[アーカイブ]せめて恥を知ろう(2006/08/20)

言葉には力がある。プログラマなら誰だって知っていることだ。言葉には、世界を造る力がある。いや、言葉そのものが世界だと言ってもいい。それこそがプログラミングの本質だとぼくは思う。だからぼくは、悪い言葉は書きたくない。粗雑な言葉も、粗暴な言葉も、相手を見下したような言葉も書きたくない。もし世界が完璧なら、誰もわざわざ別の世界を造ろうとはしないだろう。この世界がまったく完全どころではないと知っているからこそ、ぼくらはたどたどしくも新しい世界を言葉によって造ろうとするのだ。そうであれば、何もわざわざ不快な世界を造る意味はない。

それにも関わらず、これだけは書きたい。昨日、ふとした流れで行ってきた「小さな骨の動物園展」(INAX GALLERY)。
http://www.inax.co.jp/Culture/2005g/12hone.html

最悪だった。昨日が最終日だから、ぼくも運が悪かった。

これは、小動物の骨格標本の展示。上記のサイトを見てもらえれば、「生命の神秘」とか何とか奇麗事が書いてあるが、そんなものは後づけのおためごかしだ。ぼくは少なからずニヒリスティックなところがあるが、それでも生命をせせら笑うほど落ちぶれてはいない。これは、一生懸命生きてきた動物たちを、死んだ後に晒し者にしているだけでしかない。行かなければ分かってもらえないと思うが、本当に晒し者だった。写真撮影が許可されていたので、多くの人間が、友人たちと笑いながら、デジカメや携帯のカメラで骨を撮っていた。

生命の神秘? 冗談じゃない。下品に笑いながら、後々の話のネタにするために携帯のカメラで動物の死体を撮る連中のどこに、生命への畏敬の念があるというのだ。

何を怒っているのか、分かってもらえないかもしれない。でも、ちょっと想像してみて欲しい。自分が大事に育てた犬が居たとして、いや猫でも金魚でもいいけれど、それが死んでしまったとしよう。その犬が標本にされて、ただ物珍しさや下世話な興味だけで来るような連中に写真を撮られ、「カッコいい!」だの「スゲエ!」だのと笑いながら指をさされるのを見たら、怒りを覚えないだろうか? そうでないのなら、それはそれで良い。あなたはきっととても心の広い人間なのか、あるいはぼくの心が異常に狭いかのどちらかだろう。

でも、少しでも共感してくれるのなら、きっと、あの場の異様さも分かってもらえると思う。どんな生き物も、我々の一時の退屈しのぎのために精一杯生き、死んで、標本になった訳ではない。自分以外の生き物の生も死も、下らない好奇心で触れてよいものではないはずだ。

自分が死んだ後、骨格標本となり、どこの誰とも分からない連中が押し合い圧し合いしながらニヤニヤ笑いつつ携帯を向けて写真を撮りまくる。ちょっとで良いから想像してほしい。死んでしまえばすべては無だと考えているぼくでさえ、そんな仕打ちはごめんこうむりたい。そこに「生命の神秘」とやらを感じる可能性があるというのなら、そう思う人の思考回路こそ神秘に違いない。

「生命の神秘」? 本当に、冗談はやめてほしい。

そうか。きっとぼくは、真実を伴わない、ただ表面だけ取り繕うだけの言葉を平気で使う人間が、嫌いなのだ。まして自分でその欺瞞に気づかないようなら、それはもはや救いようがない。