どなちあ・らんどざっふぁー

まだネットもまともになかったころの音楽。そのある一節で流れる音を、ふいに思いだしたりする。あるいはラジオ(彼女はインターネットでラジオを聴き、ぼくも隣でそれを聴く)で音楽を聴いていると、そんな音を思いださせる新しい音が流れたりする。彼女に、この音・・・、というと、それが伝わったりする。

本棚を整理していたら、大判の写真が出てきた。ずっとずっと昔、ぼくらにしてはめずらしく一瞬で仲良くなったある女の子の撮った写真。もちろん、いまではもう女の子ではないだろう。彼女とその子とぼくと、三人でどこかへ行った。あれはどこだったか、寂れた遊園地だったような気がする。でもそれは、少し色が褪せた写真に引きずられた虚構の記憶かもしれない。だけれども、虚構であったとしても、それは真実であることを妨げない。

先日、とある場所で自分の専門とキリスト教を絡めた、ちょっと胡散臭いといえば胡散臭いようなお話をする機会があった。意外に大きなホールのようなところで、緊張するかな、と思ったけれど、まったく緊張せずに楽しく話すことができた。昔、人形劇をしていたころ、こんなところでいちどは仲間と劇をしたいなと思っていたような舞台。当時の仲間はみな、縁が切れるか憎悪し合うかこの世界から退場したか、ともかくいまは彼女しか残っていないけれど、それはそれだ。

HDDの整理を、時間を見つつ少しずつ進めている。いまとなっては想像もつかないけれど、初めてSONYのデジカメを買った頃には4MBのメモリースティックなんてものがあった。昔は4MBもあればずいぶんいろいろ入れることができたけれど、いまでは1回深呼吸をするくらいの記録程度しかできないかもしれない。ともかくTB単位の外付けHDDを購入し、すべてのデータをそこに詰めていく。詰め終わったデータはまっさらにしてから破壊する。

どのみちぼくらはすべての完全な記憶を頭のなかに持ってしまっているのだから、デジタルなデータそのものにはあまり意味がない。モノとしての記録に執着する気はない。ただ、デジタルだろうが何だろうがぼくらは時間の流れのなかをじたばたもがきながら流されてきて、その此岸と彼岸に遺された波跡の化石のような、そこにはやはり寂しさと愛しさがある。なくてもかまわないが、あっても、それはそれで、眺めているとどこか穏やかな気持ちになる。既にすべてが終わってしまったあとの誰かの視線。

例によって評価が低いということはひしひしと感じつつ、それでも参加している同人誌に、ぼくにしては長い物語を書いた。書きたいことはだいぶ書いてしまった気がしているので、次は思いっきり滅茶苦茶なお話を書こうと思っている。絶対に自分が書かないような単語から始める。イボ痔、とか。イボ痔が虹を渡ろうとする話、とか。人間は変わろうと思っても決して変われない。同時に、変わろうと思えば、けっこう変われる。そういう矛盾と奇跡のなかで、ぼくらは誰もが平然と生きている。変われないからこそぼくらはぼくらの過去を愛しく思うのだし、変われる、変わるからこそ、ぼくらはぼくらの過去を愛しく思う。

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