コントラストロノーツ

とある打ち合わせのあとに時間が空いたので、彼女とふたりで、目黒の庭園美術館でやっている「ブラジル先住民の椅子―野生動物と想像力」を観てきました。この美術展のタイトル、そんなに単純に受け入れられるようなものであってはならないと、個人的には思います。先住民とか野生動物とか想像力とか、そういった言葉遣い、言葉の並びのなかには、どうしてもある種の無自覚的な暴力性が伴わざるを得ないからです。展示の最後の方では現地で撮影したドキュメンタリーを上映していて、そのラストで、製作者たちがひとこと、自分の名前を言ったりするんですね。それは凄く印象的なシーンなのだけれど、でも、そこで彼らが自らを「アーティスト」であると名乗る、自己をそのようにして規定せざるを得ない、そのことの背景にあるものに、やはりぼくらは注意深くあらねばならないと思うのです。それを眺めているぼくらって、いったい誰なんでしょうか。その「誰」とは、いったい何を準拠点として計測されたものなのでしょうか。

でも、それはそれとして、動物たちの椅子はユーモラスで美しいものでした。特に最後の部屋では、黒ベースが多い椅子と白い部屋との対比、そして木の椅子の美しい曲線と白い床に落ちるシャープな影との対比が見事で、めずらしく展示方法として成功しているように思いました。けれども、そこかしこに白いクッションが置かれ、観客がそこに凭れてスマートフォンを弄っているのですが、それはどうなんだろう。これはぼくの反応が病的であることを認めたうえで書くのですが、どうも、そういった人びとから滲みだしている自己意識というものがほんとうに怖ろしく、みなスマートフォンに集中しているので静かは静かなのですが、そこには同時に凄まじいまでの自己意識の叫び声が鳴り響いてもいて、想像力の対極にあるようにも思えるその叫び声に、ぼくはひどく消耗しました。

もちろん、「椅子かわいい」で何も問題はありません。そもそも問題のあるなしなどぼくに決められるわけでもありませんし、実際、下の写真だと伝わりませんが、いろいろな動物を象った椅子はそれぞれにほんとうにかわいいし、ユーモラスです。だけれども、そのワッとしたかわいさとユーモアのどこかに、寂しさがある。そうして、寂しさは同時に静けさでもある。物理的にはどのみち静かな展示室で、でも静けさとにぎやかさ、無音と騒音が幾つもの次元にわたって交差しているのを、彼女とふたりでぼんやり感じていました。

生活派

いろいろあって時間がかかってしまいましたが、ようやく最新の論文がアップロードされました。客員研究員として所属している研究所の、研究部会のウェブサイトから、あるいはぼく自身の(地味ですが)研究業績一覧を羅列しているサイトからダウンロードすることができます。このブログは基本的に匿名的な感じで書いていますが、ぼくの名前をご存じの方はすぐに検索できますので、興味があれば読んでもらえれば嬉しいです。今回は雑誌の表紙も良いので(まだオンライン版しかありませんが)、そちらもぜひ。

先日、長年深くかかわっていた学会をようやく退会できて、そうしたらほんとうに気が楽になって、自分でも驚きました。生きるってこんなに気が楽なことなんだ、みたいな。といっても、仕事の方が泥沼状態に陥っているので、どのみち人生全然楽ではないのですが……。

参加している学会の数が減ると、それはけっこう論文数に直接響いてきますし、特にぼくのようにニッチな研究をしている場合は、その影響は顕著に出ます。知るか、業績のために研究してんじゃねえよ! と、突然キレたりしつつ、何だかんだで楽しく研究しています。仕事は地獄だけれど。でも、苦しいとか楽しいとか、そういう言葉を一つ超えた次元で、やっぱり研究は楽しいのです。そして同時に、そこには生活もあるわけですしお金は欲しいわけですから、庭から石油でもでないかしら、などと環境倫理を一応やっている人間とは思えないような妄想に耽り、ニヤニヤしたりもしています。

毎日、会社に行くのが憂鬱です。それでも、3時間を少し切るくらいの通勤時間のあいだに、次の論文のための本や論文を読んでいると、とても幸せです。アイデアだけは幾らでも湧いてきますし、読んだ内容について議論をする相手だって頭のなかに幾らでも居ます。寂しいひとだ! 正直、パーマネントな職を持っているひとたちは、研究室を持てるというだけでも、というよりその一点においてのみ羨ましいのです。ぼくは、たぶん一番研究に時間を割いているのは、電車のなかです。だけれども、無いものを羨んでも仕方がありません。喰っていくということは生きる上でもっとも重要で欠かせないもので、それがリアリティを生み出します。だとすれば、哲学そのもので食べていけるだけのお金を得ていないぼくは、所詮は傍流でしかないのかもしれません。

だけれども、それこそ「知ったことか!」です。ペンと紙さえあれば、いえ、考える脳さえあれば哲学はできますし、それができないのなら、そいつには結局哲学なんぞできるはずもありません(哲学研究はできるかもしれませんが)。なんて偉そうなことを言いながら、実際にはノートパソコンとインターネットがなければ、論文執筆の効率も相当に落ちるでしょう。お金もないのに、耐震上の問題から早急に家を改築しなければならず、ならばついでに四方の壁全面を作りつけの本棚にした部屋をひとつ作ろうなどと妄想に耽り、再びニヤニヤしたりもします。繰り返しますがお金もないので、相変わらず株に手を出してちまちま小銭を儲けたりもしています。それでも最低限の線は引き、自分の倫理観に照らし合わせて納得の行く企業の株にしか手は出しません。

そんな、嘘と建前と破綻だらけの生活で、それでも、そういった全体からこそ生まれるリアリティがあるとぼくは思うし、そういったリアリティによって支えられる哲学だってあり得るのだとぼくは思います。そんな思いを抱きつつ、だからぼくは、最近、研究仲間の内で自分の立場を「生活派」などと自称して笑っています。あまり伝わりませんが、自分が笑えるのですから、それで良いのです。

今朝、ぼんやり庭を眺めていたら、ガマガエルがのそのそ姿を現し、しばらくしてまた壁の陰に戻っていきました。だからやっぱり、庭から石油などが湧いて出てきたら困ります。困ることばかりですが(もっとも石油は湧いてこないので、それについては困りません)、日常生活は所詮困ることの総体としてしかありはしないのです。だからせいぜい、壊れるまではこの日常のなかで、哲学をしていくしかないのでしょう。それはそれで、リアルで幸福なことだと思っています。

leaf

hasu

そう、ティコ・ブラーエのようにね。

もうきみがこんな話にうんざりしていることは十分承知しているけれど、また、家に「な」が出たんだ。昨晩、トイレに。だからぼくは、もう24時間近く手洗いに行っていない。水分はすべて汗で蒸発させようと、延々スクワットをする。汗くさくなり、お風呂に入りたいけれど、考えてみるとお風呂場なんて「な」の出現する危険性がいちばん高いところじゃないか。すべてがバラの香りとなって毛穴から出ていく銀河鉄道の夜の乗客でもあるまいし、何が何でも風呂に入らねばならぬ。だが入れぬ。思えばぼくの人生は「な」との闘争にのみ費やされてきた。すべて撤退戦だったけれどもね。――地獄ぢあ 地獄ぢあ、と、誰かが耳元で呟いている。だからぼくは、こんな世の中とはオサラヴァすべく、Oculus Goを買ったのさ。

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で、Oculus Goです。このブログ、ご存じのように何かのレビューとかできないししないので、特に使用した感想を書くというわけでもないのですが、でもまあ、子どものおもちゃだと思いました。良いか悪いかはともかく、基本的にそれ以上のものではありません。それでも、何しろぼくらが子どものころは想像もできなかったようなデバイスやコンテンツが2万円と少しで手に入るのですから、興味があるひとは手に入れても後悔することはないとは思います。とはいえ……その2万円というコストがほんとうに2万円なのか、ということに、ぼくらはもっと慎重になるべきなのかもしれませんけれども。

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ともかく、前にも少し書いたかもしれませんが、ぼくはVRというものは基本的にたいして評価していません。ですので、メディア論で論文を書くときも、原則、VRではなくAR、という立場で書いています。それは技術的な次元の話ではなく、造られたものと在るものの存在論的な差、ということです。その、在るものの変容こそを問う必要がある。

同じようにAIに対してもまったく評価を与えていません。あんなものはただの高速計算に過ぎない。とはいえ、だから凄い、ということも言えます。高速かつ大量かつ正確な、けれどもただの計算でしかない、というところにこそ、コンピュータが持つ凄まじいパワーの魔術性がある。そこにシンギュラリティだの知能だの、電通の戦略レベルにお粗末な話を持ってこられると萎える~、と思う訳です(ちなみに、MRに対しても、ぼくは電通的なコマーシャリズム以上のものを見いだせません。今後商業的にMRという名称が主流になっていくとしても、それは本質的な問題とは無関係だと思っています)。AIについては、また改めて書こうと思います。

ぼくは決して技術否定主義者ではありません。そもそもぼくの議論に対してそういう批判をしてくる連中の多くがまともにプログラミングすらできず、コンピュータの動作原理も知らずなので困ってしまうのですが、でも、所詮は技術なんです。そして「所詮」というのは、所詮人間に過ぎない、とか、ぼくらは所詮死ぬ運命にある、というのと同じで、そこには多くの意味が込められていなければならないものです。それが分かっていないなら、VRについてのメディア論の言説なんて、阿呆なものにしかなり得ない。現実も他者もそこに描かれないのであれば、VRは結局ただのスクリーン以上のものではないし、妄想の話をしたって、意味はありません。

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でも、「所詮」と同じく、「結局」だって、大したものかもしれませんよね。映画だって結局ただのスクリーンですが、ぼくらの人生に大きな影響を与えるような作品が幾らでもあります。もちろん、絵画や写真や映画とVRでは、根本的なところでまったく性質が異なっている。それは事実で、それが自分のいまの研究における――といってもここ三年がかりでやってきた研究であって、既にほぼ終息しつつあるものなのですが――重要なポイントになります。でも、ここではそのことはちょっと置いておいて、とりあえず共通点から考えると、その形式(写真や映画やVRヘッドセット)を突き破って、その向こうから現実や他者が現れてくるかどうか、ということが問題になってきます。

それがなければすべてはゴミだ、ということではありません。それにまた、現実や他者が現れるということは、政治的に正しくなければならないとか、現実の問題を扱わない娯楽作品は糞だとか、そういうことでもまったくありません。では何かといえば、それは端的に、意のままにならない、というところにあるのだとぼくは思います。圧倒的なリアリティというものの根本にあるのは、きっとこれです。自分の意のままにならない、という絶対的な直観。それが作品に命を与える。

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そういった意味では、実はARだって、現実なり他者なりに対して、意のままになるんだという幻想を、ぼくらに強烈に与える方向に機能することだってできます。商品としては、むしろそれが主なる意図です。VRだってARだって人間が生み出した技術だから、それは変わりません。でも、非常にざっくり言ってしまえば、造られたものと在るものの存在論的な差、というそのベースはまったく異なるし、その違いは無視できないものでしょう。それが、ぼくがARこそを議論の対象とする理由です。無論、ARの方が望ましい、ということではなく、その方がぼくら人間の在り方に本質的な影響を及ぼすだろう、ということです。VRは、まだ当分のあいだは、おもちゃにすぎません。

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でも、ひとつ、面白いアプリがありました。
“Notes on Blindness”というもの。このページに掲載されている紹介文をちょっと意訳してみます。

数十年に及ぶ恒常的な視力低下の後、1983年、John Hullは完全に視力を失いました。彼は自らの人生の激変を理解するための一助として、自身の経験をテープ上で文書化し始めました。このオリジナルの録音された日記は、失明に対する知識と情動に基づいた彼の経験の探究という物語の、新たな形式によるインタラクティブなノンフィクションというこの作品の基盤を成しています。

繰り返しますが、意訳です。そもそもぼくはフィーリングでしか英文読めないので。でも、この作品がとても良いのです。確かに映像は美しい。

notes on blindness
oculus goでキャプチャしたnotes on blindnessの一場面。実際にはもっと美しく、幻想的。

けれども、美しいだけであれば、それはただのビット情報に過ぎません。つまり、美しいということが表層的なイメージに終わるだけであるのなら。でもそうではない。あるとき、その向こうから現実が、他者が、イメージを突き破って圧倒的なリアリティとともに現れる。それがほんとうの意味で美しい。VRはぼくらにこことは異なる世界を体験させてくれるとか何とか、それはまあ、繰り返しますが、おもちゃとしてはそれで良いのです。でもほんとうの意味で異なるということであれば、それはどうしたって、このぼくの意のままにならない何者かがそこに在るからでしかあり得ないのです。そしてそうであるとき、VRとかARとか、そういった形式上の差異は、ほとんど無意味なものになっていくでしょう。

確かにVRでありつつもこことは別の、だけれども圧倒的な現実を描くことに成功している”Notes on Blindness”を眺めながら、そんなことを、改めて認識しました。何だか真面目な内容になってしまったな……。

そんな感じの論文を

再び仕事をさぼり、Memo Aktenの展覧会に行ってきた。展覧会といっても小さなギャラリーで、わずかな点数の作品が展示されているのみ。だけれども平日だし、実質貸し切りのようなもので、ゆっくり観ることができた。社会的評価や貯蓄など弥の明後日の彼方に投げ飛ばした対価として得られるのはこの程度のことでしかない。でも、ぼくにとってそれは悪くない取引だ。

展示してあったのはGloomy Sunday (2017)Waves: Violence Breeds Violence (2015)Equilibrium (2014)、あと2点……だったと思う。いわゆるメディアアートに分類されるものだけれど(でも、アートを分類する、というよりも何がアートで何がアートでないかというのを形式から決めるというのは、あまり意味がないよな、とも思う)、そういったものに関心があるひとは、行って損はないと思う。それはメタ的な意味で、だって、上のリンクをクリックしてもらえれば分かるように、作品自体はウェブ上で観ることができる。それこそ自分の好きな時に、好きな場所で、好きなペースで。わざわざギャラリーなどに行って観る、ということ自体、ベンヤミン的に考えればぼくらがせっかく手にした複製技術のもつ力を自ら捨てているようなものかもしれない。だから、そのメタ的な意味で、ということについて、少し書こうと思う。

観るということは、ただギャラリーに行ってその場に突然立っていて、ではない、それが重要なのだとぼくは思う。髪がぼさぼさだなとか、無精髭生えているけれど髭剃りないなとか、ジーンズ穴だらけだなとか靴は泥だらけだなとか、そもそも俺この一週間仕事以外で発声していないなとか、そんな状況で外に出るのも怖いし億劫だし、実際外に出れば人の視線が身体に痛い。無論そんなものはすべてただの被害妄想だと頭では分かっていても、じゃあお前ファントムペインはペインじゃないのか、という話だ。電車の乗りかえだって恐ろしい。誰もが殺気立っていて、ほんとうに生きて帰れるのかなあといつも考えてしまう。でも父さんは帰ってきたよ! と、突然パズーの物真似をしても心は晴れない。そもそもぼくの父は船乗りだったので、だいたい帰っては来なかった。

そんな思いをして六本木まで行く。六本木は、遥か四半世紀も昔、まだぼくらが十代だったころ、彼女に連れられて幾度も行った。小さな映画館や青山ブックセンターに行ったのを覚えている。得体のしれない連中が溢れかえっていて、毎回、ぼくはちびるんじゃないかと怯えていた。当時の彼女はなかなかにクールなガールで、思えばよくまあ、ぼくはつき合えたものだ。人生のなかでただ一度だけ、或る一つのものに執着するスイッチをぼくは持っていて、それをそこで使って、あとは一切の執着心を失ったポンコツ人生だけれど、悪くはない。

ともかく、六本木だ。二十数年プログラミングで食べてきて、メディア論が専門ですとか言いながらもスマートフォンを持たないぼくは少し道に迷い、例によって気合いと根性とおれは道に迷っていないなどという強烈な自己暗示によって目的地に辿り着く。最近トリスタン・グーリーの『ナチュラル・ナビゲーション』を読み直して、これは次の論文で少し触れようと思っているのだけれど、この本には都市におけるナビゲーションについても書いてあるので、「実地だ!」とか叫んでのそのそ歩く。スマートフォンを使わないことに意味はないのだけれど、PHSは何しろ通話時の音質が良かった。そのPHSも2020年にサービスが終了する。ソフトバンク地獄へ堕ちろと呪いつつ、考えてみればPHSだって、彼女と出会って使うようになったものだ。自己というものは苦しみと恐怖においてのみ実となる虚だという自分の思想の基盤も、案外、振り返ってみれば、彼女といるときだけ急に動き始めるぼくの生を考えれば、突飛な思いつきでもまったくないのだろう。

会場のArt & Science gallery lab AXIOMは、初めて行ったのだけれど、大抵のギャラリー(ここがそうなのかどうかが良く分からない。そもそもfacebookのアカウントを持たないぼくは、ここがどういう場所なのかも実は良く分かっていない)がそうであるように、ここもまた入りにくい。入ってみると、真正面にいかにも仕事のできそうなきりりとした女性が席についていて、不審者たるぼくがあわわ、あわわと訊ねると、とても丁寧に応答してくれる。その丁寧さと親切さが逆につらい。それでも、どうやら二階に展示されているらしいことが分かり、モウダメーダモウダメダ、と呻きながらどたどた階段を上がり、しばらくぼーっと、Aktenの作品を眺めていた。

きょうは雨が降っていた。家に帰ってきて、彼女のために麻婆豆腐と、卵とトマトの炒め物を作る。作ろうと思ったけれど、この時期、ぼくの苦手な生き物が時折台所に出現する。先週もそれが現れた。家に帰ると、まずは敵地を制圧するときの特殊部隊員のように、いやそんなん知らないけれど、一部屋一部屋、家具毎に、そしてすべての陰を一瞬でチェックし、クリア! と叫ぶ。その日、流しの、視界の陰になっているところを覗いたら奴がいた。あとはもう、頭のなかでブザーを鳴らし続けながら(思考を停止させるときの、子どものころからのぼくの手段だ)塩で防衛ラインを引き、彼女に救援要請のメールを一分毎に送りつつ、5メートルの位置から膝を抱えて夜まで蹲っていた。

きょは幸いその生き物も居なく、音楽を流しながら鼻歌交じりに料理をする。仕事から帰ってきた彼女と夕食を取り、料理の出来の悪さについて検討会を開く。

洗いものが終われば、あとは論文の時間だ。きょう観たAktenの作品を思い出しながら、ぽちぽちと文字を積み重ねていく。思い出すために彼のサイトに上がっている作品を見かえしたりする。

この日のすべて、この日にいたるすべての、その全体のなかにこそ、メディアアートというものが現れてくる。そんな論文を、いま書いている。

ブック/ライフ/タイム/スパン

ここしばらく、仕事でソフトウェア開発入門編のようなものの講習会をしていた。全4回なのでやる意味があるのかどうかという感じではあったし、そもそもハード屋さん向けの講習だったので、ぼく自身も講習生も、ともに何だかピントがずれているなあと思っていたかもしれない(その会社の戦略上、ハード屋さんにもソフトのことを多少理解しておいてほしい、ということがあったらしい)。それでも、ひさしぶりの本職での講師役は楽しかった。新しい知識も習得し直したので、総体的に悪くはなかったと思う。

そんなこともあったせいで、最近はずいぶんプログラムの腕を磨き直すことに時間をかけている。もうひとつ理由があって、それはいまの自分の研究上、それなりの技術力もないままに技術論はできないだろう、ということもある。スティグレール的に。技術論的なことに踏みこんでいるのに技術には暗いです、と開き直る哲学者は意外に……でもないか、非常に多い。でも、人間の在り方の根本には技術があると考えるのであれば、いやあ私は技術には疎くてねえ、などと呑気なことを言っている場合ではない。

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講習会の後半ではインターフェイスデザインについても少し話したのだけれど、ちょうど(大学の方での)講義で使おうと思って買っていたジョナサン・シャリアートとシンシア・サヴァール・ソシエの『悲劇的なデザイン』(BNN、高崎拓哉訳、2018)があったので、読み直してみた。これが面白かった。問題のあるデザインの実例が幾つも挙げられていたし、語り口が平易で、インターフェイスデザインに興味のある一般のひと、要するにぼくみたいな人間にもお勧め。というと何だか軽いけれど、デザインが人を殺すこともある、ほんとうに重要で、失敗したときにはとんでもない悲劇を生み出すものなんだよ、ということが良く分かる。20年近く前、まだ会社員だったころ、新人研修でインターフェイスデザインについて教えるのに、電気ポットの例を挙げて話をしていた。そこでボタンの配置を阿呆な感じにしてしまったとして、或る誰かがやけどをする、その痛みをほんとうに、ほんとうに真剣に想像してみよう、みたいなことをやっていた。当時は自分自身の知識も経験も浅かったけれど、こういうテキストがあると、とても助かるだろうなあ、と思う。

そういえば『悲劇的なデザイン』にはヤコブ・ニールセンが出てきていて、ニールセンの『ユーザビリティ・エンジニアリング原論』、これはいま段ボールのどこかに眠っているので情報が定かではないけれど、当時の新人研修では、それをかみ砕いて使っていたのを思い出す。自分の人生の客観的な時間軸に沿った経過と、そのときそのときで買って読んできた本がマイルストーンとして結ばれた本読みの人生の主観的旅程とは、少しばかりずれがあって、それが面白い。

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今度出す論文では、近代的合理性のようなものについてずっと批判的(批判的というのは、地獄へ堕ちろ! ということではなくて、対象の本質を分析的に扱うみたいな感じ)に論考しているのだけれど、合理性というのは結局透明性であって、それがガラスの都市というイメージにつながっていく、とか、まあそんなブルーノ・タウト的な言及がちょっと出てくる。それはケヴィン・ロビンスというカルチャラル・スタディーズにおける中心的な研究者の『サイバー・メディア・スタディーズ―映像社会の〈事件〉を読む』(田畑暁生訳、フィルムアート社、2003)の引用。これも凄く良い本です。で、ある日、読む本もなくなってしまって、段ボールを漁っていたら、ずっと昔に買ったパウル・シェーアバルトの『永久機関 附・ガラス建築』(種村季弘訳、作品社、1994)が出てきた。買った本はすべて覚えているけれど、意識しないと思いださない。でも、ああ、これまさにガラスだよなあ、と思って読み直してみると、やはり批判的に面白い。でもって1994年といえば(出版されたときに買っているので)ぼくはまだ田んぼから出てきたばかりで、都会の大学で英語ばかり喋る連中に囲まれてみんなお洒落でハイソサエテーでもう田んぼにカエル! とかぐったりしていた時期だ。当時はこの『ガラス建築』、何が言いたいのか良く分からなかったけれど、いまになってみると、凄くストレートに理解できる。シェーアバルトの夢や虚勢。たぶんこいつ嫌な野郎だったんだろうなあ、とは思う。でも、その作品は、なかなか、全否定できるようなものでもない。

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あとは……そうだ、今回の論文では、木だって木同士でコミュニケーションしているだろ、みたいなことを書いていて、何だかこう書くと自分が何の研究をしているのか、これを読んでくれているひとにはまったく伝わらないのではないかという気がしてくる。別にクスリをやっている訳ではなく、極めて単純に、コミュニケーションとかメディアという言葉を捉え直すことで、この世界や人間といったもの自体の概念をちょっとずらして理解することができるし、それって必要なことだよね、みたいなこと。

それはともかく、木同士のコミュニケーションよね、なんてことを言うための参考文献としてDavid Haskellの”The Songs of Trees”(Penguin books, 2017)を手に入れた。英語が出来なくて大学を中退したぼくは、直感とフィーリングとグーグル翻訳だけを友達に原著を読むのだけれど(でも彼はヘブライ語が読める)、読んでいるうちに、あれ、この作者、何か記憶に残っているなあと思ったら、つい最近彼女にプレゼントした『ミクロの森』(三木直子訳、築地書館、2013)の著者だった。これはAmazonで注文したので、ぼくが家に居るときに受け取り、彼女が帰ってくるまで段ボールを開けずにまっていた。単に、開けるときの楽しみを彼女に取っておこうという心優しい謙虚で愛に満ちた我が気高く美しい心がそうさせたに過ぎなかったのだけれど、これが自分の命を救った。彼女が帰宅して、段ボールを開け、本を取り出したところ、ぼくの苦手なアレに殻の付いたアレ、殻が背中に乗っているだけでカワイイ~なんて頭がどうかしているような評価を受けるアレの写真が裏表紙に載っていたそうな(伝聞)。俺にその本を近づけるな! と、プレゼントだとはとても思えないようなリアクションで彼女にそれを押しつけ、あとはとんずらした。

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客観的にいえば、特に良いこともなく、将来も見えず、この年になって将来が見えないって、もうそれ見えるようになる前に将来が尽きるんじゃないかという気もしつつ、でもまあ、ぼんやりと本に囲まれて、その連続性とネットワークのなかで、何となく楽しく生きている。

小さな丸い穴から空を見た

この一年近く書いていた論文を、ようやくほぼ書き終えた。一緒に研究をしている仲間に的確な批評をもらえたので、GWには集中して最終的な手直しをしようと思う。他にも書かなければならない原稿があるから、GWは集中して書くときにしようと思っている。それがいまから楽しみだ。昔、食事もほとんど取らず、風呂にも入らず、ひたすら何かをやっていた時期を思い出す。あれは確かに夏休みだった。けれども、そのとき「何を」していたのかだけ、記憶からまったく抜け落ちて、どうしても思い出せない。

ともかく、あと1.5週間を乗り切らなければならない。毎日毎日職場に向かうために27の儀式を行い精神を高めなければ家を出ることさえできない。だんだん精神が脆弱になっているし、これが50を超えたら、ぼくも出家の頃合いだろう。人がたくさんいるところは、恐いし、つらい。そういうときは、だから庭いじりをして心の平安を得る。ここしばらく、休日は彼女とふたりで庭に出て、畑仕事をしていた。でも、もうじきぼくの苦手な生物が出てくるだろうから、冬が来るまで土いじりは仕舞いになる。平穏な日々は終わりをつげ、悪夢と強迫観念と精神的外傷の毎日が始まる。毎年毎年、どうやって晩春から晩秋にかけて生き抜いているのか、これもまたまったく記憶にない。ともあれ、いまのところはまだぎりぎり、庭に出てぼんやり土を弄ったりしている。地面からコガネムシの幼虫がいまだに掘り出され、庭の隅に彼女が掘った穴に放り込もうとトタンの覆いを捲ると、暗がりに潜んでいたガマガエルが迷惑そうな顔をしているのにばったり出くわす。

先日は近くでやっていた(といっても歩いて三十分くらいだろうか)何とか市というものに行き、猫の置物を買ってきた。小さな置物たちの傍に置き、しばらくして慣れたら、本格的に連中の仲間に加える予定。

そうだ、それから、水戸芸術館で開催しているポストヒューマン展に行ってきた。いま自分が研究しているテーマにかかわるので、研究だから、研究だから! と言い張って仕事を休んだ。どのみちフリーのプログラマなど社会不適応者が90%を占めるのだ(パーセンテージには個人差があります)。最近、生き残ることを最優先に設定したので、いままで以上に社会性が零れ落ちている。会社に行くだけでもありがたく思え! などとぶつぶつ呟きながら出社している。だけれどもその日は一日自由で、ポストヒューマンとやらをふんふん眺めてきた。

セシル・B・エヴァンス《溢れだした》2016
エキソニモ《キス、または二台のモニタ》2017
ヒト・シュタイエル《他人から身を隠す方法:ひどく説教じみた.MOVファイル》2013
エキソニモ《キス、または二台のモニタ》2017

ポストヒューマンもAIも、まあ、だいたいナンセンスで惨めな妄想か、企業の作りだしたありきたりの商機のひとつに過ぎない。カーツワイルは唾棄すべき阿呆だとは思うけれど、同時に、彼の内面のことを想うと、胸が痛む気もする。生きるっていうのは、実際怖いことばかりだよね。そういった意味では、ぼくも彼も、それほど大した違いはないのかもしれない。言葉に憎悪を込めることなく、GWは言葉に沈潜していようと思う。

けしごむらいふ

ずいぶん長いあいだブログを更新していなかった。といってもたかだか3か月程度のことで、ネットの時間はやはり実時間より速いのかもしれない。いや、実時間も実時間で、3か月前がはるか昔のことに思える。といっても、何か特筆すべきことがあったわけではない。ただ仕事に追われ、気合いと根性で論文を書いて、あとは何だろう、普通に生きるために必要なことを片づけていた。時折、これはブログに書こうと思うようなこともあったのだけれど、いま思い出せるのは、消しゴムを新しくしたことだけだ。

何年も使ってきた消しゴムを買い替えた。古い方は、もうゴムが経年劣化してしまって、まだ十分に残っていたのだけれど、消そうと思っても黒鉛を引き延ばすくらいの役にしか立たなくなっていた。さすがにこれでは仕事の記録を取るのに困ることが増え、それでもさらに一年以上惰性で使い続けたあげく、ようやく買い替えたのだ。古い消しゴムは、もちろん捨てたりはしていない。いまは絶縁体代わりに、基盤の台に使ったりしている。

新しい消しゴムの消し味は素晴らしい。消しゴムって鉛筆で描いた文字を消せるんだ、という当たり前の事実に、いまだに毎回感動している。書こうと思っていたすべてのことを忘れて、このことだけをずっと覚えているというのも、思えば奇妙なことだ。

去年は仮想通貨と株と金に手を出して、すべて、この短期間ではという条件付きでは良いときに売り抜けた。いまはバイオ企業系の株だけを保持していて、それもそろそろ売っても良いかなと思っている。はじめから極度に安全マージンをとってのことだったから、ビギナーズラックなどと呼ぶほどでもなく、得たものなどたかが知れている。それでも、リアルに投資をしてみて、改めて自分の性格というものを見つめ直す機会にはなった。ありふれた言い方ではあるけれど、確かに、貨幣にはある種の真実があるし、ある種の真実を映しだす機能がある。

ぼくは小心者だから、保有している仮想通貨やら株やら金やらが上がったり下がったりするたびにどきどきして疲れてしまうし、同時に、売ったら売ったで、あのときもっと投資していればもっと儲かったのにとぐずぐずくやんだりもする。でも、そういったどうしようもない性格をさらに超えて、ほんとうにどうしようもないのは、何もかもすぐに忘れてしまうというこの性質だ。あっという間に、そういう、後悔やら執着心やらが消えていってしまい、あとにはルーチンワーク化した何かと、退屈くらいしか残らない。未練がないといえば聞こえはいいかもしれないけれど、要するに、飽きっぽいということだ。怖ろしいほどに飽きっぽい。彼女以外の何が手から零れ落ちても、最後には、ああそうかとぼんやり思ってお終いになる。

でも、書くことだけはいつでも残る。ここ一週間のあいだに、いま書いている論文をさらに一気に書き進めた。ここ三年間、ある大学の研究所の研究部会として仲間とやってきた研究の、ひとつの区切りになるものだ。一年に一回研究会誌を発行して、それに掲載する論文。正確には四年でひとつのフェーズが終わるように計画されているので、あと一年かけて、最終的なまとめとなる論文をもう一本書く必要があるけれど、それはあくまで総括的なもの。技術について、神について、そして(非常に広い意味でいえば)民主主義について、考えてみればこの三年間だけではなく、結局中退した最初の大学で唯一プログラミングだけはまともに講義を受けながら考え始めたことの、現時点における到達点になっている。まだ非常に大雑把な草稿の段階だけれど、でも、少なくともこれを書いたことを、後で拙いと思うにしても、恥だと思うことだけはないだろう。

次のフェイズでは――といってもまだ第四号があるからさらに先の話になるけれど――もっと日常的な、庭に出てくるカエルとか、雑草とか、風とか星明りとか、そういったことについての論文を書こうと思っている。幸い、研究仲間の厚意によって、あと三年は研究者を名乗っていられそうだから、まあ、焦らず進んでいこうと思う。期限が切れたら、野良哲学者として書いていけば良い。書くことだけは、幸いなことに、飽きることはなさそうだ。いや分からないけれども。

書くことといえば、最近、iA Writerというワープロソフトを手に入れた。KickstarterでWindows版開発のための投資を募っていて、面白そうだから支援してみた。それがつい先日ダウンロード可能になって、いま、このブログの文章もiA Writerで書いている(最終的にはWordPressにコピペする)。バージョン1.0.0とはいえ、まだまだ不具合がたくさんあるし、正直これは日本語で利用する場合、英語で書くのとは異なり、このソフトのシンプルなデザインの美しさがあまり活かされないように感じる。例えば文章の折り返しが行ごとに凸凹になるのは地味に醜いし、半角の「.」でしか文章の区切りを認識できないから、日本語の場合センテンスフォーカス(いま書いているセンテンス以外は薄い色で表示する機能)もほとんど意味がない。入力途中のフォントと実際のフォントが異なるのも格好悪い(フォントは固定されていて選べない)。数万文字を入力すると、徐々に反応速度が低下して、仕事では使いたくないレベルにまでなる。とはいえ、これはすべてありふれたバグや設計の甘さでしかないから、今後のバージョンアップでいくらでも対応できるだろう。全体的にいえば極めてシンプルで美しい。ひとには勧めないけれど、ぼくはとても気に入っている。

書くことに飽きるということはないだろうけれど、どうせなら、書いていて気持ちが良い方が気持ちが良いし、楽しいほうが楽しい。買い替えた消しゴムで書き損じた文字を消すとそれはそれはきれいに消えて、きょうもぼくは喜んでいる。