ミノムシワークス

このブログでは、ぼくはなるべく時事的な問題については書かないようにしています。あるできごとが生じたとき、それぞれのひとが置かれた状況によりそれをどう捉えるかはまったく異なるし、そもそも「捉える」などと客観的に言えないほどの苦しみや恐怖を感じているのであれば、そこでぼくが何か共有し得るような言葉を書けると思うこと自体が驕りです。それでも、確かにそこには共有し得ること/ものがあるし、同時に、あたかも誰もが共通して経験しているかのように思えるその時事的な事象そのものにではなく、むしろどうということのない個人的で淡々とした経験のなかにこそ、その共有し得ること/ものの本質的な形があるのではないかと考えたりもします。

あるいは単に、ぼくはあまり強い人間ではないので、こういうときに交わされる強い言葉にはあまり接近できないだけかもしれません。その事象が大きければ大きいほどそれについて交わされる言葉は強いものとなるし、それは、少なくともその半分は正しいことでさえあります。要するに、いつまで経ってもこのぼくが社会的な意味での大人になれないだけなのでしょう。

四月の頭にようやく草稿を書き上げ入稿しました。ほぼ三カ月の遅延ですが、どうにかこうにか書き上げることができました。と言っている傍から、ぼくなりの言葉でいまぼくらが直面している民主主義の危機をどう考えているのかを書かねばなと思い、編集者の方にお願いをして少しだけ書き足し、再入稿しました。民主主義の危機などというとすぐに政治的な云々という対立構造を押しつけられてしまいそうですが、そうではないとぼくは思います。それは政治などよりももっと根源的な、あるいは政治というものこそが僕らが思っているよりももっともっと根源的な、きみと私の関係にあるものです。

きみは存在しているかい? おかげでぼくも存在しているよ

それがきっと、あらゆる存在に対する無条件かつ無限の責任の根源にあるものです。けれどもぼくらは無限には耐えられない。そこから様々な苦しみや悲しみ、様ざまな物語が生じていきます。それがぼくらの創世神話で、その根本にあるのは諦念と、恐らく、自分の死と引き換えにすらできないほどの狂気に満ちた愛です。

そんなことをつらつらと書き足しながら、ついでに、引用文献のチェックもし直しました。もともと彼女が彼女のお祖母さんと一緒に暮らしていた家の改築が終わり、いまはようやく必要な本をすべて本棚に並べた部屋で過ごしています。食い扶持を稼ぐための仕事は在宅勤務となってしまったため、収入的には大幅ダウンですが、原稿を書くという点では良かったのかもしれません。生まれて初めて、ぼくの脳内にあったすべての本のマップを、現実の本棚に具現化することができました。これは想像以上に楽しいことでしたし、完全に具現化することなどは無論できないので、その過程では現実との折り合いをつけなければならず、これはなかなか誰にも伝わらないのですが、ほんとうに吐くかと思うような苦痛もありました。

ともかく、その部屋の中心に立ち手を伸ばせば、インターネットなどなくとも、あらゆる必要な情報に手が届きます。今回の原稿は、これでとりあえずは一段落です(もちろん、この後大量の赤が入ったゲラが戻ってくるでしょう。それも楽しみなのです)。それでも、まだまだ書きたいことはいくらでもあります。それが具体的な言葉になるまでは、他の人たちが書き、書き残した大量の言葉たちのなかで、ゆっくりぼく自身の言葉が結晶化していくのを待つより他はありません。結晶化などという綺麗なものではなく、無数に散らばった言葉の断片のなかをもそもそ動き回りつつ、気に入ったものを自分の身体に纏っていく、言葉のミノムシのようなものかもしれません。いえ、ミノムシだって、もちろんとても美しいものです。とてもとても美しいものです。

草稿をチェックする際に、ネット上の記事を参照している箇所についても確認をしました。この数年の間に書いてきた論文がベースになっているので、幾つかはもう古すぎ、ページそのものがなくなってしまっているものもあります。たかだかテクノロジーに関する幾つかの記事が消えてしまったところで、どうということはないのでしょう。それでも、ネット上の情報というものの消えていく早さを、改めて実感しました。そういえば、この在宅勤務の合間にひさしぶりに覗いてみたぼくが好きだった幾つかのブログも、その大半がもう消えてしまっていました。ブログという言葉自体、もう何やらノスタルジックでさえあります。

それは個人のスタイルの問題で、あるいは社会的な戦いの問題で、強い言葉が決して悪いわけでもないし、誰かが価値判断をできるものでもない。それはむしろ、絶対に必要なものでさえある。だけれども、それでも、ぼくは静かな言葉が好きです。怒りも悲しみもすべて含め、できる限り静かで、叫んでいても静かで、血を流していても透明で、そういう言葉たちが好きです。けれども、そういう言葉たちが書かれていたネット上の場所が、あるときふと訪れると、もう無くなっている。もともとそれは、そうなるからこそ美しい言葉だったのだから、どうしようもないことです。そしてそれは、人間もまた同じです。

別に誰かよりも優れているわけでもなく、ありふれた能力のひとつに過ぎませんが、ぼくは、百の言葉を読み、一の言葉を書くことができます。というよりも、それしかできません。どんな状況でも、どんな激情を抱いても、結局のところはそれができるだけです。在宅勤務になり一日中家に籠っていると、家の外で誰かが話していたり、歩いていたり、その度に怖いなあ、怖いなあと感じます。インターフォンが鳴れば、出るには死ぬる思いで気力を奮い立たせる必要があります。それでも、callingばかりはこちらから切るわけにも、出ないわけにもいきません。外の気配に怯えつつ、出社もしないので無精ひげを生やした中年の男が「お外が怖い」などと言っていることのシュールさに思わず笑いつつ、だからこそ見えるものを書けるうちに書いておこうと、既に在る言葉たちの力をミノムシのように拾い集めつつ、こっそりひそひそと生きています。