Yours sincerely,

ありがたいことに、研究仲間に声をかけてもらい、とある大学で行われる国際フォーラムなるもので発表する時間をもらえました。といっても20分から30分程度のものなので、挨拶をしていたらだいたい終わります。コンニチハ! 挨拶は大事です。ぼくの場合は、「挨拶だけはしていたけれど、得体は知れませんでしたね」と言われるか「挨拶もしないし得体は知れないし、いつかは何かしでかすと思っていましたね」と言われるか、そのくらいの違いはあります。どちらにせよ逮捕はされる。それはともかく相棒に「きみはせめて自分の身体にあったサイズの服を着ればまだましに見えるんじゃない?」と言われているので、まずはフォーラム前にその辺りから改善していく必要があります。そんなこんなで、昨日は仕事帰りにヨドバシカメラに寄り、まずは鞄を探しました。何故服ではなく鞄なのかといえば、鞄は鞄で、ぼろぼろなのです。自分だけのことであればスーツなど着たくもありませんが、ぼくは何よりもまず義を重んじる人間なので、今回は呼んでくれた仲間の面子もありますし、きちんとスーツを着ていくつもりです。しかしそうすると、それに合ったコートも鞄もない。いま使っている鞄ときたらもう、祖父の形見どころか縄文時代の遺物か、というくらいに古い。気に入っているんですけれども穴だらけで、服がこのレベルだったら事案発生です。ヨドバシでカメラバッグを延々一時間ほどじろじろ眺めていたのですが、どうもこれだというものがなく、諦めて帰ってきました。ナショジのバッグは文句なく良いのですが重い。この年になると重いバッグはつらい。

でもまあやっぱりナショジかな・・・、と思いつつ、きょうは別の用事があり新宿へ出たのですが、西口を出てヨドバシ方面に行く半地下みたいなところでよく物産展みたいのやっていますよね、あそこで鞄を売っていたのです。そこで、まあこんなところで良い鞄もないだろうなあ、と特に根拠もなく諦めつつ覗いてみたら、一目見て気に入った鞄がありました。出会いというのは不思議で面白い。帆布工房というところの製品です。青い色の帆布がとてもお洒落で、作りもしっかりしているし、軽い。例によってしばらくはじろじろしていたのですが、でも結局買いました。売り場のおじいさんが「小僧、鞄を買ったら、まずは防水スプレーでもかけるんだな」と言います。「コンニチハ!」ぼくは唐突に挨拶を返します。それにしても良い色です。ひさしぶりに、買ってもまったく後悔のない買い物で、いまはちょっとほくほくしています。あとはコートを買えば何とか形になるでしょう。そういえばネクタイも碌なのがないな。唯一使えるのは会社員時代のものなので、もうかれこれ二十年近く前に買ったものです。天平の甍、などという単語が唐突に頭に浮かびます。まあネクタイは良いでしょう。いざとなれば昆布でも巻いておけばよい。マリンブルーの昆布を見ると、ぼくはいまでも漁師だった祖父のことを思い出すのだ。彼はタカアシガニと格闘して死んだ。タラバガニがヤドカリの一種だとは決して認めない男だった。「だってカニでしょ!」「コンニチハ!」

きょう新宿へ行ったのは、ひさしぶりにICCの企画展で展示されている「デジタル・シャーマニズム」とかいう作品を観ようと思ったからでした。自分の研究にかかわる、けれど非常に糞っぽい内容のように思えたので、それが糞であることだけを確認しに行き、やはり糞であることを確認して帰ってきました。作品と書いてしまいましたが、作品以前の質、芸術以前の質で、ほんとうに困ります。「魔術や信仰、科学やテクノロジー、この両者は、相反するもののように見えて、どちらも「ここにはない何か」を現前させたり、そう感じさせたりする、という性質において、じつは極めて親和性が高く[以下略]」(http://www.ntticc.or.jp/ja/exhibitions/2016/emergencies-030-ichihara-etsuko/)などと書いた挙句、出てきたモノが、いまどきおもちゃ売り場にもなさそうな安っぽいロボットで、頭に触れると聞くに堪えない陳腐な台詞を喋り出します。ただ、作者の、いえこの作者に限らず現代アートとやらを語る大半のアーティストに共通の、異様に肥大した承認欲求が発する腐臭みたいなものは立ち込めており、そういった意味では確かに魔的なものがありました。信仰も科学もテクノロジーもなかったけれど。でも魔であるだけなら、そんなもの、この時代どこからでも漂ってくるものです。その魔の在り方がテクノロジーによってどのように根本的に変容したのか、それを批判するのであればまだしも、自分自身が取り込まれているのではどうしようもありません。ともかく、最初に予想したとおりの出来でしかなく、何もわざわざICCまで出かける意味はありませんでした。そして意味はないということを確認するだけでも、行ってきた意味はありました。先の「複製技術と美術家たち」と同様、今回も一人の探索行だったので、精神的にはそうとう疲弊します。けれども最近はがんばって一人で外出し、自分の論文にリアリティを与えるべく、じろじろと様々なものに目を向けています。

とはいえ、下らないものを見るのは大きなダメージになります。良い鞄に出会えなかったら、覚悟の上とは言え相当落ち込んでいたでしょう。いずれにせよ、フォーラムでは、メディアと魔的なものについて、お気楽にかつシリアスに喋ってこようと思っています。せっかくだから新しい鞄と一緒にね。