ツチノコオカルトシンクロニシティ

例えば、ちょっと面白かったこと。地元の本屋に自分の本が並んでいるのを(根が単純なので)わーいと思って見に行ったとき、たまたますぐ近くにあり目にとまって購入した『フューチャーデザインと哲学』(西條辰義他編集、勁草書房、2021)の一つの章を、院生時代に良く知っていた人が執筆していた。懐かしくなって連絡をしようかと思ったけれど、まあ、元気にやっていればそれでいいかと思ってそれきりになった。

また別の日にこれもたまたま購入した『技術と文化のメディア論』(梅田拓也他編集、ナカニシヤ出版、2021)を読んでいたら墓石について書かれた章があった。そんな研究をしている人も珍しいのでその章の執筆者を見たら、またもや院生時代に少し知り合いだった人だった。彼はぼくらがやっている同人誌に寄稿してくれたこともある。品の良い文章を書くなあと思っていた。懐かしくなったけれど、彼にもやはり、特に連絡はしなかった。この本は湘南T-SITEの蔦屋書店にて開催中のフェア「ソーシャルメディアとデジタルテクノロジーを考える」でぼくの本と共に選書されているものの一冊。

その他にもいろいろ。最近は本に関連したシンクロニシティがけっこうあった。無論、狭い世界だから当たり前だと言えば、それはそうなのかもしれない。けれどもやはりそれはシンクロニシティなのだと思う。無数に出版される本のうち、たまたま手に取ったものに誰かの名前があること、院生時代はぜんぜん専門が違っていた誰かが、ぼくの研究分野で共著を出しているということ。とはいえそれ自体は普通のことで、最近はそういった普通のできごとを通して見えるシンクロニシティが多い。そういう時期なのだろう。

だけれども、シンクロニシティはおかしな形を取って現れることの方が多い。ぼくはけっこう、そういったシンクロニシティとかコインシデンタリーなできごととかを重視している。重視しているという表現は「重視する私」を主にしているようなので、なんだろう、そういったものに避けようもなく目が行ってしまうという感じだろうか。そしてそういったものを凄く面白いなあと感じる。しんくろ山の熊のことならおもしろい。多くの場合、ぼくが見たり感じたりするそれらのものをそのまま口にすれば正気を疑われるかもしれない。しかしぼく自身、自分の主観は自分の主観でしかないと割り切っているので、要するにそれは何かの物語を読み、読み解いているようなものでしかない。でしかない、だけれども、とても楽しいことでもある。

それらが指し示している意味はよく分からない。けれどもそういったシンクロニシティが、惰性で飛行しつつ徐々に高度を落としていくぼくらの人生を、その瞬間にすっと掴んで引き上げる。見回す、ということを忘れて飛んでいたことをふいに思い出したりする。

或る日彼女とフェリーに乗っていたとき、彼女がぼくに、きみのお父さんは海でいろいろ不思議なものを見たのかな、と訊ねた。たぶんオカルトとか妖怪とか、何かそういった意味では、父は奇妙なものは見なかったと思う。何しろ理性の塊のような人だったし。信じられないような自然現象については幾度か話してくれたけれども、それは例えば子供のころにぼくがツチノコに襲われたのとはまったく次元が異なるだろう(ツチノコはツチノコで、ある出来事とシンクロしていたのだが、それはまた別のお話になる)。

もちろん、ぼくは本当にツチノコが実在していて、それにぼくが襲われたというのが客観的な事実だと思っているわけではない。それは完璧なまでに主観の世界における出来事でしかない。ツチノコは極端な例かもしれないけれども、それでも、そういった訳の分からない主観的な記憶の堆積は、論理を積み上げなければならない研究にも影のように投射されている。

ぼくは自分がときおり見るおかしなものについて父に話したりはしなかった。というよりも、そもそも父はぼくに対して常に議論をしかけてくるようなところがあった。まだ幼かったころには物語も読んでくれたけれど。だからどのみち、「いやツチノコがさあ! それが示しているところのものがさあ!」などとは、ちょっと言えなかったと思う。BBCラジオの短波放送を聴き、わざわざThe Economistを海を越えて購読しているような人だったので、それをベースにしかけられる議論に対して「ツチノコがさあ!」はさすがに無理がある。

だけれども、この年になって、ぼくもだいぶ自分の主観を変換する術を覚えた。論文も、自分なりのかたちで論理に色をつけることができるようになったのではないかと感じている。無論、まだまだどうしようもなく稚拙なレベルであることは言うまでもないとしても。だから、いまであれば、ストレートにツチノコではなく、ぼくの感じているシンクロニシティだらけの世界についても、父と議論ができるのではないかと思うし、実際、別段、手遅れということはないのだとも思っている。

まあ、向こうは相当呆れて笑うだろうけれど。

オブセッション

例えば、いまどこかで起きている出来事に対して何ができるのかというのは、職業とか年齢とかあらゆる属性を超えて、誰でも考えることだと思います。ぼくの場合は半分研究者ですので、自分の研究テーマを通して何ができるのか、何をできているのかというのは常に頭のなかにあります。これが例えば創薬で、具体的なある病気を治す薬を開発するぜ! とかだとけっこう明快かもしれません(実際には途轍もなく複雑で一進一退で無関係な雑事に足を引っ張られることばかりなのでしょうが)。けれども思想系になると、なかなかはっきりすっきり、これはこの世界の役に立っているぜ! という感じにならないかもしれない。というかなったら危ない。思想改造か、みたいな。でもやっぱり根底には凄まじい強迫観念はあると思うのです。多くの人がそうであるように、何とかしなきゃという強迫観念。もちろん、ぼくが尊敬すると或る研究仲間のように実際の問題のなかに飛び込んで行ってそこで戦うという人も確かに居るし、別段思想系だからといって直接行動につながらないということではありません。でもどうしてもそれができないタイプも恐らく居て、それは格好つけとか斜に構えるとかではなくて、思想の表現のスタイルなのではないかと感じています。例えば彫刻家に、表現したいことを音楽でやってみて、というのは(人によってはそれが新たな表現方法につながるかもしれませんが)一般的には無茶な要求です。でも強迫観念はある。自分はいったい何をやっているのか? 何かをやれているのか? そしてそれには両面あって、自分のなかでは確信があるにしても、その確信は世界に対しては実際何の保証にもならない。そんなとき、外からの反応があるというのは、結構、誰にとっても救いになるのではないでしょうか。承認欲求とかの話ではありません。強迫観念は迫られるものではなく迫るものが主だからこそどうしようもないのであって、前に書いた「ぼくらこそが救援隊だ」というサン・テグジュペリの言葉は、あれはヒロイズムとかではない。徹底して自己なんてものを超越した、繰り返しますが誰もがきっと心に抱え続けている責任のお話だとぼくは思います。

そんなこんなで、話がつながるのかどうか、いえつながっているのですが、自著広告です。湘南T-SITEの蔦屋書店にて開催中(02/12~03/31)のフェア「ソーシャルメディアとデジタルテクノロジーを考える」で、ありがたいことに私の本を採り上げてもらっています。



これ、ぜひ上記のリンク先をご覧ください。選書のセンスが非常に良くて、現代社会を考えるうえでメディアとテクノロジーは不可欠の要素だと思いますが、それらについての新しい面白い本がたくさんあります。ぼくも半分は持っているのですが、うーん、現地に行って手に取って購入したいです。とてもお勧めなので、こういうところに自分の本を混ぜてもらえるのはとてもありがたく、嬉しいことです。

ぼくの本については「「デジタル・ネイチャー」などという言葉に我慢ならない方々にとっては「スカッ」とする内容となっています。」とのこと。私自身の人間性はスカッと爽やかの対極にあるようなオブセッションの塊人間で陰鬱で陰惨なのですが、でも、何か嬉しいですね。書いてよかったなと思えます。

湘南に行かれることがあれば、お立ち寄りいただければ幸いです。

ボイジャー・エンドクレジット

あまり大きな声では言えないことですが、ここ一年ほどめちゃくちゃ映画を観ています。なぜ大きな声で言えないのか。それはそんな時間があるのなら研究をしろという正論オバケに襲われるからです。しかし映画って本当に素晴らしいですよね。そしてメディア論をやっていますなんていうことのいちばんのメリットは、映画を観ているだけでも「研究しているもん!」と言い張れるところにあります。しかもぼくはあらゆる技術をメディア技術とする立場を取るのでこれは強い。もう何をやっても研究だと言い張れる。言い張るだけで実際のところどうなのかはぼく自身にも分かりません。なにも分からないまま人生は過ぎていきます。

ところでぼくは友人が少ない人間ですが、根本的なところで美意識の異なる人を受け入れることに対する許容量が極端に少ないのもその原因の一つにあるでしょう。映画を観るとき、エンドクレジットを最後まで観るかどうかも、その人と美意識が一致するかどうかを判断する基準の大きな要素になります。いやもう、これは本当に、最後まで観ない人とはつき合えない。大学時代、彼女と初めて二人で映画を観に行ったとき――何しろ都会の映画館なんてハイカラすぎて恐ろしく恐ろしくて死ぬる思いで行ったのですが――彼女もぼくと同じ感覚を持っていて、それは本当に嬉しかったのをよく覚えています。

それはともかくエンドクレジット。映画って、やっぱり一つの世界なんですよね。それだけで完成された一つの世界。その奇跡的に美しい物語世界が、あるとき偶然どこからかやってきて、薄暗い映画館のスクリーンに映し出される。ぼくらの世界と、その一点、その一瞬、奇跡として交差する。そして90分、あるいは120分、ぼくらはその完璧な世界を垣間見ることができる。どこか別の宇宙、別の次元からやってきた完璧で美しい物語世界。でも時間がくるとそれはまたどこか別の宇宙へと遠ざかっていく。物語が終わり、ぼくという目をスイングバイして、映画は再び真っ暗な宇宙をまっすぐ遠ざかっていく。その直線運動こそがエンドクレジットなのです。

だからエンドクレジットを観ない人というのは、これは偏見を承知で言います。というかこのブログ偏見しかありませんが、エンドクレジットを観ない人というのは、映画が在るということの奇跡を知らない人です。その完璧な物語世界と出会い別れる、人生において一度きりの奇跡の美しさと恐ろしさ、それを見送るときの喜びと悲しみを知らない人なのです。ぼくはそう思います。

気に入った映画は何度も何度も、何度も何度も何度も観ます。それでもその一回ずつが絶対的な固有性を帯びた、繰り返されることの決してない奇跡です。遠ざかっていくボイジャーを見送るぼくら。けれどもそれが残す軌跡はぼくらの心に永遠に残ります。それが感じ取れない人と、ぼくは映画館には行きたくない。

などと真顔で言うぼくなのできょうも友人がいませんが、でもまあ、映画がある人生、別段、寂しくはありません。

倫理マシン

例えばぼくの世代だと、好き嫌いがあったり我儘を言ったりすると「アフリカの子供たちのことを考えなさい……」的な感じで叱られたりしなかったでしょうか。うーん、どうだろう、いまはこういうのってあまりない気がします。そしてそもそもぼくは両親にこんなことを言われた経験は恐らくなくて、当時の文化というか雰囲気というか、それがぼんやりと形を取ったに過ぎないように思います。

いずれにせよ、ぼくはいまでもこういう言葉が頭のなかに固く残っていて、何か嫌なことや大変なことがあっても、その固いナニモノかが「アフリカの子供たちのことを考えなさい……」と言ってきます。言うまでもなくこれはめちゃくちゃな話で、完全に差別です。何も知らないのに上から目線であの人たちは可哀そうと決めつけている。そして同時に、まさにぼくは何も知らないのであって、だから何の意味もないほど漠然とした言説になっている。繰り返しますがこれは本当にめちゃくちゃな言説です。ただ、それが自分の頭のなかに残ってしまっているということと、それを俯瞰で理解できているということとは併存するということですね。

そしてその漠然性が恐らくポイントでもある。ぼくは自分の頭のなかにあるこの固い何かを倫理マシンと呼んでいます。この倫理マシンは非常に抽象的で、だからこそあらゆる局面に適用可能で、ぼくの行動や思想をつねに監視しています。と書くと何だか常軌を逸しているように思えるかもしれませんが、ぜんぜんそういう話ではありません。誰でも自分のなかにそれぞれ独自の倫理的規範を持っていて、それがいろいろな状況で自分を律してきますよね。要するにそれです。

あ、これ、暗い話ではないですよ。けっこうばかばかしい話です。で、この倫理マシン、他にも幾つか言葉を持っています。そっちはもっと具体的で、あるとき読んだ本の一節が元になっているもの。恐らく上記の「アフリカの……」が倫理マシンの根源で、それが育つなかで、本の言葉を覚え、取り込んでいったということなのだとぼくは理解しています。ともかく、その言葉のなかでも汎用性が高いものが幾つかあり、そのうちの二、三を以下ご紹介します。一つ目は『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』から。

逃げてしまっては、きみは惨めな敗残者になるだけだ。きみはソクラテスのことを思い出す。彼は差し出された毒杯を黙って受け取り飲み干してしまったのだ。

ジェイ・マキナニー『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』高橋源一郎訳、新潮文庫、1991、p.85

怖いこと、嫌なことが待ち受けているとき、それでもその場に行かなければならないというのはしばしばありますよね。そんなときに倫理マシンはこの言葉をぼくに言うのです。「なーに、ソクラテスだって毒の杯を飲んだじゃないか」。確かにそうだなあとぼくは思ってしまいます。これはつらい。ソクラテスを持ち出されたら、もう逃げるわけにはいかないじゃないですか。

二つ目。これはカロッサの『ルーマニア日記』から。この本、素晴らしさに反してあまり知られていない気がするのですが、機会があればぜひお読みください。ぼくが持っているのは新潮文庫版でこれは恐らく絶版ですが、岩波文庫版はいまでも手に入ります。ちょっと長いのですが引用。

朝食の時、少佐が壺からマーマレードをだそうとすると、小さな鼠の死んだのがでてきた。どうして壺の中にはいったのか、誰にもわからない。[…]少佐はちょっときめかねた様子でいたが、それも一瞬間のことで、鼠の死骸を棄てさせ、気味わるさに眼玉の飛びだすような思いをしながらパンにマーマレードを塗り、壺をわれわれの方へまわしてよこした。われわれが身ぶるいするのを見ると、少佐はなおさら沢山塗りつけて、言葉すくなに無愛想にいいだした、鼠は昨夜落ちこんだばかりだ、腐敗の懼れはない、ドイツの町々は飢えにおそわれているのだ、こんなマーマレードをみじめな糠入りのパンに塗って子供たちにやれたらと思っている母親はどれほど沢山いるかわからぬのだ、と。そういいながら、少佐は気味のわるさに顔を歪めて、パンをむりむたいに噛んで呑みこんでしまった。とうとう彼は立ちあがって、立ったままで二枚目のパンにマーマレードを塗りつけ、われわれもまた彼に見ならうかどうかを見定めることなく、その場を外した。そうすると二三の者が声を立てて笑った。少佐を豚という者もいた。しかし誰の顔にも、ぴしりとやられたような気配が認められた。

ハンス・カロッサ『ルーマニア日記』高橋義孝訳、新潮文庫、1994、pp.57-58

ぼくはかなりの潔癖症で、床に落ちたパンとかを拾って食べるのには(その床は毎日拭き掃除をしているので汚くはないのですが)ものすごく抵抗があります。子供のころはとても無理でした。でも倫理マシンがこの一節を取り込んでからは、まあだいたいの汚れについては意思の力で、というほど大げさなものでもないのですが、食べられるようになりました。あと消費期限切れのものとか、表面がカビてしまったジャムとか。倫理マシンがぼくに言います。「こんなマーマレードを……子供たちにやれたらと……」。これもまた強力な命令になります。

挙げればきりがないのですが、あと一つ。サン・テグジュペリの『人間の土地』。言わずと知れた世紀の名著(堀口大學)からの一節です。砂漠に不時着したサン・テグジュペリと同僚のアンドレ・プレヴォー。生還が絶望的ななか彼らが何十キロも走破した晩、プレヴォーはついに泣き出してしまいます。けれどもそれは自分を憐れんで泣くのではありません。――ぼくが泣いているのは、自分のことなんかじゃないよ……。そしてサン・テグジュペリもそのときはっきりと理解します。むしろ助けを求めているのは、もうサン・テグジュペリもプレヴォーも見つからないと思って苦しんでいる、彼らを愛した誰かたちの方なのです。だからこそ、二人は一秒でも早く生還しなければならない。自分のためではなく苦しむ彼ら/彼女らを助けるために。そしてそこで驚異的で偉大な逆転が生じます。

ところが、彼方で人々が発するであろうあの叫び声、あの絶望の大きな炎……、ぼくは考えるだけで、すでにこれには耐えかねる。この多くの難破を前にして、ぼくは腕をこまねいてはいられない! 沈黙の一秒一秒が、ぼくの愛する人々を、すこしずつ虐殺してゆく。はげしい憤怒が、ぼくの中に動きだす、何だというので、沈みかけている人々を助けに、まにあううちに駆けつける邪魔をするさまざまの鎖が、こうまで多くあるのか? なぜぼくらの焚火が、ぼくらの叫びを、世界の果てまで伝えてくれないのか? 我慢しろ……ぼくらが駆けつけてやる! ……ぼくらのほうから駆けつけてやる! ぼくらこそは救援隊だ!

サン・テグジュペリ『人間の土地』堀口大學訳、新潮文庫、1994、pp.143-144

この逆転! 苦しんでいるとき、しかし本当に苦しんでいるのは、苦しんでいるぼくを見る誰かなのかもしれません。あるいは、本来であればぼくが果たすべき責務を果たせないが故に誰かが苦しみ嘆くことになるのであれば、自らの苦難などから無理やりにでも足を引き抜き救援に向かわなければならない。自らの苦難は、だからむしろ、救援するものとしての自己を自らに知らしめるための契機にすぎない……。そんなことを、倫理マシンはぼくの背後で語り続けています。

言うまでもなく、ぼく自身は適当でいい加減で、逃げること以外に関心がない人間です。本を読むのは自分が楽しいからであって、それ以外の理由はありません。物語は常に物語として、それのみで美しい。だけれども同時に、ぼくのなかにある倫理マシンもまた、貪欲にそれらの物語を咀嚼し、そこから彼の糧となるフレーズを取り込み続けていきます。恐ろしいことに、その過程はいまでも続いています。

もちろん、これもまた言うまでもなく、倫理マシンなどといったものは存在しません。頭蓋骨を切り開いてみたところでそんな器官はどこにもない。要するにそれは、誰にでもあるありふれた倫理規範の言い換えにすぎません。それでも、やはりそれは在る。矛盾した言い方ですが、それはぼくに取りついている。だけれども、最初に書いたとおり、これは暗い話ではなくばかばかしい話です。いまだかつて他に見たことがないほど、ぼくは自分をいい加減な人間だと思っています。いい加減オリンピックがあったら金メダルを取れるでしょうが、授賞式をうっかり忘れて欠席するくらいです。そして同時に、薄気味が悪いほど倫理的に自分を律している面もある。誰でもがそうです。そういった分裂を、でもちょっと突き放して眺めてみること。常にぐだぐだ寝そべっている誰かが居て、その誰かをつねにエイエイとどこかへ急き立てようとしている誰かが居る。それって、ちょっと可笑しい光景ですよね。自分自身の生き方とか信条とかイデオロギーとか、まあいろいろありますが、それに囚われつつもどこかから眺めて笑ってもいる。倫理ってそんなものだし、たぶんそれで良いのではないかと、ぼくは思っています。

あるとき本を買って

例えば昨晩の夕食は何だったかとか、まあそれはまだしも、いま頭痛薬を飲んで一瞬後にはもう忘れているということってしばしばありますよね。ないかもしれませんが。ぼくは時折自分の記憶力のなさ(もはや悪さでさえない)に自分でびっくりするのですが、びっくりしたことさえ忘れるので、いつも新鮮にびっくりしています。

でもある種のことはよく覚えていて、例えば20年近く前、当時住んでいた地元の駅に本屋さんがあり、仕事帰りにそこで石川九楊氏の『筆触の構造』を手に取ったのです。小さな本屋さんだったのですが、ちくま学芸文庫もしっかりそろっていたんですね。で、ぱらぱら捲っていたら、こんなことが書いてありました(下記に引用しているということは、つまり立ち読みしただけではなくこの後ちゃんと購入したのです)。

パソコンのキイを叩く、あるいはキイに触れることは、書くことと同じように手を使うが、筆記具=尖筆の尖端が紙に触れることによって生じる〈筆触〉が不在である。このため〈筆触〉に導かれている「書くこと」とは完全に切れている。

石川九楊『筆触の構造 書くことの現象学』ちくま学芸文庫、2003、p.60

ぼくは当時まだ生粋の、汚れなき、純粋な瞳をしたプログラマで、この個所がぱっと目に入って激怒したんですね。いまとなってはその感覚そのものは出てこないのですが、要は、筆記具=尖筆が一本一本(たとえ同じメーカーの同じ型番のものであっても)その筆触が異なるように、キーボードだってまた同様に、タッチの感触も音も異なるし、キーに触れるその一瞬というのは不確定で不安で、未知への投企なんじゃ! みたいな感じでした。

でもそのとき、ぼくはまだ、デジタル化されたものとそうでないものの相似と差異に関する感覚が荒くて、確かにそこでは、石川氏が言うように完全なる切断がある。例えば、彫刻と3Dプリンタで印刷された頭部像の相似と差異ですね。ただ『筆触の構造』は(そもそもそれがテーマではないのだから当然で、批判すべき点ではまったくないのですが)デジタルデバイスにも存在する、あるいは存在する可能性のある無限の差異への言及はない。なかったように思います。いやあるのか? というわけで、夜眠れなくなってしまってつらつらと考え事をしていたら、ふいにあのときの本屋で激怒していた自分、その全体を思い出したので、改めてこの本を読もうと思ったのでした。タイトル、とても良いですね。『筆触の構造』。いまの自分ならもう少しちゃんと読めるのではないかと思います。

すべてを一瞬で忘れていく私ですが、不思議なことにどの本をどこで買ったのか、そのときの、自分自身を含めた全体像というのは、何故か忘れずにいます。プルーストにおいて匂いがそうであったように、ぼくの場合は本を買ったときというのが、記憶の再生のキーになっているのかもしれません。

そんなわけで、いやどんなわけかは分かりませんが、その時どきに買った本を並べていくと、星々を線でつないで星座になるようにぼく自身の人生が見えてきます。そしてそれは、語るたびに自分の人生が変わるように、いかようにも描きなおせるものでもあります。今回、人文系出版社として素晴らしい本を出している月曜社さんにお声をかけていただき、hontoのブックツリーという選書紹介を書く機会をいただきました。「断絶と孤絶の時代に抗して他者について考える」というテーマで(自著を抜かして)4冊紹介しています。もしよろしければご覧ください。あ、4冊だけでは足りなかったのと、あと説明文の文字数がフォーマット上限られていたのとがあり、noteでその周辺も含め書きましたので、併せてお読みいただければ幸いです。

断絶と孤絶の時代に抗して他者について考える(hontoブックツリー)

断絶と孤絶の時代に抗して他者について考える(note)

本の紹介って、本それ自体を書くこととはまた違ったかたちで物語を生み出すことで、それってすごく楽しいことですよね。読んだ本、noteになりますが、また紹介していこうと思います。

手を離すこと

その昔、KiwiのアニメーションがYouTubeにあった。いまでもあるのかもしれない。調べればすぐに分かるが覚えているので調べる必要はない。十数年前だからアニメーションといっても素朴なものだけれど、よくできていた。そのなかで、Kiwiは果て無く切り立った断崖に木を一本ずつ垂直に釘で打ち付けていく。そして気が遠くなるほどの時間を恐らくかけて、やがてKiwiが十分だと思うだけの木を打ち付け終えたとき、Kiwiは崖から飛び降りる。Kiwiは落ちていくけれど、視点を90度回転させると、崖に垂直に打たれた木々の間をまるで飛んでいるように見える。落ちているのではなく。飛べないKiwiの夢。

ぼくはこの動画がけっこう好きで、でも彼女は嫌いだと言っていた。それも分かる。それはKiwiのすべてを、ほんとうにすべてを賭けた夢なのだけれど、でもその対価がKiwiの命だとしたら、ぼくらはそんな、命を賭けなければならないほどの夢に憑かれなければならないのだろうか?

でも、そうではないとぼくは思う。そんな物語では、これはない。それは、何かに憑かれ続けてきたきみが、あるいはぼくが、ついに憑かれていたものとしての自分自身から手を離せたということ、手を離すことの物語なのだ。

+ + +

その昔、マイケル・キートンの『マイ・ライフ』という映画があった。名作かどうか、もはや記憶にないけれど、でも、矛盾した言い方だけれど、いつまでも記憶に残る映画だ。マイケル・キートンは名優だし、心霊術師(だろうか)役はなんとハイン・S・ニョールで、この人もほんとうに素晴らしい演技をする人だ。人だった。『キリング・フィールド』のディス・プラン役といえば伝わるだろうか。それはともかく、この映画のラスト、キートンが幻想のなかで、遊園地のジェットコースターに乗って手を離すシーンが、下らない言い方しかぼくはできないけれど、涙なしには見られない。あれも、末期癌に冒されたキートンが、怒りや悲しみ、どうしようもないことへのどうしようもない感情から、ついに手を離した瞬間なのだ。

ぼくらはいつか、手を離すことができるのだろうか? ぼくら自身から。

ぼくの人生の指針につねになってくれる物語が幾つかある。そのひとつはヨブ記だ。ヨブ記を物語と言ってよいのかどうかは分からないけれど。義人ヨブは、どこまでも神により痛めつけられる。それでも自分の義を信じるヨブは、人間としての限界に達するまでの異様な気高さでもって神に抗議する。けれども神はそれに答えず、ただ私(神)が宇宙を作ったとき、おまえ(ヨブ)はどこにいたのか、と訊ねる……。

これは人間が自分自身からついに手を離し神に帰依するもっとも美しい物語のひとつだ。

+ + +

だけれども、それは美しく、そこに最終的なこの宇宙すべての真理があるとしても、やはりそれだけではない。最初のKiwiに戻って言えば、そのパロディがあって、そこではKiwiが最後にパラシュートを開いて着地する。それはバカみたいだし、子供みたいなハッピーエンドだけれど、でも、そこにもやはり真理がある。

ヨブ記のラストでも、これは本文批評的には元来別の物語とするべきだろうけれども、唐突なハッピーエンドで終わる。それはあまりに唐突すぎて、それまでのヨブ記におけるテーマがすべてひっくりかえってしまうのではないかという気もするけれど、でもそうではない。Kiwiのパラシュートと同じで、やはりそこにも、人間が人間として生きるということの本質があらわれている。ぼくはそう思う。

+ + +

庭のハヤトウリが大量に実をつけた。彼女がそれを収穫して、小さな生き物たちがその占有を宣言していた。ぼくらの日常はそんなふうにして過ぎていく。

ただ何かを探し求めている

アル・パチーノとロバート・デ・ニーロが共演している『ヒート』(マイケル・マン監督、1995年)という映画が好きで、特にラストシーンは何度も繰り返し観てしまいます。銃撃シーンで有名な映画ですが、まあ、あそこはただのアクションです。観ていない方のために内容には詳しく触れませんが、映画の中盤でアル・パチーノとデ・ニーロがレストランでしょうか、語り合うシーンがあって、これも凄く良い。この二人でなければ演じられない、彼らそれぞれの人生の背景の重みが感じられます。で、ラストシーンはこの場面での二人の語りを受けてのものになるのですが、もう一つ、ヴァル・キルマーがアシュレイ・ジャッドのところに行って、でもそこに警察が張り込んでいることに気づいて、どうしようもなく立ち去る、そのシーンとの対比でもあります。ヴァル・キルマーは確かにとんでもない犯罪者なのだけれど、同時にごく普通の人間でもある。愛する人と逃げたいけれど、でもそれができなくて引き裂かれる思いで立ち去る。ヴァル・キルマーのここの演技も素晴らしい。でも、(映画の中の)彼はあくまでただの人間なんです。

もちろん、アル・パチーノもデ・ニーロもそうであって、だからアル・パチーノが娘を病院に運び込むシーンも、最後にデ・ニーロがエイミー・ブレネマンの車に乗るのを断念するシーンも、本当に胸を打つ。だけれども、この二人に関してはやはりそれだけではない。

そう、だから、ヴァル・キルマーが立ち去るシーンが対比されるのは、デ・ニーロがブレネマンとの逃亡を諦めるシーンではない。いやそれもあるのですが、そこが本筋ではない。対比されるのはあくまでラストシーンなんです。ここで、アル・パチーノとデ・ニーロのふたりの、ある種非人間的な本質が現れてくる。ヴァル・キルマーにはない、非人間的な問いに突き動かされた彼らの根本的な悲劇性が、ヴァル・キルマーの人間性によって逆照射される。

特にそれが現れるのがアル・パチーノの眼です。デ・ニーロの手を握り締めて、でもデ・ニーロを見つめるのではない。あそこで、アル・パチーノの眼が何かを探してさまよい始める。というよりも、追い詰めようと、問い詰めようと、けれども同時にどこまでも空虚に何かを探している。そのことが、空虚があるということが、ふたりを結び付けているんですね。それは例えば男の友情とか、そんな阿呆臭いマチスモの話ではなくて、この世界は何なんだという無音の絶叫のような、ほとんど神学的な究極の問いを共有しているということです。

銃を構えてデ・ニーロを探しているときは、その「さまよい」はない。けれどもデ・ニーロが逝ってしまうとき、再びアル・パチーノはこの世界の空虚のただなかで、自らの抱える――それは孤独とか何とかいうことではなく、存在そのものが抱えている空虚さです――その空虚さのただなかで、なぜ、という永遠の問いかけに取り残される。神から切り離された人間の永遠の問いが彼の眼に表れている。

恐らくそれを共有していたであろうデ・ニーロはもういない、いなくなってしまう。夜の空港というのがまた良いんですよ。すべてが飛び立っていってしまう。暗闇の中に。もし魂というものがあるのなら、彼の魂もまた飛び立ってしまった。デ・ニーロにとっての答えは何だったのでしょうか。「ムショには戻らないって言ったろ」。もしかするとデ・ニーロはその瞬間、何かしらの答えを得たのかもしれません。彼にとっての答えは、アル・パチーノに勝つことではなく、むしろアル・パチーノに撃ちこまれた銃弾にあったのかもしれない。けれども、残されたアル・パチーノにはそれは決して分からない。ただ、再び彼は独りに戻るしかない。彼の眼は空虚の中で、人間の意志を超えた異様な強度をもってさまよい、さまよい続け……。

繰り返しますが、アル・パチーノもデ・ニーロも、この映画では極めて人間味のあるキャラクターとして描かれている。だけれども、それだけだとすると、この映画は結局、ただの、何だろう、ダンディズムみたいな、そんな感じになってしまう。そうではないんです。これは永遠の問いに突き動かされた人間の、決して答えは得られないという意味で存在そのものについての悲劇の物語なんです。そしてそれは、もしその人がそうであるのなら、誰にとってもそうである物語でもある。

観たことのない人には訳が分からない感じになってしまいましたが、そんなこんなで、『ヒート』、お勧めです。機会があればぜひご覧になってください。いやあ、映画って、ほんとうに素晴らしいものですね。それではまたお会いしましょう。