曝されることへの不安

最近、軽いことを書いていませんね。cloud_leafさんといえば、そのあまりの軽さ故に三年以上つき合ってくれる友人が絶無であるというほどなのです。でも性格は暗い。これはいちばん困りものです。それはさておき、何だかまじめなエントリーばかり続いてしまったので、きょうはちょっと明るいお話を書こうと思います。

ブログにも書きましたが、先日、相棒とふたりでNYに行ってきました。ぼくは(ぼくを知っているほとんどの人が信じてくれないのですが)昔イギリスに住んでいました。帰国子女。でも帰国子女って変な言葉ですね。どうして子女なのかな。帰国人間。でももっと言えば、ぼくは国という考え方が大嫌いなのです。いまはまだいいですね。「国という考え方が大嫌い」とか言っても、まだ何とか生活していける。いつまでそんな状況が続くのか分りませんし、ここで続くと言われる対象とはまさに国によって担保された「国民」の意識そのものなのですから、どうしたって自己矛盾を孕み続けるのでしょうけれど。

ともかく帰国子女なのです。でも本当に英語ができない。というと社交辞令というか遠慮というかへりくだりというか、そんなふうに捉えられてしまうけれど、本当にできない。どのくらいできないかといえば、NYで友人が住んでいるアパートメントに行ったときのことです。なかなかに立派なアパートメントで、フロントにちゃんと担当の人がいる。いま、このフロントにいる人のことを何と呼ぶのかを考えたのですが、だんだん分らなくなってきました。そもそもホテルとかで入ったすぐのところにあるあれ、フロントって言いましたっけ? 最近どうも言葉がよく分からなくなってきました。でも元気に生きています。

で、そのフロント(?)で、「お前は誰だ、何の用だ」みたいなことを言われる。何を言っているのか分らないが、ともかくそんなオーラを感じる。オーラで話す英会話。こっちも必死にオーラを返すわけです。この時点でもう会話ではない。でも、何かが伝わる。伝わって戻ってきた返事(オーラ返事) が「お前は新居を探しているのか、その隣にいる女性は妻なのか」でした。隣に相棒がいたんですね。凄い! オーラ英会話、何も伝わっていない! まあでも、こいつダメだみたいな目つきの相棒がぼくに代わってその人と話をして、そこに住んでいる友人に会いにきた旨を伝えてくれました。最初から俺にオーラ出させないでよ、と泣きながら思ったのですが、まあその冷たい目つきにゾクゾクできたので良しとしましょう。

そのくらいに英語ができませんので、今回のNY行き、最初は本当に憂鬱でした。ものすごく憂鬱。まじめな話、ストレスのあまりポルトガル人の霊に憑かれてポルトガル語が話せるようになったくらいです。どうせなら英語を!

けれどもこれ、よくよく考えてみると(こういうことをじとじと考えるから、一見軽いのに実は暗くてcloud_leafくん気持ち悪いと言われる所以ですね)、ただ単に言葉が通じないところに行くのがいや、というだけの話でもない。何というのかな、ぼくは、普段このブログをお読みくださっている方はご存知だと思うのですが、言葉というものに対する執着がとても強い人間です。昔、とても弱くて(いまでもそうですが)自分を守ることができなかったころ、そしてかつ死に対する恐怖が異常に強かったころ、ぼくは自分自身を守る術として、言葉しか持ちませんでした。と言っても、それは交渉や脅迫、あるいは阿諛追従によって自分を守るということではありません。物語を作ることを意味していました。物語を作るというのは、幻想の世界に逃げ込む、ということとは異なります。この世界を眺める、もうひとつ別の視点をかたちづくるということ、すなわちもうひとつ別の世界を作るということです。ぼくはまだまともに言葉を扱えないころから、必死にその技術を磨いてきました。生き残るために。おお危ない! 暗い話になりかけてきました。

でまあ、それはいまでも変わりないんですね。いまではぼくは自分自身の死を恐れることはなくなりました(無論、死にたい、ということではまったくありません。むしろその逆です)。でも、物語を通して世界をかたちづくるということはずっと変わらない。このブログもそうです。昔相棒が書いていましたが、cloud_leafさんって本当にいるんでしょうか。相棒って本当にいるんでしょうか。いるかもしれないし、いないかもしれません。「真実」なんてどうでもいいんです。そんなもの、どのみちないのですから。同時に、物語を物語ることによりその場で、一回限りの真実は生まれるし、そしてそれだけでいいのです。

もちろん、その物語とは、ぼくがどのようにこの世界を語るか、そういった自己中心的なもの(だけ)ではあり得ない。言葉というものが「語る」ことによってしか成立し得ない以上、そこには必ず語られるきみとの共同作業があるし、その共同作業こそ/のみが言葉だとも言える。同時にしかし、それはぼくときみの間で同一の言葉が語られるということではない。必ず、そこには差異や断絶が生じる。だからこそ「伝える」ということが可能になるのだし、そこに意味が生まれる。同一であれば、そもそも伝えることなんて不可能です。伝える前から伝わってしまっているのだから。

そういった意味で、海外に行くということは、ぼくにとって物語を物語ることにより自分の世界をきみに伝えるということが不可能になるということでもあるのです。すなわちそれは、ぼくがぼくとして在ることを極限まで危険に曝すということです。ぼくは物語る世界なしに、生の自分を相手に曝け出さなければならない。それは自分の魂を賭け金にした冒険です。それは途轍もなく恐ろしいことです。ポルトガル人に憑かれるレベルです。ボア ノイチ! エストウ マーウ チャウ、チャウ!

でもね、それで良いんです。だってオーラで語る英会話があるから。いや違う違う! ぼくらは、先に書いたとおり、同じ言葉を共有していると思っている相手とでさえ、実は同じ言葉など決して共有していないからです。「言葉の通じない」海外へ行くことはその極端なかたちではあるけれど、ぼくらは日常的に、それをやっている。そしてそれは、自分自身との会話においてさえそうなのです。そうじゃないでしょうか? だからこそ、ぼくらは自分自身にさえ問いかける意味を持ち得る。ぼくはそう思います。

友人のアトリエで、一人の少女と出会いました。友人も相棒も素知らぬ顔でぼくを放置です。でも泣かない。オーラです。彼女はぼくに、「facebookはやっているか?」と訊いてきます。なかなか友だち作りに積極的じゃない、さすがアメリカンじゃない。ポルトガル人であるぼくはそう思います。「OK、きみにぼくのfacebookアカウントを教えよう」ぼくはクールに答えます。すると友人と相棒が、冷静な(というより無表情な)顔でぼくに言いました。「彼女はきみに、『タバコを吸っても良いか』と訊いているんだよ」。

OK、表へ出ろ。ぼくは自分にそう呟きました。無論オーラで。

その後、何がどうなったのか、ピザの入った平箱を片手で肩の上に掲げ、人っ子一人いない街中を相棒とふたりで歩いたのも良い思い出です。何をしに行ったのかよく分かりませんが、いろいろ学ぶことがありました、アメリカ。もうしばらくは行きたくありません。

いまはもういないきみに、存在しない神の祝福を

ほんの数日前、仕事から疲れ切って帰宅して布団に潜りこんでいるとき、ふいに、とてもひさしぶりに心が穏やかであることに気づいた。客観的にいえば、落ち着いているような状況ではない。いろいろな物事はむしろ悪化しているといってもよいくらい。にもかかわらず、やはりぼくの心はとても穏やかだった。

ブログには書いていなかったけれど、博士号を取得した。Ph.D.(agriculture)。 Ph.D.の扱いに関してはいろいろな指摘もあるけれど、教授陣のひとりが「Doctor of AgricutureではなくPh.D.であることに誇りを持て」と言っていたことが印象に残っている。どちらが上という話ではない。農学研究科にある思想系の研究室を出たのだという自覚を持て、という叱咤だろう。博論は、政治的な配慮で書いた部分もあるけれど、それも含めて、自分の戦いの痕跡だ。既にいま読み返しても拙いところばかりだが、恥じることだけはないだろう。

幾つかの幸運がかさなり、今年度から都内のとある女子大で非常勤講師をすることになった。無論、キャリアとしては非常勤講師に先はない。けれど、もとより先があると思ってこの道に進んだわけでもない。途轍もない時間とお金を、回収しようと思って研究などできるはずがない。それは何かの甘ったれた美学などということではなく、たんに、やらざるを得なかったから、やるより他にどうしようもなかったから、というだけに過ぎない。そしてそういった衝動のない研究など、そもそも在り得るはずがない。

この一年は在籍していた研究室に顔を出しつつ、相変わらず仕事と研究を並行させていくことになる。素朴に考えて、これは良いことではない。標準的な人間が自分の能力を仕事と研究に割り振れば0.5ずつにしかならない。自己満足でやっているつもりはないから、少なくとも残りの0.5をどこからか引っ張りださなければならず、要するにそれは、自分の身を削るということ。しかし考えてみれば、それは誰もがやっていることだ。結局のところ、自分の体力がある限り、進むしかない。

修士の最終口頭試問の当日に父が亡くなり、留年してもかまわなかったけれど、葬儀社の手配までしたところで大学に走り、ぎりぎりで試験を受けて号を取得した。博士の受験も、たまたま友引を挟んだため通夜の日に当たり、試験を受けに行くことができた。友引でなければ、告別式当日と受験が重なり、博士に進むこともしばらくは諦めていたと思う。

別に、号の取得などどうでも良い。急がなければならない理由もない。研究とは、そんな枠組に縛られるものではない。現実的にはそうでない部分が大きいとしても、現実を語る人間がこの年で大学を一からやり直すはずもない。ただ、できれば父に、自分の研究の一端でも伝える時間が残されていたらとは思う。それはいまでもそう思っている。

ぼくは、他人の死を消費するような下種を嫌悪する。あらゆる存在は、きみの娯楽のために存在しているのではない。きみの自己満足、自己愛の喉元を擽るために在るのではない。だからそういったつもりで書くのではないということを本当に信じてもらいたいのだけれど、この数年のあいだに触れてきた幾人かの死を通して、おかしくなりそうな怒りと苦痛で、実際しばらくはおかしかったと思うのだけれど(博士の二年目半ばまでくらい、実際、ぼくは連続して安定した記憶がない)、それでも、つねに自分の魂が求める何ものかがぼくを引きずって前に進ませてくれた。頼んでもいないのに。けれどそういうもので、そういうものがないのであれば、ぼくはそれは研究ではないと思う。

笑ってしまうくらい、将来なんてものは見えない。けれど、この「ぼく」という人格を超えたところで、それはぼくの魂が選んだものだ。だから、引き受けるしかない。

ぼくが考えるのは、既にいなくなってしまった人びとのこと。苦痛と恐怖のなかでのた打ち回り、救いのないまま死んでいった無数の人びとの声に、決して聴こえないとわかったうえでなお耳を澄ませること。存在しない神の前にいつか立つとき、存在しない神に唾を吐きかけ死ねと言うこと。

いつでもそうだったけれど、いまも、ぼくはとても楽しい。

The sky in NY


SONY α700(DSLR-A700) + シグマ 30mm F1.4 EX DC, F1.4, 1/15秒, ISO200, WB:オート, CS:AdobeRGB

7年ぶりのアメリカ。以前に訪れたミネソタとは異なり、街全体が良くも悪くも尖っていた。いろいろなものを見たけれど、すべてが抽象的に渦を巻くひとつの印象に塗りこめられ、いまはそのひとつひとつを取りだすことはできない。それでも、幾つか記憶に残っているものを書いてみよう。肥満で膝を痛め杖をつく人びと。地下鉄のホームでギターを弾きつつ歌っていた少女。若いアーティストが集う街区のカフェテリアでは、男の店員が壜のキャップを手で空け、得意そうに笑っていた。おとなしすぎる犬たち。事故を起こしかけた歩行者と車の運転者が喧嘩をし、大通りの向こうからも人が野次を飛ばし見物する。巨大な鉄の塊でバリケードが組まれたウォールストリート近くの街路。タクシーの運転手はつねに、ヘッドセット越しに歌うように何かを連絡していた。Bellevue Hospital Center。アパートメント屋上のペントハウスから眺めたNYの夜景。ニイハオ、と挨拶をしてきたブロードウェイの呼び込み。
JFKに向かう地下鉄を乗換駅で降りたとき、若い黒人の車掌が身を乗りだし、ぼくにずっと手を振ってくれていた。ぼくも、手を振りかえした。

きみの弱さが罪だったのなら/ぼくの強さは醜さだろう

とあるピアノコンサートに行ってきた。といっても目的は音楽を聴くことではなく、そこである人に会うことだった。コンサートそのものは盛況で、早めに行ったぼくは隅の方に座ったけれど、ほどなく周囲もすべて人で埋まった。ブザーが鳴り、座席側の照明が落とされる。ざわめきが静まる。演奏が始まる。

するとすぐに、ぼくの心はここではないどこかへ漂い始めてしまう。無論、周囲への警戒はつねに怠らないけれど、それはほとんどサブルーチン化されている。おかしな素振をしている人間はいないか、天井に吊られた照明器具は手入れがされていそうかどうか、最短の避難ルートをどうとるか。そういったものごとを半分無意識に判断しつつ、けれど頭の中では、すでに勝手な会話が始まっている。いわゆる独り言とは少し違う。独り言はぼくも言うが、あれはまさに、独りで喋っているだけでしかない。

会話の相手は、ぼくが知らない/知っている/知っていたあらゆる人びとだ。もうこの世界には居ないひともいるし、いつも会っているひともいる。著書を通してしか知らないひとであり、あるいはぼく自身でもある。会話の内容は、研究に関すること。要するに、ぼくが世界をどう見ているかということ。ぼくにとっての研究とはつねに、ぼくが世界をどう見るか、その物語を語り続けるということでもある。

そしてこういうとき、ぼくはいつも、実際に自分がその会話を口に出してしまっているのではないかと不安になる。というと少々語弊があるかもしれない。ぼくは他人にどう思われようと知ったことではないと言い放つ程度には傲岸不遜な人間だ。仮にぼくが異言を語り、おかしな奴だと思われたところで、それがいったい何だというのだろう。所詮、彼ら/彼女らはぼくの人生に何の関わりもない。

けれど、ほんの十数年昔のぼくは、そうではなかった。すぐに自分の想念に囚われ、そこでの妄言を現実の世界に垂れ流しているのではないかということを恐れ、怯えていた。誰もが多かれ少なかれそういった面を持っているのかもしれない。けれど、その恐れを本当に共有できた相手は、極わずかしかいない。

***

そのとき、ぼくらは部室にいた。どうしてそんな話になったのかは覚えていないが、ぼくはその子に、ぼくの恐怖心について話した。彼女は目を大きく見開いて頷くと、――そうそう、私もそうなの、すごく怖いよね、と言ってくれた。うまく伝えられないけれど、彼女の仕草にぼくは、確かにその恐れが共有されていることを感じたのだ。そのころのぼくはひどくええかっこしいで、しかもその格好悪さに気づいていないほどに救いがたく格好悪い人間だった。それでも、彼女の、その開け広げな態度に、普段のぼくなら決して言わないような、そのときのぼくだったら格好悪いと思うようなことを素直に言ってしまっていた。――ずっと黙っているとさ、唇が乾いてくっついちゃうよね。つまらない講義を聴き流しながらぼーっと考え事をしていて、ふと我に返って、ああ俺いま考えていたことぜんぶ喋っていたんじゃないかとか思ったときに、乾いた唇がしっかりくっついているのに気づくとさ、すごくほっとするんだ。あ、喋っていなかったんだ、って。そうすると、彼女はまた強く頷き、――そうそう、私もそうなの、と言った。そしてそのすぐ後、ぼくらはほとんど同時にお互いが上唇と下唇を堅く合わせ、おかしな表情をしているのに気づき、思わず笑ってしまった。

たぶん、これを読んでくれたひとは、そんなことは誰だって感じているのだと思うかもしれない。きっとそうなのだとぼくも思う。大した話ではない。けれども、これもまたたぶん、大したことではないと言えることこそが、きっと大したことなのだ。ぼくは根が粗暴で、難しいことは良く分からないし、あまり物事を深く考えることもない。楽しいことも寂しいことも、みなすぐに忘れてしまう。他人にどう思われようと知ったことではない。そうやって、ぼくらは生き延びてきたし、生き延びていく。けれど、あり得たひとつの未来として、頭の中で延々繰り広げられるその会話を止めることができず、それが漏れることへの恐怖心から逃れられないぼく、というのもきっと存在していたのだ。ぼくはたまたま、自分の愚劣さゆえに、そちらへは行かずに済んだだけでしかない。そちらに行った彼女は、いま、ぼくの頭の中の会話相手として、しばしば現れる。現実と呼ばれるこの世界で、その子と話すことは、もう決してできない。

***

コンサートの会場で、ふと我に返る。あらゆる音、あらゆる光、あらゆる感触。そういったこの世界の無数の欠片が、あっという間にぼくをノイズのような想念に引きずり込んでいく。ぼくはその渦の中で、かつて知っていた/いまだ見知らぬ大勢の人びとと会話をしていた。

ぼくはそれを、声に出してしまっていただろうか? すっかりふてぶてしくなってしまったぼくは、まあ、もしそうなら、会場の係員がぼくをつまみだすか何かをするだろうなどとぼんやり考える。それでもふいに、ぼくは自分の唇の感触を確かめてみる。考えてみれば、今朝からひとことも発していないぼくの口は、堅く乾き、開こうとすればばりばりと音がしそうですらある。――ま、こんなもんだよね。そうぼくは思う。――そんなものよ、と、頭の中のどこかで、笑みを含んだ彼女の声が答える。

雑記

隣に座っていた女子高生たちが、合格発表をどうするか真剣に話していた。電車から降り地下からの階段を上りきると、ビルの合間から見える空が恐ろしいほどに美しかった。そういえばあれはいつのことだったか、昨日かもしれない。まだ日差しが明るいとき、道を歩いていて空を見上げたら、白と青のコントラストが信じられないほど精緻に空に描かれていた。本当に見た光景なのか、その瞬間ですら信じられないほどだった。ぼくらは、もしかしたら眼が可能にしてくれている以上の高解像度で、頭の中に映像を思い浮かべることができるのかもしれない。

けれども、どんなに美しいものでも、ぼくはほんの一瞬しか目を向けない。それは隙だ。ぼくらはつねに、どんな事故に巻きこまれないとも限らない。注意をしていても防げないことはあるけれど、防げることまで防ごうとしないのであれば、それは愚かだ。少なくともぼくは、そう思う。すぐに通りに目を戻し、無表情を装って道を歩く。

用があって、待ち合わせの喫茶店につくまでにある和菓子の店へ寄った。そこで可愛らしく作られた和三盆を買う。包んでもらうあいだ、入れてもらったお茶を飲む。無害で無意味な笑顔を浮かべ続ける。店を出ると、もう、先ほどの奇跡のように美しかった空は消えていた。

喫茶店につき、並んでいると、後ろに立った初老の会社員がぼくを妙にしつこく眺めている。いや、別段妙ではない。むしろ妙なのはぼくの方。何しろジーンズのポケットには穴が開いているし、着ているセーターときたらやはり擦り切れて穴だらけ。靴は履き古した登山靴。年齢も職業も不詳、身なりもぼろぼろというのでは、きっと彼の価値観では、相当に胡乱な人間だということになるのだろう。分らないでもないし、責めるつもりもない。だから薄ら笑いを浮べ、やり過ごす。

ぼくは冬が好きだ。朝、まだ暗いうちに目が覚め、布団から這いだし、着なれたぼろぼろのセーターに身体をもぐりこませる。とても幸福な一瞬。冷たい水で顔を洗い、雨戸を開け、新聞を取りに行き、牛乳を飲みながら見出しと天気予報だけを確認する。鞄に読みかけの論文や参考文献を突っ込み、会社か、あるいは大学へ行く。疲れていると、どちらへ行ったらいいのか、しばしば分らなくなる。けれども、それもまた幸福だ。自分には居場所がないということ。

居場所がないということは、けれど、許されないことでもある。大学に行き直すなんて凄いね、という人びとの目の奥にある侮蔑と嫌悪、困惑と憎悪。ぼくもそれは良く分かる。きょう、注文していた書籍が届いた。幾つかの文献における幾つかの用語の、原語での使われ方を確認するための、ただそれだけのもの。ただそれだけで、ほんの数冊の本だけで、カメラを一台買えるくらいの値段が軽くなくなる。ぼろぼろだけれど、暖かいこのセーターが、ぼくは好きだ。靴を見ればその人間の、などという人間をぼくはひっそりと嫌悪するし、彼らもぼくを嫌悪するだろう。いや、単に無視するだけかもしれない。

空いている喫茶店の片隅に座り、ノートを起動し、ぽちぽちと文字を打ち込んでいく。腐ったような音楽と人びとの声が混じり、ただうわーんというノイズとしてぼくの耳に届く。腐っていると思うものは腐っているというのが信条だけれど、まあ、それはぼく自身が腐っているということを如実に表しているに過ぎないのだろう。それでも、論文を書いていると、ある瞬間、思いもしなかったところで思いもしなかった論理がつながるときがある。無論、そうそうあることではないけれど、それはやはり、研究をする最大の喜びのひとつだろう。

気がつけば、彼女が向かいの席に座っている。篭ったノイズが、再びさまざまな音として認識されるようになる。ぼくはノートを閉じ、彼女とともに席を立つ。外に出て手をつなぐ。見上げれば空はもう暗く、雲は見えない。――セーターが穴だらけだね、と彼女は朗らかに笑い、穴に指を通す。そうだね、と答え、ぼくも笑う。

たぶん、ぼくはとても幸福なのだと思う。

ぼくらはあのバス停にいた

秩父で合宿をしてきました。

その年度に博論あるいは修論を提出する予定の院生が、自分の論文の進行状況を発表するというのが、合宿の主な目的となります。ぼくは一応今年度の博士号取得を目指していますので、発表をしなければなりません。ここ最近は論文の執筆に集中しており、このブログの更新もだいぶ滞っていたのですが、おかげさまで無事に発表を終えることができました。まだまだ完成までには稿を重ねていかなければなりませんが、今回の発表で、完成がだいぶ見えてきたのは確かだと思います。

秩父は、昔ぼくが最初の大学にいたころ、人形劇の合宿で何度も訪れたところです。ぼくらは西武秩父に集合し、少し離れたところにあるバス停からバスに乗り、ゴトゴト山道を揺られながら登っていきました。そしてとあるお寺の本堂に泊まり、みんなで自炊しながら、川で遊び、そして近所の子どもたち相手に人形劇を上演しました。もちろん舞台などありませんから、持参したプラパイプを組み立ててシーツで覆い、襖を外して枠にして、そんな簡易舞台で劇をするのです。

今回の合宿地はそこから少し離れたところなのですが、けれど西武秩父で集合というのは変わりありません。待ち合わせは11:20。けれども荷物が多かったこともあり(といっても原稿とカメラでふくれただけですが)、ぼくはかなり早めに行くことにしました。ラッシュで大荷物というのも、避けられるのであれば避けたほうが良いですからね。けれどもそれだけではなく、少し、昔ぼくらがうろうろしていたところを歩いてみたいということもありました。

考えてみれば、秩父に一人でくるというのは初めてです。いつもは少なくとも相棒と一緒か、他の部員たちと来ることが大半でした。西武秩父に到着し、まずはあのバス停へ。最後に来たのはもう十年くらい昔でしょうか。みんな卒業したあと(ぼくは退学でしたが)、一度か二度、当時の部員たちが集まって、あのお寺に泊まったことがあるのです。もうほとんど忘れてしまったけれど、それからもう十年は経っているのではないでしょうか。けれども、さすがにバス停の場所を忘れているということはありません。駅から歩いて五分程度のところですし、何度も歩いた道です。バス停はそのままありました。標識はきれいになっていますが、確かにこの場所です。すぐ近くの民家のガレージには、相変わらずツバメが巣を作っています。時期的にいまツバメがいるのかどうかは分りませんが、今年もそこに巣を作っていました。しばらくそれを眺めて、また歩き出しました。

ちょっと口調を変えましょう。

クラウドリーフさんは、驚くほど頑健なひとです。とにかく良く歩きますし、骨が頑丈です。重い荷物もへっちゃらです。ずんずんずんずん、どこまでも炎天下を歩いて行きます。もちろん、慎重な彼のことですから、水分補給も忘れません。汗だくですが、カメラを片手に、久しぶりの自由な時間をとことん歩いてやろうと思っているようです。といっても集合時間までのわずか二時間ほどですが、それでも、近くにある札所を二つ三つ巡ることくらいはできるでしょう。クラウドリーフさんはとにかくオプティミストです。というよりもまあ、少々残念なくらいに楽天的なのです。過去のことには囚われませんし、そもそも良く思い出せません。悲しいことも「悲しいね」と言って少し笑ってそれきりです。バス停を後にして、ずんずんずんずん、どこまでも歩いて行きます。

とりあえずの目的地は札所の十一番と十二番。駅からほんのすぐ近く。あちこちに看板があるので、道に迷う心配もありません。しばらく歩くと、早速札所十一番につきました。お寺の名前は忘れました。クラウドリーフさん、本当に記憶力が悪いのです。けれど、とても穏やかなお地蔵さんに出会いました。彼はこういうことだけはいつまでも覚えています。とても良いお地蔵さんでした。

それから、いま来た道を戻り、さらに行き過ぎ、今度は札所の十二番です。このお寺はとても面白かった。山門の両側に、幾つもの奇天烈な木像があります。写真も撮りましたが、それは割愛。いつか皆さんが秩父に行かれることがありましたら、西武秩父から歩いて十五分程度のところ(二十分くらいかな)ですので、興味があるかたはぜひ参拝なさってください。

さて、ここまで来て、だいぶ時間も経ってしまいました。実は昨日の夜からほとんど何も食べていないので、駅方面に戻り、ミスタードーナッツに寄ることにしました。そしてドーナッツを食べながら、しばらく発表原稿の確認。集合時刻の前まで、そこで論文のことを考えていました。

合宿では、基本的には一日中ゼミをしていることになります。それでも、朝は食事まで自由ですし、夕食後は宴会やら温泉やらとなります。ぼくは肉体的にも精神的にも疲労がピークに達していたので、結局温泉には入りませんでした(シャワーは何度も浴びましたよ)。飲み会も、そういうのはまあ、凄く好き、ということもないので、ある程度までにこにこ参加して、寝てしまいます。その分朝は早起きし、カメラを持って散歩に行きます。

早朝の秩父。少し歩くと河原へ降りることができます。ここではありませんが、昔、ぼくらも似たような河原で泳いでいました。

道端にあったお堂の番をするお狐様。おっかない表情を浮かべようとしていますが、仲良く並んでかわいらしいですね。お堂の中には、なぜか二人の達磨さん。

朝靄の中を飛ぶ鳥。何の鳥でしょう。何だってかまやしません。どうせクラウドリーフさんは覚えられないのです。

葉っぱ。ただそれだけですが、ぼくの眼は、けっきょくこういうものに向けられるようです。

そんな感じで、今回もいろいろなものを撮りました。といっても、草や昆虫や石や何かの糞や、要するにいつも撮っているようなものばかり。だけれど、そういったものに独りで静かに向かい合う時間というのは、かけがえのないものです。怒りと憂鬱しかない気持ちが、そういったときだけはとても静かに凪ぐのを感じます。いえ、もちろん、クラウドリーフさんは楽天的なひとです。他のひとの評価がどうであれ、論文を書くのは楽しいですし、発表も楽しい。空気は澄んでいますし、夜中、真暗な橋の上で蹲り、星空を撮るのも楽しい。ここはPHSの圏外なので、部屋の前にある公衆電話で彼女に電話をし、硬貨がカシャン、カシャンと音を立てて落ちるのを聴きながら、いつもより少し遠い彼女の声に耳を澄ませます。

***

三日間は、あっという間です。宿から西武秩父までは宿のバスを出してもらえるので、それに乗って、ぼくと数人は帰途に着きます。他の院生たちは、自分たちの車に分乗して、引き続きどこかへ観光に行くようです。けれども、ぼくは大学へ戻り、彼女と夕食を食べる約束をしているのです。貧乏学生だった昔とは違い、特急にだって平気で乗って、何の思い入れも感傷もなく、日常生活へ戻るのです。

昔、ぼくらが人形劇をやっていたころ、ぼくらは何度も秩父へ来ました。そのとき一緒だったひとたちは、誰かさんたちとは完全に縁が切れ、誰かさんはこの世界から縁を切りました。みんな、もう、ぼくにとっては誰かさんです。残ったのは相棒だけ。あるいは、ぼくらだけが残されたのかもしれませんが、そういうレトリックは、ぼくは、好きではない。

これは、ただのバス停です。昔、ぼくらはここからバスに乗り、そしてどこかへ行きました。ぼくは記憶力が悪いので、バス停の名前が同じかどうか、発着本数が同じかどうか、そんなことはまったく思い出せません。ま、本数の少なさだけは変わらないようでしたけれど。

だけれど、確かに、ぼくらはここから出発しました。バスが来るまでの間、今年もツバメの巣があったね、などと話し合いました。

***

宿からのバスに同乗した院生たちは、元気に何ごとかを話し合っています。ぼくは窓の外を眺めています。十数年が過ぎて、けれどいまだに何も変わらないぼくだけがここにいます。相変わらずへらへらへらへら、何が楽しいのかいい加減なことばかり言って暮らしています。けれども。

けれども、クラウドリーフさんの乗ったバスが西武秩父の駅へ着いたとき、彼は不思議なものを見ました。駅のベンチに座っていた若い女のひとが、ぼくらのバスを見ると、笑顔を浮かべて立ち上がり、軽く手をふったのです。それは、ぼくらと一緒に人形劇をやった誰かさんに、とてもとてもよく似た笑顔のひとでした。クラウドリーフさんはほんの一瞬、何か救われたような、泣きたくなるような気持ちになります。けれどもどれだけ頭の悪い彼でもこの世界に救いなどないことは知っていますし、第一、彼は泣くほど繊細な心など持ち合わせてはいません。ぼくはよく知っています。彼は、愚かで倣岸で、感傷とは無縁な人間です。

彼は荷物を背負い、バスを降ります。さっきの女性がどうしてこちらに手をふったのかは分りませんが、バスの向こうに知り合いの車があったか、あるいは単に勘違いをしただけか、いずれにせよ、クラウドリーフさんには何の関係もない話です。

良い論文を書くしかありません。それを選んだのだから、切り捨てたすべてのものを忘れずけれど迷わず、残りの時間を過ごそうと思っています。

夏の日々

先日、集中講義のTAをしてきました。授業のお手伝いです。いろいろな雑用をします。ぼくは会社員をしながら大学へ来ているということもあり、研究以外のことにはあまり関わることがありません。ですから、こういったお仕事もやってみるとなかなかに新鮮です。

けれども最近は仕事も忙しく、かつ博論執筆に向けていろいろ読まなければならないものも山積みになっていて、そうとうに眠いのです。ホワイトボード用のマーカーのインクが切れたとか、座席が足りなくなったとか、そういった問題が発生したときには教室から飛び出して走り回って解決するのですが、そうでないときは基本的に隅っこ(とはいえ教室前方の隅なので、生徒からは丸見えですが)に座り、ぼんやりしていることが大半です。

などと言えば聞こえが良いのですが、しかしこれ、ただぼんやりしているだけではない。クラウドリーフさんを甘く見てはいけません。何しろ不慣れなので、準備は念入りにと思っていても、変なところで抜けがあります。そうするとどたばた走り回ることになる。何しろ暑いさなかですから、問題を解決して教室に戻るころには汗だくです。先生が講義している脇で、「はあっ、はあっ」などと荒く息を吐きながら汗を拭います。

しかも初日は頭痛を併発してしまいました。通常は何とかコントロールできる範囲に抑えられるのですが、時折、ちょっと気を失いそうになるほど酷くなることがあるのです。今回は運悪くそれが講義中に始まってしまいました。しかし精神力です。じっと我慢の子です。クラウドリーフさんは、良いことなど何もない人生を三十云年に渡って耐えてきたのです。いまさら耐えられない何事があるというのでしょう。

「はあっ、はあっ、うっ!」白目を剥いて、頭を壁に打ちつけます。大丈夫。みんなが気づいていても、ぼくは気づいていない。世界は主観でできているというのが彼のモットーです。自分さえ気づいていないのであれば、それは存在しないのも同じなのです。

けれどあまりに痛みが酷くなると、こっそり教室を抜け出し(と言いつつ先生の脇を通り抜けざるを得ないのですが)、となりの院生部屋に行って頭から水を被ります。まるで江戸時代の拷問のようです。そして手ぬぐいで顔を適当に拭き、また講義に戻ります。濡れた髪の毛がマッドサイエンティストのように跳ねまくっていますが、彼はもはやすべてを諦めた男です。人の目を気にして、いつもええ恰好しいだった、自意識過剰な昔の彼はもういないのです。「死を恐れぬ武士に、もはや迷いはない」クラウドリーフさんはついに幻覚を見始めます。等身大の腐ったトマトと、あともうひとり、やはり腐った何かの野菜が、幻覚の中で彼に説教をしています。先生が講義をする傍らで、なぜ俺はこの腐ったトマトに説教されなければならないのか。クラウドリーフさんはぼんやりと困惑します。

けっきょく、講義のあと、院生部屋でしばらく気を失っていました。同期の子がやってきて、何やら冷蔵庫の中の腐ったジュースを元気が出るから「飲め、飲め」と勧めてきます。これも幻覚かと思っていましたが、後で聞いたところ、どうやら実際に腐ったジュースを勧められたようです。ぼく嫌われているんでしょうかね。しばらくして少し歩けるようになったので、相棒に駅まで送ってもらい、どうにか帰宅しました。

翌日は講義はお休みで、お仕事。その翌日が、また集中講義です。講義開始は十時なのですが、何ごとも完全主義なクラウドリーフさんは七時半には大学へ着いてしまいました。二日目ともなると特に準備はないのですが、しかし着いてしまったものは仕方ありません。彼は箒とちりとりを持ち出し、教室の掃除をすることにしました。この大学、何しろ汚いのです。修士のときの大学は、とにかく綺麗でした。さすが学費が二倍以上違うだけはあります。とにかくトイレが綺麗でした。ちなみに、その大学の近くへはいまでもしばしば行くのですが、クラウドリーフさん、トイレだけを借りにこっそり侵入していることがあるという噂があります。あくまでも噂です。彼は、「いや、恩師に挨拶に行くついでにさ」などと言葉を濁していますが、ぼくは知っています。彼は修士論文の口頭試問が終了して以来、その教授と一度も会っていないし、メールのやりとりさえしていないのです。絶縁。

それはともかく、二日目の朝です。掃除です。クラウドリーフさんは人格的に多くの問題を抱えているひとですが、綺麗好きなのと骨年齢の若さと体脂肪率の低さと頚動脈の美しさだけは保証つきです。人間ドックの結果を相棒と比べながら見ていたのですが、頚動脈の美しさときたらまるで芸術でした。ぼくは今後、それだけを支えに生きていこうと思っているのです。

などと呟きながら掃除をしていると、黒板の下にたまったチョークの粉に気づきました。やれやれ、誰も掃除していないからこんなになるんだ。彼は箒をずずいと伸ばしました。するとチョークの山が、ふいに猛スピードで動き始めました。そう、ぶりごきがいたのです。ストレートに言うと顰蹙を買いそうなのであえてひっくり返してみたのですが、かえって逆効果だという気がひしひしとしています。

しかしみなさん、カラフルなチョークの粉に塗れたあいつをご覧になったことがありますか? ぼくは初めて見たのですが、なかなかにパステルカラーがファンタスティックでエレクトリカルパレードでした。

そんなこんなで、TA、案外つらかったです。その翌日から普通に仕事に戻り、お盆に入ってからは基本的にずっと論文を書いています。合宿までにできれば第四部の草稿は書き上げたいと思っていますので、まだしばらくは休みなしで走り続ける日が続きます。この一月で参考文献を十五冊読み、資料を九万文字打ち込みました。が、まだまだ、勝負はこれからです。休みが明けたらまた仕事も増えてくるでしょう。

けれども、余裕です。クラウドリーフさんは、いつでも余裕です。ぼくは彼のそんな能天気さが、案外気に入っています。

きょうは大学へ行き、少しだけカメラを持ってうろうろしてきました。お盆休み、けっきょく一日もオフの日はありませんでしたが、それでも、地面に転がっているもの、這っている虫、ぶんぶん唸る蜂などを眺めていると、それで十分、ぼくにとっては旅行になるのです。

小説も読んでいませんし、みなさんのブログにもなかなか行く時間が持てませんが、もうしばらく、こんな感じで集中していくつもりです。みなさまにおかれましては、どうぞ良い夏休みを!