[アーカイブ]夜の前まわり(2009/06/08)

最近中々寝つけない。不思議なことに夏が近づくにつれ睡眠時間が減っていくが、それにしてもちょっと不眠ぎみ。三時くらいまではまだまだ大丈夫だなんて余裕があるけれど、四時くらいになると少々憂鬱になってくる。とは言えこうやってブログを書いたりもできるので、悪いことばかりでもない。

先日駅前で盛大に転び、傘を持っていたので変な風に手をついてしまった。骨は痛めなかったけれど(何しろ骨格だけは頑丈なのです)、地味に痛い。やれやれなんて思いながら横断歩道まで行くと、珍しく自動車が止まってくれた。「どうも〜!」という感じで軽く手を上げ渡ろうとしたら、運転席の女性が目を見開いてぼくを見つめていた。何故? と思って右手を見たらだらだらと流れる血で真っ赤。うわあ。とりあえず服を汚さないようにしながら駅へ急ぎ、どうにかスイカを取り出して改札を通る。駅のトイレの洗面所でしばらく血を流してから止血。

ちょっと注意力が落ちているのかもしれない。とは言えこれはよくあることで、だからこそ「用心スキル」を普段から身体に刻み込んでおく必要がある。特に相棒と歩いているときは、彼女はとにかく無用心なひとなので、常に守るように歩かなければならない。自転車や自動車や落下物や道路の凹凸や人間や暴れ牛や、とにかく外には危険が一杯だ。一緒に歩いていると、基本的には心休まる暇がない。

とはいえ常に緊張状態にあるのかと言えばそんなこともなく、夜、相棒と散歩をしていたら、住宅街の中に小さな公園を発見した。ブランコや滑り台、そして鉄棒がある。彼女が「鉄棒をする」と言うので、ぼくもひさしぶりにやってみる。かなり低くてかえって怖いのだけれど、前まわりに挑戦。ぜんぜんできなかった。これはちょっと衝撃的。被害妄想的世界に生きるぼくにとって身体能力の維持管理は必須事項だから、そんな不摂生をしているわけではない。むしろかなり頑健だし筋力もある方だと思う。ところがぐるりと半回転して、頭を下に向けたところでもうにっちもさっちも行かなくなる。子供のころはぐるぐる回っていた記憶があるのに、いつの間にこんな風になってしまったのか?

などとしみじみ感じるような性格はしていないので、しばらくぶらんぶらんして楽しんでいた。相棒は何か鉄棒に絡みついてナマケモノみたいにして遊んでいた。そんな感じで、のんびり過ごしています。

あと学会発表終わりました。残るは今月一杯で別の論文の全面リライトと、その他細々した物事。まあ何とかなるでしょう。

それから彫刻家から連絡があって、向こうでの個展がうまくいき、少しずつ注文も来始めているとのこと。今回の個展のパンフを送ってもらったのだけれど、「新進気鋭」と紹介されていて、何て言うのかな、ぼくはこの年で博士課程に在籍していることに対して一切揺らぐことはないけれど、それでもちょっと勇気づけられる。彫刻家はぼくより年上だけれども、それでもまったく新しい土地で、いままでと作風を変えて一から始めている。それで戦っている。素直に尊敬するし、同時に、負けてはいられないとも思う。

ほんと、負けてはいられないですよね。

[アーカイブ]せめて恥を知ろう(2006/08/20)

言葉には力がある。プログラマなら誰だって知っていることだ。言葉には、世界を造る力がある。いや、言葉そのものが世界だと言ってもいい。それこそがプログラミングの本質だとぼくは思う。だからぼくは、悪い言葉は書きたくない。粗雑な言葉も、粗暴な言葉も、相手を見下したような言葉も書きたくない。もし世界が完璧なら、誰もわざわざ別の世界を造ろうとはしないだろう。この世界がまったく完全どころではないと知っているからこそ、ぼくらはたどたどしくも新しい世界を言葉によって造ろうとするのだ。そうであれば、何もわざわざ不快な世界を造る意味はない。

それにも関わらず、これだけは書きたい。昨日、ふとした流れで行ってきた「小さな骨の動物園展」(INAX GALLERY)。
http://www.inax.co.jp/Culture/2005g/12hone.html

最悪だった。昨日が最終日だから、ぼくも運が悪かった。

これは、小動物の骨格標本の展示。上記のサイトを見てもらえれば、「生命の神秘」とか何とか奇麗事が書いてあるが、そんなものは後づけのおためごかしだ。ぼくは少なからずニヒリスティックなところがあるが、それでも生命をせせら笑うほど落ちぶれてはいない。これは、一生懸命生きてきた動物たちを、死んだ後に晒し者にしているだけでしかない。行かなければ分かってもらえないと思うが、本当に晒し者だった。写真撮影が許可されていたので、多くの人間が、友人たちと笑いながら、デジカメや携帯のカメラで骨を撮っていた。

生命の神秘? 冗談じゃない。下品に笑いながら、後々の話のネタにするために携帯のカメラで動物の死体を撮る連中のどこに、生命への畏敬の念があるというのだ。

何を怒っているのか、分かってもらえないかもしれない。でも、ちょっと想像してみて欲しい。自分が大事に育てた犬が居たとして、いや猫でも金魚でもいいけれど、それが死んでしまったとしよう。その犬が標本にされて、ただ物珍しさや下世話な興味だけで来るような連中に写真を撮られ、「カッコいい!」だの「スゲエ!」だのと笑いながら指をさされるのを見たら、怒りを覚えないだろうか? そうでないのなら、それはそれで良い。あなたはきっととても心の広い人間なのか、あるいはぼくの心が異常に狭いかのどちらかだろう。

でも、少しでも共感してくれるのなら、きっと、あの場の異様さも分かってもらえると思う。どんな生き物も、我々の一時の退屈しのぎのために精一杯生き、死んで、標本になった訳ではない。自分以外の生き物の生も死も、下らない好奇心で触れてよいものではないはずだ。

自分が死んだ後、骨格標本となり、どこの誰とも分からない連中が押し合い圧し合いしながらニヤニヤ笑いつつ携帯を向けて写真を撮りまくる。ちょっとで良いから想像してほしい。死んでしまえばすべては無だと考えているぼくでさえ、そんな仕打ちはごめんこうむりたい。そこに「生命の神秘」とやらを感じる可能性があるというのなら、そう思う人の思考回路こそ神秘に違いない。

「生命の神秘」? 本当に、冗談はやめてほしい。

そうか。きっとぼくは、真実を伴わない、ただ表面だけ取り繕うだけの言葉を平気で使う人間が、嫌いなのだ。まして自分でその欺瞞に気づかないようなら、それはもはや救いようがない。

[アーカイブ]考える/疑う/伝える(2009/07/18)

ある時期、ぼくは会社で新人研修を担当していました。ぼくがいた会社は小さなところでしたので(ソフトウェア会社としては普通でしょうが)、新人研修担当は自分の仕事にまるまるプラスで新人の面倒を見なければなりません。その負担は結構大きいのですが、ぼくはそもそもプログラムそのものも、プログラムに関して考えることも好きなので、この仕事は本当に楽しんでやっていました。

さて、研修において、しばしば新人さんたちが共通して戸惑うことがありました。それは10進‐16進変換です。コンピュータでは2進数が基準になりますから、それをもう少し扱いやすくした16進表記に慣れる必要があります。これは技術的には極めて容易なことですから、慣れてしまえばどうということはありません。けれども、単なるテクニックとして10進‐16進変換ができても、それではあまり面白くないのです。というより、そんなことを言ってしまうとあらゆることが単なるテクニックで片づいてしまう。理解し、使えるというだけでは、三流のプログラマにしかなれないとぼくは思います。「良い歯車」を作る新人研修など反吐が出そうです。

さて、10進‐16進変換に話を戻しますと、新人さんたちはこのように言うことが多いのです。「16進で13は、本当は19です」。プログラムをしているほとんどの方は、こんなこと言わないだろうと思うでしょう。また、プログラムをしない方はそもそも何を言っているのかお分かりにならないかもしれません。けれども、経験的にこういう言い方(この通りでなくとも)をする新人さんを何度も見てきました。要するに、初めて16進数に触れたとき、それはすごく人工的なものに感じられるようなのです。彼らの感覚では、「本当の数」はあくまで10進数であって、16進数は単に技術上便利だから作られた、ある種仮想的なものに過ぎない。だからこそ、最初のうちは10進‐16進変換を頭の中で意識的に変換しないといけないのです。

でも本当にそうなのかな、と、研修担当だったぼくは彼ら/彼女らにねちねち絡みました。いや嘘です、さわやかに絡みました。本当の数ってなんでしょう。10進数だって、人間の恣意に過ぎないのではないでしょうか? 人類の指が基本的に4本4本の8本構成だったら、ぼくらは8進数の世界に生きていたかもしれない。そんな世界では、きっとぼくらは、「10進数の12は、本当は14」だと考えていたかもしれない。本当って、何でしょうね。

ぼくらが直接には表現できない本当の数っていうものがあって、10進も16進も2進も、いや何進数だっていいのだけれど、それは単に、その本当の数のそれぞれ恣意的な現れに過ぎないのかもしれない。それを感覚的に理解している人というのは10進‐16進変換に何の抵抗も抱かないのです。恣意‐恣意変換は、真‐仮変換よりも移行がたやすいということかもしれません。もちろん一般的に言えばそんな変換などたいした手間ではありませんから、慣れてしまえば誰だって問題なくできます。けれども根本的なところでそれは頭の良さに頼った方法ですから、進数の変換だけではなく、あるものとあるものを変換するということにおいて、問題が複雑になるにつれ、だんだん対応するのが大変になってきます。

いずれにせよ、ぼくらは言葉では捉えきれないリアルな何かに対して恣意的に言葉を与え、それを表現し、形を与え、理解可能なものへと落とし込んでいくしかない。それがプログラミングです。それは、不定形のナニモノかを切り落とし、ぼくらが共通認識できる形へと暴力的に整形してしまうことです。それはそうせざるを得ないのですが、けれどもその向こうにある不定形の何かに対する感覚を忘れてはならない。ぼくはそう思います。

と、そんなことをですね、プログラムの基礎を普通に学ぶ一方で、新人さんたちと一緒に考えるのです。無論、この通り話すわけではまったくありません。そもそもここまで話した内容って、完全に適当な法螺です。けれども、ぼくは新人研修において、何よりもまず考えることに重きを置きたかったのです。そして当然、ぼくの法螺に対して疑うということも。

本に書いてあるから、学校で学んだから、先生や先輩が言っているから、あるいはそれが習慣だから。冗談ではありません。そんなものを疑わずに飲み込むようでは、まともなプログラマになどなれるはずもないのです。あらゆるものを考え、疑わなければならない。一方で、ぼくは口だけはうまいので、そんなぼくを言い負かし、言いくるめられるくらいに、自分の考えを伝える能力も身につけなければなりません。プログラミングの知識と技術だけあってもコミュニケーション能力が低くては一流のプログラマにはなれません。プログラマに限らないですが。別に社交的であれ、ということではなく、自分の考えを他人に伝える能力ということです。

一からプログラムを学ぶのは、語学を学ぶときと同じくらい、多くの違和感や疑問を感じるチャンスです。単に技術を学ぶだけなら、誰にだってできるでしょう。けれども、自分の腕に誇りを持てるプログラマになるためには、あるいはプログラムを組むことの楽しさを知るためには、ぼくはその第一歩として、考える/疑う/伝えるということが欠かせないのではないかと思っています。

まあ、全部法螺なのですが。

[アーカイブ]新世紀宮沢賢治(2009/07/29)

ぼくは以前、はてなブログで書いていました。はてなをやめて、ここで書くようになって、そのとき、あまりに投稿が多くてすべては引っ越しませんでした。でもひさしぶりに非公開設定にしてあるはてなブログを眺めてみたら、個人的にはですが、けっこう懐かしくて笑える投稿があるのです。そこで、いまは次の論文に向けてなかなかブログを更新できないでいますし、せっかくなので昔の投稿をこっちに持ってこようと思います。[アーカイブ]カテゴリーでまとめていきますので、良かったらお読みいただければ幸いです。基本、ばかばかしいお話が多いです。というわけで、第一回目は「新世紀宮沢賢治」。そうそう、ぼくは何しろ記憶力がないので、毎回毎回、投稿の間隔が空くたびに自分の文体を忘れていたんですよね。

こんばんは。誰も待っていなかったでしょうけれど、二週間ぶりの雑記です。いや誰も待っていなかったとしてもこのぼくが待っていたのです。雑記! おお何という甘美な響き! 何を書いても誤魔化せ……もとい、許されるというこの究極の自由! などと言いつつ、いつものことですがこのブログの文体を忘れてしまいました。いつもぼく、どんな感じで書いているんでしょうか。良く分かりません。分りませんがまあこのまま書いてみましょう。

昨晩連絡がありまして、論文が通りました。ゎぁぃ。と、少し喜びました。論文は良いですね。反論があってもそれは言葉で来るから、こちらもじっくり言葉で応答することができる。学会発表とかはダメです。相手が何を言っているのか良く分からないけれど、本気で訊き直しているうちに時間が終わってしまう。いや本当に何を言っているのか分らない。そして向こうもぼくが何を言っているのか分らないのでしょう。と思って、前回の学会発表では録音を取りました。セルフ録音。セルフつける意味あるのかな。でも自分の声を聴くのって嫌ですね。自分の歌声とか聴くと、普通に昏倒してその後三日間くらい昏睡できます。あと、人前で話すときはだいたい頭の中が真っ白になっていますから、後になって不安になります。何かとんでもないことを叫んでいたりしなかったかしら、と。だいたいこういうときって身体に刻み込まれた言葉がでてくるでしょうから、ぼくの場合は大学時代にやっていた人形劇の台詞ですね。「お兄ちゃん、お遊戯しよう! お遊戯しよう!」とか「じゃあぼく、これ食べちゃうよ!」とか「うん、ぼく根性ある!」とか、何かそんな言葉が無意識のうちに口から出てしまっているのではないか。そんなことを考えながら、録音機の前でぶるぶる生まれたての小鹿のように震えていたのですが、なあにソクラテスだって毒の杯を飲んだではないか。で、聴いたのが三日前でいままで昏睡していたのですが、意外にまともに喋って受け答えしていました。当たり前か。

そんな感じでそもそも人と話すのが苦手なのですが、その上さらに、どうもぼくは耳が悪いようなのです。いや自分ではそうは思っていなくて、むしろ他の人よりも身の危険を知らせる音には敏感だと思っているのですが、でも実際、人の話している言葉が良く聴き取れないのは事実のようです。特に相棒の話が最近聴き取りにくくて、といってもこれは前からその傾向はあって、彼女の声質のせいもあるとぼくは思っているのですが、ともかく聴き取れないことが多い。先日一緒に食事をしていたときに、彼女が子供のころにどんなおやつを食べていたか、と訊いてきました。子供のころなんていったらあなた、もう三十年弱前ですよ。この前怖い話のまとめサイトを見ていたら、「築三十年の廃屋」とかが出てきて古くて怖〜いとか書いているやつがいた。三十年なんてわけーよ俺の方がこえーのかよ! とか切れやすい十七歳のニバイニバ~イとか思っていたのですが、そのくらい昔のことです。でも話しているうちにいろいろ思い出してきてけっこう懐かしかった。ちょっと話がずれますが、サラリーマンになって何がいちばん嬉しかったかっていったら、これはもうカルピスを原液で飲める! という一事に尽きました。何という贅沢。何というこの背徳感! 気分はもうかぶと虫です。まあそれはともかく相棒にも訊いてみました。きみは子供のころどんなおやつを食べていたの? そうすると彼女は「釣り餌」と答えたのです。いや……いくら何でも、釣り餌はないだろうと思うのですが……しかしもしかしたら、と思わせる何かが彼女にはあります。いやないけど。で、もう一度訊き直したのですが、やっぱり「釣り餌」に聴こえる。「釣り餌!?」と訊きかえすと違うよと言うのだけれど、とりあえず釣り餌でいいやと自己完結して、その話題は終了しました。

そんな感じで、査読つき論文が通りました。まだまだ先は長いけれど、とりあえず博士号に向けて第一関門は突破です。神学士、環境学修士ときて最後は農学博士。脈絡はなさそうですが、目指すは二十一世紀の宮沢賢治。どっどど どどうど どどうど どどう 青いくるみもぶっ殺せ! すっぱいかりんもぶっ殺せ! 「莫迦め、クラムボンは死んだわ」

このブログの文体、どんなんでしたっけ……。