、大したことではない。誰もがそうであるところの、それぞれ固有の異様さは、つまるところ人間が在るということの原理を映しだすための、ひとつの固有の装置に過ぎないのだから。