始発の下りに乗り、三日ぶりの家路につく。徹夜続きのせいか動悸がおかしく、うまく眠りに潜りこむこともできないままに地元の駅へ着いてしまう。ホームの自販機で冷たい缶コーヒーを買い、だらしなくネクタイを緩め、だらしなくベンチにもたれる。それがぼくの、数少ない息抜きのひとときだ。どのみちアパートに戻ったところで、埃の積もった床と冷蔵庫のなかの腐りかけの牛乳以外に、ぼくを出迎えてくれるものもない。ひたすら過酷な労働が続くだけの職だから、二年を過ぎたころには同期のほとんどが辞めていた。独り暮らしの家ではもちろん、会社でも私的な会話を交わすような相手はいなかったけれど、それが気楽でもあった。
――まあでも、それもそろそろ限界かもしれないよなあ。最近、独り言が多くなった。甘いだけの缶コーヒーを啜り、ホームの天井を見上げる。――ほんとうに、そう見えるよ。あんまり無理をしたらだめだよ。突然隣から声が聴こえ、慌てて顔を向けると、そこにはいつの間にか若い女の子が座っていた。しばらく驚きのあまり声もでないままその子を見つめていたが、ぼくの顔をにこにこと眺めているその子を見ているうちに、ぼくの心がふと和んだ。どこかで、納得している自分もいた。――こんにちは。いや、おはよう、かな。とりあえず挨拶をしてみる。彼女もにっこりと笑い、――おはよう。と挨拶を返す。そうして、ぼくらはしばらく、まるで旧知の友人同士のように、どうということもない雑談を交わした。
やがて向かいのホームに出勤するサラリーマンが目につき始めるころ、ぼくは立ち上がり、彼女に別れを告げる。――ありがとう。おかげでいい気分転換になったよ。彼女は、私も楽しかったよと答えてから、気遣わしげに尋ねてきた。――ずいぶん疲れているみたいだけれど、きょうはお休みの日なの? ぼくは苦笑いを浮かべる。――いや、家に戻って二、三時間気を失って、目が覚めたらシャワーを浴びて着替えて、そしてすぐにまた会社へとんぼがえりさ。彼女は少し寂しそうな表情をしていう。――そんな生活を続けていたら、身体を壊しちゃうよ。深刻さというものにはもう耐えられなくなっていたぼくは、わざと軽薄に混ぜ返す。――なんと、幽霊に健康の心配をされてしまった。彼女はびっくりしたように目を見開く。――気づいていたの? ぼくは思わず笑ってしまった。――そりゃそうだよ。そもそもきみ半透明だし。彼女は慌てたように胸の前に手を組み、上目遣いにぼくを睨む。――いやいや、そういう意味じゃないし。けれどもそれは彼女の冗談だったようだ。表情を緩め、くすくすと笑いだす。――やれやれ。じゃ、本当にもう帰らなきゃ。――うん。しっかり休んでね。ありがとう、と答え、ぼくは改札に降りる階段へ歩いていく。下りホームにも既に幾人かのサラリーマンがいて、ぼくを胡乱気に眺めていた。よれよれのスーツにぼさぼさの髪。寝不足の充血した目で独り言を呟いているとなれば、ぼくだって薄気味悪く思うだろう。けれども、そんなことなど気にならないくらい、ぼくは気分が良かった。アパートの部屋に辿りつき、敷きっ放しの布団に倒れこむとそのまま意識を失う。夢も見ない真暗な眠りのなか、なぜか懐かしい匂いに包まれていた記憶だけが微かに残った。
それからも相変わらずの日常は続いた。家に帰れるのは週に二回もあれば良い方で、激務に耐えかねたチームのメンバーはどんどん入れ替わっていった。激務であることはぼくにとっても同じだったが、けれどそれは同時に、何も考える必要がないということでもあった。増え続ける預金残高に比例して体調は悪化していったが、それすらも、ぼくにとってはどこか心地よさを伴うものだった。要するに、逃げていたということなのかもしれない。それでも、たまに家に帰れるとき、地元の駅のホームで幽霊の女の子と話す時間だけは、本当の意味で心が安らぐ時間だった。ぼくの身体を心配する彼女の言葉は適当に聞き流し、彼女とどうということのないお喋りをするのがぼくは好きだった。生前の記憶をすべて失っていた彼女は、自分がなぜ幽霊になったのかも分かっていなかった。――でもさ、やっぱり何かこの世に心残りがあるから、きみはここに居るんじゃないの? 何度目かになるその問いに、やはり彼女は首を傾げるだけだった。――そうなのかもしれないけれど、でも特に何も思い当たらないのよね。いまだって、あなたのことが心配だっていう以外には気がかりもないし……。――いやまあ、俺のことはいいよ。すると彼女は怒ったようにいう。――良くない。あなた、自分の顔、最近鏡で見た? まるで骸骨みたい。私よりもよっぽど幽霊みたいだよ。失笑するぼくの足を、彼女はひとつ空けた隣のベンチから足を伸ばして蹴ろうとする。もちろんそれは、ぼくを素通りするだけでしかない。半透明の彼女は、全体的にくすんだ白。けれど不思議なことに、頭のなかで想い起こすとき、全体が灰色で塗り潰されたぼくの生活の中で、彼女と過ごすその時間だけは、微かに明るく色づけられていた。
ある朝、いつものようにぼくはホームで彼女に会う。けれどベンチに背を向けたままホームの端に立つ。――そんなところにいたら危ないよ。そうにいう彼女には答えず、呟く。――こうやってさ、仕事仕事で自分を追い込んでいけばいろいろ思い出さずに済むかなとか思ったりもしたけれど、当たり前だけどさ、なかなかそうはいかないよね。振り返って、不安そうな顔をしている彼女に微笑みかける。――俺も、きみのところへ行けば、もう何も思いださないでいられるのかな。そうしてきみと……。言いかけたとき、ふいに彼女がぼくに駆け寄り、ぼくの顔を、ホーム中に鳴り響くほど本気で平手打ちをした。彼女は泣いていた。――馬鹿じゃないの! 死ぬなんて馬鹿よ。大馬鹿よ! 彼女の泣き声と頬の痛みで、ここしばらくずっと靄がかかっていたいたような頭が、急にすっきりしたような気がした。ぼくは妙に晴れ晴れしく笑ってしまいながら彼女に答える。――死ぬなんて馬鹿だって死んだ人間に言われてもなあ。第一、いまきみに引っ叩かれたとき、俺、ホームから落ちそうになったんだけど。彼女は慌てたようにごめん、と謝り、泣き顔のままぼくと顔を見合わせると、そのまま笑いだしてしまう。ぼくらはそのまま、隣り合ってベンチに座る。そのときはじめて、ぼくらは間を空けずに座っていた。彼女は真面目な顔をするとぼくにいう。――あのね、生きることは義務なんだよ。生きている限り、みんな生きなくちゃいけないんだと私は思う。私はあなたに生きていて欲しいと思う。死んだひとはみんな、きっと、生きているひとに生きていて欲しいと思っているんだよ。ぼくは苦く笑う。――勝手だな。――そう、すごく勝手だよ。でもそれは死んだ人間の権利で、そうして生きている人間の義務なんだと私は思うな。ぼくはそっと、彼女の手に自分の手を重ねる。もちろんその手は、掠ることもない。――さっきさ、きみ、俺に触れたよね。触ったっていうか殴ったよね。彼女は恥ずかしそうに頬を赤らめる。――だからごめんってば。でもほんと、言われてみると不思議ね。どうして触れたのかな。――どうせだったらさ、あのとき、きみにキスでもすれば良かったよ。彼女はふいに優しく微笑み、ぼくのほうが逆に恥ずかしくなってしまう。――バカね。そういってぼくの額を突く彼女の指は、もちろん、ぼくに触れることはなかった。
しばらくして、ぼくは会社を辞めた。無駄に溜まった貯金を使って、もう一度大学へ行くことにしたのだ。もう一度、ぼくはすべてをやり直そうという気持ちになっていた。最後の日、会社の若手たちが無理矢理時間を作り、ぼくの送別会を開いてくれた。意外にぼくは、彼らに好かれていたらしい。三次会までつきあい、別れ際、彼らにくれぐれも無理はするなよと伝える。若い連中は笑って、先輩じゃあるまいし端からそんなつもりはないですよ、と言っていた。そのドライさには苦笑するより他なかったが、おかげでそれほど心配せずに去ることができた。
最終電車に間に合い、地元の駅に着く。どこかで予想していたが、誰もいないホームには彼女が独りベンチに座っていた。ぼくはいつものように缶コーヒーを買い、彼女の隣に座る。――あのね、結局最後まで、私は自分が誰なのか、何のために幽霊になったのか思い出せなかったけれど、でも、何だかもう、やるべきことをやったっていう気がするの。――……うん。――でね、次の電車に乗ろうと思うの。それに乗れば、あの世っていうのかな、とにかく私が本来行くべきだったところに行けるから。どうしてかは分らないけれど、でも分るの。――……うん。彼女は清々しいように、けれどどこか寂しげに笑う。――何だか、とっても楽しかったな。本当にありがとうね。ぼくは一瞬上を向いて瞬きをする。少し滲んでいた風景を、無理矢理もとに戻す。――やっぱりあのとき、キスでもしておけばよかったな。――……ほんと、バカね。そうしてぼくらは、つなげない手を黙ってつないでいた。
やがて、来るはずのない電車が、音もなくホームに入ってくる。彼女は立ち上がり、開いたドアの前まで歩いていくと、くるりと振り返って見たこともないほど素敵な笑みを浮かべた。――じゃ、さよなら。ぼくは座ったまま、笑顔で軽く手を振る。――さよなら。また会おう。彼女の目に涙が溢れる。
彼女が電車に乗り、発車のベルが鳴ったとき、ぼくは思わず声をかけていた。――あのさ、本当は……。けれどもそこで扉が閉まり、彼女とぼくを隔てる。もの問いたげな彼女に、何でもないというように首を振る。互いに笑みを交わす。そうして、電車はどこかへ去っていった。――本当は、俺、きみのことを良く知っていたんだ。誰よりも良く、さ。これは独り言。そうして、最後の独り言にしようとぼくは思う。
それからぼくは大学をやり直し、幾度か引越しを繰り返し、何人ものひとと出会い、そして別れた。電車に乗ってどこかへ向かうとき、ふと、これがこのまま彼女のいるところへ通じていたらな、と想像するときもある。けれども、まだそのときではない。ぼくは彼女と約束をした。生きている限り、生きている人間には生きる義務がある。それはあまりにも身勝手な死者の願いではあったけれど、その身勝手さこそが、きっと死者と生者を結ぶ愛なのだと、窓の外を流れる景色をぼんやり眺めながら、ぼくは考える。目的地に着き、ホームに降り立つ。眼が痛むほど眩しい日差しと熱せられたコンクリートから立ち上る熱気。汗が不快に背中を流れる。世界が割れるような蝉の声。
生きている限り、ぼくらには生きる義務がある。大丈夫だよ、というように、いまはもういない彼女に、ぼくはそっと手を振った。