我に囚われた我々に赦しはあるのか I

原罪とは何か、ということを考えるとき、当然ですが創世記を読み直す必要が出てきます。けれど旧約聖書が成立する過程というのは極めて複雑ですから、ただロジカルに読むだけであれば、そこには多くの矛盾が生じます。けれども、それを単に無意味な論理的破綻と捉えるべきではない、とぼくは思います。いまぼくらの眼前にある聖書を前にして、そこから何かを読み取るということは、決して無駄ではない。いやこれはクリスチャンの方からすれば極当然のことだとは思うのですが、ぼくのように徹底して無信仰な人間からすると、どうしても本文批評して分析してばらばらに解体してラベルを貼って、ということをしがちになる。もちろんヴェルハウゼンだってフォン・ラートだってグンケルだってノートだって、みんな立派な信仰者だったでしょう。けれどもぼくの場合、そこに神のいない分析になってしまう。それはやはり自分自身に対して批判的にならざるを得ない。聖書というのは、そういうものではない。ただ、ぼくはやはり信仰というものを持つことはできないし、ぼくにとっての信仰とは、人間が手を羽ばたいて空を飛べないように、要するに原理的に不可能なことです。そしてその上で、無神論者である自分を認めた上で、それでもなおかつ(あるいはだからこそ)、信仰とは何かということを考えなければならないとも思うのです。そうして、キリスト教の本質が救済史にあるとするのであれば、ぼくらはまず原罪から、すなわち創世記から始めなければならない。そしてもしできるのであれば、この数回のブログを通して、どうしても信仰を持つことのできない「我の化物」としての自分にとっての救いとはどこにあるのか、それを考えてみたいと思うのです。

これは極めて個人的なお話になります。聖書を本文批評的に読むわけではありませんし、かと言って純粋に信仰を持って読むわけでもない。ですから、信仰のある方にもない方にも、等しく失礼なところがあるかとも思います。けれど、ぼくは決して信仰も理性も(それらが対立するものかどうかはまた議論があるでしょうが)馬鹿にするつもりはありません。どちらに対しても最大限の敬意を払いたいと願っています。その上で、要するにどこかの誰かさんが、神と、どうしても我を捨てられない自己との間でこんなふうに考えている、考えながら生きてきたという、単にひとつの記録であると思っていただければ幸いです。と言ってもそんなに長くはありません。極々シンプルなお話です。

疑問

創世記は、恐らく聖書の中でも最も知られているもののひとつでしょう。神が世界を、そしてアダムとイヴを創り、エデンの園に彼らを置く。けれど彼らは神の禁令を破り善悪の智慧の木の実を食べ、楽園から追放される。ぼくはこの物語(と言っても良いのであれば)を初めて読んだとき、幾つかの疑問を覚えました。何故、善悪の知恵の木の実を食べると死ななければならないのか。何故、善悪の知恵の木の実を食べたことにより人は裸を恥じるようになったのか。何故、人は先に善悪の知恵の木の実を食べたのか。先に生命の木の実を食べたらどうなったか。何故、蛇なのか。そして何故、男ではなく女を誘惑したのか。

生命の木の実を食べると永遠に生きられる(3:22)とすると、善悪の知恵の木の実を食べる前の人間は死すべき存在だということにならないでしょうか。そうでなければ、生命の木の実は楽園に存在する積極的意義を失います。けれどだとすれば、善悪の知恵の木の実を食べれば死ぬことになるという神の警告は意味をなしません。そもそも人は死すべき存在だったのですから。

知恵

そこでまず、善悪の知恵の木の実によって得られる「知恵」とは何かを考えてみましょう。それは自分が裸であることを知るだけのものではないはずですが、しかし人が神のように全知になれた訳でもありません。つまり、蛇の言う「神のように善悪を知るもの」(3:5)を字義通り捉えるだけでは、この箇所は意味が分からなくなってしまうのです。そもそも裸でいることは悪だったでしょうか。けれども、確かに蛇は嘘をついていません。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった」(3:22)と神自身が言っているからです。では、「善悪を知る」とはどういうことなのでしょうか。

「知る」の原語はハ・ダースであり、これはヤーダーの[冠詞+]分詞形です。この動詞には「知る」以外にも、「認識する」「選ぶ」「経験する」「洞察する」「判断する」など、様々な意味があります。しかしこれらの動作に共通するのは、それが主体的な行為である、という点です。したがって、善悪の知恵の木の実を食べよという蛇の誘惑は、「自らの判断によって善悪を決め、それを選び取れ」という誘惑、つまり「我」の獲得を指すものだったのではないでしょうか(あるいは主体や自我と言っても良いですが、やはりぼくは己が己であるということに対するある種の妄執を表すものとしての「我」という表現がしっくりくるのです)。

ここで注意すべきは、人は善悪の知恵の木の実を食べた時点で「我」を得たのではない、ということです。人が蛇の言葉によって木を見たとき、人はすでに自らの判断を神の判断よりも優先し始めています。これこそが「我」であり、従って、仮に人がこのとき木の実を食べることを拒否したとしても、それは自分の判断による拒否でしかなく、すでに神からの乖離は起きてしまっているのです。すると、善悪の知恵の木の実の持つ積極的な意義が失われることになってしまいますが、これは善悪の知恵の木の実と蛇とをあわせて考えることで理解できるかもしれません。これについてはあとでまた触れます。

人が神と共にあったとき、死は生の自然なサイクルの一部に過ぎませんでした。「我」のない人間にとって、死は怖れるべき何ものでもありません。しかし、「我」を得たことにより、人は、自らが失われる時の必ず来ることを知ってしまいました。神の言っていた「必ず死ぬ」という警告の意味することは、まさにこのことなのではないでしょうか。死は、「我」が永遠に失われてしまうことであり、それを認識するものこそが「我」なのです。だからこそ、人は死を恐れざるを得ません。

生命の木が禁令の対象とならなかったのは、人が「我」を持つ存在ではなかったとき、生命の木の実によって不死を獲得するのが、人の中にあった神の「霊」(6:7)だからです。神の霊はそもそも不死であり、従って禁じる必要がありません。けれど人が「我」を得たとき、人を人たらしめるのは神の霊ではなくまさに「我」となり、不死性を獲得するのもこの「我」であることになってしまいます。神が「今は、手を伸ばして生命の木から取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある」(3:22)というのは、まさにこの「我」、神よりも己を上に置く意識が、今度は自ら手を伸ばし、永遠の存在となろうとすることに対する拒否の表明なのです。

蛇とは何でしょうか。古代オリエントの世界において、蛇とは生命、あるいは生殖の象徴でした。しかし、これは旧約の信仰からすれば、あくまで異教的な概念に過ぎません。蛇と永遠の生命という、旧約と同じモチーフとテーマを持っているギルガメシュ叙事詩について少し見てみましょう。

ギルガメシュ叙事詩は、シュメール人に起源を発すると言われています。彼らは楔形文字により、多くの神話や文学作品を残しました。ギルガメシュ叙事詩はその後の歴史の変遷の中で大きな変容を受け、様々な版が残されていますが、完全な形では現存していません。けれども残された幾つかの異本の断片から、オリジナルが推定されています。ギルガメシュ叙事詩では、特に大洪水の物語が、ノアの洪水 (6:9~9:19)との類似によって注目されています。

多くの神話と同様、ギルガメシュ叙事詩においても、永遠の生命の探求が中心的なテーマとなっています。ギルガメシュは不死を求め、洪水を生き延びた伝説の王ウトナピシュティムに会いに行きます。そこで永遠の若さを与えてくれる植物の存在を知ったギルガメシュは、遂にその入手に成功します。しかしちょっとした隙に、彼はそれを蛇に食べられてしまい、不死の獲得に失敗してしまうのです(蛇は脱皮という生態によって、不死の象徴とされていました)。

創世記において、永遠の生命は前面には現れません。これは、ギルガメシュが求めたのが、あくまで自己の肉体的な不死、つまり「我」の永続性であったのに対し、旧約における不死性(あるいは永遠性)は、ただ神との合一の中にしか求め得ないものだからです。したがって、神を離れて「我」を得るということは、旧約においてはまさに本当の死をもたらすものに転じてしまうのです。

こういった、「我」の生を肯定する異教の象徴として、蛇が登場します。蛇の賢さは、このことを示しています。つまり、蛇もまた(他の被造物とは明らかに異なり)「我」を持つ存在なのです。だからこそ、蛇は自らの死を恐れ、そして神の庇護下にあって自然な生を生きる人を憎悪するのです。それが蛇の人を誘惑した動機であり、だからこそ、すべてが神に露見したときも、蛇は神の前で沈黙を守るのです。なぜなら、彼は(あくまで彼の次元においてはですが)既に勝利しているからです。「生」を犯すという目的を達した彼に、もはや弁解する必要はありません。

このとき、蛇と善悪の知恵の木とは不可分な存在です。人は蛇に誘惑されなければ善悪の知恵の木の実を食べなかったでしょうが、しかし蛇だけでは人を誘惑することはできません。これらは表面的には二つの存在ですが、本質的には旧約の信仰に対立する「我」の、異なった表出に過ぎないのです。

蛇の存在をこのように考えると、なぜ蛇が女を誘惑したのかが明確になります。これは、旧来主張されてきたような、女の罪に対する弱さを表すものなのではまったくなく(キリスト教史的にはそのような読み方がされてきたという歴史が確かにあるのですが)、女によって表象される「生」(すなわち性と死の自然なサイクル)と、蛇によって表象される「死」(「我」の発生とその消滅)の戦いの物語なのです(ただ、女性をここでの読みのように捉えるということ自体、実はフェミニズム的にはどうかと感じる面もあるのですが)。人の弱さは、むしろ神に対する弁解として、男女共通のものとして描かれています(3:12以下)。ここでは、子を産む力を持たない男は、初めから蛇の眼中にありません。つまり、「お前は、苦しんで子を産む」(3:15)とは、「死」と戦って敗れた「生」が、その手段としての性の中に「死」を内包させてしまったことを指しています。

善悪の知恵の実を食べることにより、人は互いに裸を恥じ(3:7)、そして神を恐れて身を隠すことになります(3:8)。これは一見知恵とは何の関係もないように思えますが、「生」と「死」の戦い、という観点から考えると理解ができます。

初め、性は「生」に与えられた自然な手段でした。しかし「我」の獲得によって「死」が別の意味を持ってしまったように、性もまたその意味を変えてしまいます。生殖は、「我」が失われることに対する不毛な足掻きでしかなくなり、そして性行為は、死の恐怖を紛らわすための逃避でしかなくなるのです。人はそれを理解しているからこそ、互いに「性」(の象徴としての性器)を神の前に恥じるようになります。

「我」を持ち、神から離反してしまった人は、もはや自然のままの姿では神の前に立つことができません。裸を恥じるようになるとは、すなわち神によって与えられた姿を恥じるということです。だからこそ、人はそのように考えるようになってしまった自己に対し、神の怒りが下るのではないかと恐れます。これ以降、人はもはや複雑に規定された儀式、儀装を通してしか神と関わることが出来なくなってしまいます。

必然としての神からの離反と回帰/イニシエーションとしての原罪

神から離反してしまった以上、人はもはや神の庇護下に生きることはできません。人は糧を得るために苦闘しなければならなくなり、生は苦しみに満ちたものとなります。

けれども、人は、旅立たなければならない。「我」を得た人は、もはや神と合一することはできません。しかし、逆説的に言えば、ここからこそ、初めて信仰が始まるのです。人は、信仰を持つために、まず神から離れなければならない。徹底的に「我」に囚われ、そこから離れられない人間が、その「我」を捨て去ること、その不可能性にすべてを賭けることこそが、信仰なのではないでしょうか。ぼくはここで、ヨブ記を想起せざるを得ないのです(ヨブ記についても本文批評的には複雑な背景がありますが、ここでも同じように、いまぼくらの前にある聖書を読む、という形でこの物語を読もうと思います)。

神に厳格に従っていたヨブは、我が身に激しい苦難が与えられたとき、その理由を理解できず、神の義しさを疑うようになります。応報思想に立つ三人の友人は、ヨブが何らかの罪を犯したからこそ、この悲惨な境遇に陥ったのだとし、ヨブに悔い改めを迫ります。無論、ヨブとて自分が全く何も罪を犯していないと考えるわけではありませんが、しかしこれほどの苦難を受けなければならないような罪は絶対に犯していないとし、友人たちに断固として抵抗します。最後には神に対してさえ自己の潔白を主張し、神に挑むことになります。

ここで主題となっていることは、序における敵対者の言葉、「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか」(ヨブ記1:9)に現れています。人は神の故に神を信ずるのではなく、自己の利益のために神を信ずる、という人間中心主義がそこにはあります。応報思想では、これを乗り越えることができないのは明白です。ヨブもまた、応報思想を前提とはしています。しかしヨブが神に対して自らの義さを叫ぶとき、そこには応報思想を超えた、異様なまでに気高い人間の姿が浮かび上がってきます。けれどこのときヨブは同時に、自らの義を主張すればするほど神から自己を遠ざけることになってしまうのに気づかざるを得ません。

これに対し、遂にヨブの前に現れた神は、世界創造の時いったいお前は何処にいたのか、とヨブに問い返します。これは、端的に言えば、お前は神なのか、という問いに等しいでしょう。いつの間にか自分を世界の中心に置き、神さえ批判の対象としていたヨブは、ここにおいて世界の中心から追われ、口を噤まざるを得ません。しかし神は、「天の下にあるすべてのものはわたしのものだ」(ヨブ記41:3)という言葉によって世界全体を肯定し、ヨブをも被造物として受け入れます。ヨブは自己の不信を悔い、そして神の全能を讃えるのです。

神から離反した人の罪の歴史、すなわち原罪史は、人間としての限界までにその「我」を高め、けれどなおかつその「我」を捨てさり神に回帰したヨブにおいて、完結します。

ここまでたどり着いて、ようやくぼくは断言できます。エデンの園に善悪の知恵の木が存在したのは、神にとっての必然ではなく、人にとっての必然であったのです。創世記からヨブ記を通してぼくらが見てきた物語とは、すなわち人が無自覚な信仰から自覚された離反を通り、やがて真の信仰へ至るためのイニシエーションの物語であり、その意味においてまさに、これは人類の原初史なのです。

さて、けれども、その上でぼくはやはりどうしようもなく「我」に囚われていますし、ヨブの姿に胸を打たれるとしても、ぼくはぼくなりの形で、信仰というものを常に切り捨てて生きていかなければならない。そう感じています。そこで次回は、このどうしようもなく己に固執した「我の化物」である自分にとって赦しとは何か、そして救いはどこにあるのかについて考えてみたいと思います。

それでは、また。

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