露出狂サクラメント

連休の初日、銀座の貸し会議室まで出かけていき、混ぜてもらっている同人誌の編集会議に参加してきました。残念ながらそれぞれに仕事を持ち、遠くで暮らすひともいるので、全員参加という訳にはなかなかいきません。それでもやはり、信頼できる仲間と集まり言葉について遠慮なく容赦なく語れるというのは、とても楽しいことです。

今回の同人誌は、寄稿も含めて論考の質が非常に高く、そこらの学会誌などよりはるかに質の高いものになっています(まだ初校の段階ですが)。若手でも最高の人材が書いているから当然ですが、何しろ一言一言が鋭く重い。それ故、読み手にも相応の覚悟が要求されます。

他方で、自分は物語を毎回掲載しているのですが、そちらの文体はどんどん透明で静かになっていくのを感じています。もともと個性の薄かった自分の文体から、ますます色が抜け落ち、どこにでも、どの時代にもある見慣れた景色のようになっていきます。まあ、それはそれで、同人誌のなかにそういうページがあっても悪くはないだろうと思っています。

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今年もまた所属学会のジャーナルを作成しました。ぼくはほんとうにこの作業が嫌で、ちょっと、何かを病みそうな気配が年々濃厚になっています。そういえば彼女には表紙を褒められました。学会のひとには表紙の写真はもう撮りたくないとお願いしていたのですが、リアクションのないまま、今回も自分で撮影したものを使いました。「まるでメモリアルホールのパンフレット」という彼女の感想により、今回で4冊目なのですが、密かにこれをメモリアルシリーズと呼んでいます。今号の表紙の写真については、彼女から「いよいよメモリアルを極めたね(笑)」と言われたので、ぼくもいよいよあの世的な何かに開眼したのかもしれません。

とにもかくにも、ジャーナル作成は苦痛です。愛のない言葉を校正するというのは、明らかに「拷問及び他の残虐な、 非人道的な又は品位を傷つける取扱い 又は刑罰に関する条約」に反するのではないかと思います。いま巷間では人文系の学問への風当たりが強いですが、だけれども、総体的に言ってそれは自業自得じゃない? というのが正直な感想です。人文系研究者も、人文系不要論者もすべて含めて、自業自得でしかない。薄ら笑いを浮かべながらそう言うと、真面目な研究者には怒られます。まったく申し訳ない限りですが、だけれども、愛のない言葉を書く人文系研究者など、ぼくにはその存在が如何にして可能なのかさえ分かりません。

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あとせいぜい1、2年の間に決めなければならない話ですが、現状のような不安定な生活から足を洗える機会がありそうな感じです。何しろ社会不適応者ですからそのお話もありがたいとは思いつつ一長一短であり、そもそも正社員をやっていたころの自分を思いだすと完全に神経症になっていたと、いま思います。ただ、大学を中退してから会社に入り、おかしくなるまで働いて実際にちょっとどうかしてしまって、そういったことがあったから、いまのふてぶてしくすべてを呪って恬として恥じない自分がいる。だから良かった、とかいうことではありません。そんなことを言ったら、少なくともそのような状況を生み出した現在の社会システムの何かしらを肯定することになるし、そうであれば、そういったものに押し潰されてさよならをした誰それさんに対して、生き残った人間として限度を超えた恥知らずになってしまう。

だからそうではなくて、その経験を通して自分が自分で思っているような、繊細で高邁な人間ではなく、ただただひたすら鈍重で醜悪で俗悪な糞野郎だということを知ることができたという点においてのみ、それは意味がありました。糞なんだから仕方がない。でも、生き残るために、それ以上に重要な知識はありません。そうじゃないでしょうか?

いまさら、そんな自分がどこかの組織に属して働くなどということができるだろうかというのは、相当に疑問です。あるいは逆に、変な理想や信念のあった昔のぼくとは違い、案外平気で、鼻歌交じりでやっていくのかもしれません。分かりませんが、とにかく、喰っていくためには何もかもが仕方ありません。仕方がある、と言えるときが来るとすれば、それはそれで、自由な道が最終的にひとつは残されていることになります。でも何しろぼくは糞野郎だからなあ。

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研究者を続けるか会社組織に潜り込むかあるいは自分で会社を作ってしまうか、そのいずれを選ぶにせよ、所詮は糞のような道しかありません。だけれども、こんなことも思います。居なくなってしまった人びとへの責務がいままでの自分を駆り立ててきたということは、ある一面においては確かでしょう。それでも、同人誌や研究会誌に誘ってもらい、少なくともそれを書いた時点で恥じることのない文章を書くことを通して、少しずつ、それで良いのかもしれないなあ、と思うようになってきています。自分の文体が透明になっているのを感じるのも、恐らくこのことと無関係ではありません。

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少しずつ、出口も入口も減っていきます。最後にはただ出口の一つだけが残される。だけれど別に暗い話ではなく、それはそれで、七転八倒する自分の姿というのは、奇妙にユーモラスで面白いものです。それは突き放しているということではなく、ぼくがぼくである前後の人生のすべてを貫く魂のようなものがぼくを見下ろすその広大な俯瞰のなかにある愛のようなものなのです。そんな言葉をもし書けたら良いですね。このひと大丈夫でしょうか。けれども、頭が良いだけの人びとにに何を言われても、選ばれし糞であるぼくとしては、中指を立てつつ地獄へ堕ちろとただ答えるのみなのです。