最初に書くと、今回は楽しくもない話になってしまった。いや普段書いている内容が楽しいと思っているのかと訊かれるとアレなのだが。
必要に迫られ『ヴィジュアル・アナロジー』を読んだのだけれど、翻訳があまりに酷すぎて困った。なら原著にあたれよという話で、それはそれでその通りなのだけれど、それにしてもここまで酷い翻訳にはひさしぶりに出会った。どうやらこの訳者、一部では評価の高いひとらしい。どういうことなのか、ほんとうに困惑する。こういう文章を見ると(読むという言葉さえ使いたくない)、知的スノッブの糞詰り文章という生田耕作の言葉を思い出す。
同じ翻訳ということで言えば、『ニューロマンサー』の黒丸さんによる翻訳がかなり批判されていて、これもまた困惑する。好みじゃないと言われたら、そうなんだと笑って答えるだろうけれど、あの名訳を名訳と感じ取れないひととは、恐らく気が合わない。書いていて思ったけれど、どのみちぼくには友人がほとんどいないので、気が合わないやつが何人増えようがいまさら何の関係もない。黒丸さんはあまりに若くして亡くなったのが残念だ。
再び酷い翻訳の話に戻ると、ルディ・ラッカー(最近ではルーディー・ラッカーと表記するらしい)の『無限と心』も相当なものだった。ただ、あれは単に相当に読み辛いというだけで、『ヴィジュアル・アナロジー』のような不快さはなかった。いま改めて調べてみると、この翻訳者の訳書、『ゲーデル 未刊哲学論稿』と『数秘術』を持っている。いや、『数秘術』は誰かに貸したきり帰ってきていないな。返してもらうのは諦めているので、帰ってきてほしい。
いま、改めてさまざまな翻訳、それには例えばぼくにとって最も優れた翻訳者である堀口大學の文章も含まれるが、それらを想い起してみて分かることがある。良い訳文には、原文に対する理解は当然として、それへの愛や敬意があり、そうしてそれを読む読者に対する責任もある。と書くと何やら当然のことのように思われてしまうかもしれないけれど、それらの文章には、そういったことが文体を通して自然に表れている。
他人の話を聴けないひと、というのが、確かに存在している。それはとても残念なことだ。ただ、これはただ単純に他人の話を聴かない、ということを指しているのではない。自分で喋ってばかりいるのに、なぜか他の人びとの声に耳を傾け、自分の声の上にそれらの人びとの(発せられていない)声を乗せ得るひとが居る。それが如何にして可能なのか、ぼくには見当もつかないけれど。
逆に、ひたすら相手の話を傾聴しているように見え、その実、ただひたすら「傾聴している自分」に向けられた脳内の想像上の住人からの拍手喝采にのみ耳を澄ませているひともいる。こういうひとを前にすると、そのひと自身の声は物理的には聴こえないのだけれど、あまりの五月蠅さに耳を塞ぎたくなる。この場合、彼/彼女には必然的に翻訳の能力も致命的に欠けている。そうか、翻訳というのは、何も異言語間の仲立ちだけのことではなく、もっとシンプルに、他者と他者をつなぐメディアになり得るかどうかでもあるんだ。
太宰の『如是我聞』で、作者と読者の間に割り込み「イヒヒヒヒと笑って」作者と読者の交流を妨げる五千人中一人の選ばれし者とは評者のことだけれど、それはそのまま翻訳者にも言えるだろう。『ヴィジュアル・アナロジー』の訳者は大学改革は当然のツケなどと書いているが、その実何やら誇っているらしい自らの訳書こそが、人文系の「研究」とやらに対する人びとの呆れと諦めを加速させているひとつの典型例だということに気づかないのだろうか。
最初に書いた通り、研究者の端くれとして言えば、別段、翻訳がどうであれ、最終的には原著に当たれば良いので、正直なところどうでもいい。ただ、やはり研究者として言えば、そしてこれまで何度も書いてきたことだけれど人文系研究者として言えば、同じ「人文系研究者」である多くの人びとが持つ言葉に対する酷薄さ、ひたすら自己顕示としての暴力的独白としてしか言葉を使えない人びとの、単語の羅列(文体ですらない)から透けてみえるあの「目つき」の不気味さには、恐怖しか感じない。
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もうすぐ後期の講義が始まる。基本的にぼくは、学生さんたちのレポートに対しては一点でも本人が楽しそうに書いていること、ユニークなこと、ちょっとおかしくて異常なことがあれば、もうそれで万事オッケーだよ、と言ってきた。けれども今期は、せっかくだから、言葉を書くことの喜び、そこにある本質的な意味についても、少し一緒に考えていくような時間を持とうかな、と思っている。