こう見えてぼくは長生きをする男だ、もちろんクーリングオフだってできる

ほんのしばらく、相棒が動物の世話をすることになった。その生き物はどんぐりや杉の実を食べるかもしれないというので、数日のあいだ、ぼくもどんぐりを探しながら道を歩いていた。ひさしぶりに大学へ寄るとき、途中の道沿いの家で、庭師のお爺さんが剪定をしていた。ぼくはこれはちょうどよいと思い、杉の葉を幾束かもらうことにした。「すみません、ここにある杉の葉、少し分けていただいてもよろしいですか?」「松の葉だな」といわれ、はい、とにこにこしながら貰ったものの、自分の呆け具合に少々不安になった。確かにこれは松の葉で、杉の葉ではない。そもそもぼくは、杉の実がほしかったのではないのか。それがどうして松の葉っぱを抱えて歩いているのか。大学につき、構内で定年退職した老先生にばったりお会いする。「こんにちは!」元気に挨拶するのがぼくの良いところ。老先生は松の葉っぱを振り回しながら歩いているぼくをみて「はっはっは」と笑いながら挨拶を返してくれた。相棒の研究室に寄り、葉っぱを渡す。杉の実が松の葉に変わったところで、いまさら驚くような彼女ではない。まあ入れたら遊び道具にするかも、とフォローしてくれたので、とりあえず渡しておく。その生き物は夜行性なので、ぼくがいるあいだずっと眠っていた。それも先週の話で、彼(彼女?)は無事に怪我も手術してもらい、もと居た山へ相棒によって返されていった。

あるいはこんなこと。こうみえてぼくはかなりのええ格好しいだ。女子大へ行くとき、いつも同じ服ではまずいと思い(無論ちゃんと洗濯はしている。服など持っていないだけだ。自慢にもならないが)、仕事帰りに、乗換駅にできたユニクロなるものに寄り、カーディガンというか何というか、とにかくそんなものを買った。癖毛にちゃんとブラシを通し、洗いたてのワイシャツにほこほこしたカーディガンを羽織ると、あら不思議、驚くほどひとあたりの良さそうなお兄さんのできあがり。と思ってえへんえへんと彼女のところへ行くと、「それ新しく買ったの?」と訊いてくる。「そうそう、ユニクロってところに行って買ったの!」と勇んで報告。いくらかというので3,000円くらいだったと答えると「どうみてもその値段には思えない」という。そうだろうそうだろう、ぼくのように格好良いと、着ている服も何倍にも映えるのであろう、などとは思わない。「1,000円くらいに見える?」と訊けば、「500円くらい」と言われた。言い訳をすれば、ぼくは肩幅だけはあるのだけれど極端になで肩なので、たいていの服はすぐに格好悪く型崩れしてしまい、まるで着古して伸びてしまったようにみえるのだ。説得力のない公式見解。

講義のとき、めずらしく疲れきってしまっていて、思わず座ってしまった。もちろん、しゃがんだということではなく、教壇の椅子に、ちゃんと格好をつけて。少し早めに講義を終わらせてもらって、講師室で休憩。一息入れて大学へ戻り、幾つかの作業をこなす。研究仲間と少し飲んで、家に戻ってから幾冊かの本を読む。

どうということのない日常。けれども、充実した日常。

もう限界のような気もするし、まだまだいくらでもアクセルを踏めるような気もする。ぼくは、言葉で自分を鎧うことに関しては天才的な技能を持っている。天才「的」であって天才ではないところが悲しい話ではあるけれど、所詮は器用さだけが取り得の人間だ。ともかく、ぼくは言葉で自分を鎧う。イメージとしては、何枚もの鉄の板で自分の魂を幾重にも縛りつける。ぎりぎりと締めつける。ぼく自身はたいして強いわけでも頭が良いわけでもないけれど、そうして自己暗示にかけることによって、たいていのことには耐えられるようになる。縛りつけすぎて歪んでしまった鉄の壁のむこうに、いまでもぼくがいるのかどうかは、すでにずっと以前から分らなくなっている。どのみち、それは大した問題ではない。ぼくと呼ばれる何ものかが存在して、そうして、確かに存在している。それ以上の何かに必要は感じていない。必要なのは存在することであって、存在するものではない。

彼女とどんぐりを探していた日の昼、道端にいもむしが転がっていた。ぼくは目が悪いけれど、そういったものは目に留まる。ほらほら、と彼女に教えると、彼女はさっと掬って草叢の奥へそれを放す。同じ日の夜、彼女の家に歩いて行く途中、暗闇の中にうずくまるがまがえるがいる。夜目は利かないけれど何故だかぼくにはそれが見える。彼女にほらほら、と教えると、彼女はさっと掬って草叢の奥へそれを放す。

どうということのない日常。アクセルを踏み続けるけれど、穏やかな日々。天才というものは、驚くべきことだけれど、確かに存在する。だけれども、ある瞬間、何の才能も持たない凡人がその天才に並び立つ。さらにその一歩先へと踏みだす。ぼくはその瞬間があることを知っている。

ただ、何かが。

力任せに投げた小石が強く川面を弾き、向こう岸まで飛んでいく。隣にいた彼女が呆れたように笑い、そうじゃないよ、といって軽く小石を投げると、それは美しい波紋を五つ六つと残し、小さな音を立てて水底に沈む。きみは不貞腐れたように川縁に腰を下ろす。――そういう器用なやりかたっていうのは肌に合わないんだよ。きみの隣に座った彼女は頷き、真面目な顔をしていう。――きみがそういう性格なのはよく分かっているけど、でもそれだといろいろ大変だよ、きっと。きみは顔をしかめ、手近にある小石を川に放った。――そんなこと言われなくても分っているよ。ま、なるようにしかならないんだから、仕方がないさ。彼女は少し寂しそうに笑い、――それはそうだけどね、というと、きみの真似をして、やる気もなく小石を川に投げ込んだ。波紋が波に消えると同時に、向うからきみたちを呼ぶ声が届く。そろそろ夕食の準備を始める時間だった。

きみたちは大学時代同じサークルにいた者同士で、昔合宿で毎年訪れていた寺に再び泊まりにきていた。山間の澄んだ川を見下ろす位置にある寺で、きみたちは学生時代、地元の子どもたちに人形劇の公演をしにきていたのだ。大半が就職をしているなか、きみはいまだに学生を続け、彼女はバイトで暮らしていた。だからどうだということもなかったが、どことなく肩身が狭いのもまた確かで、いつのまにかきみと彼女は他のみんなから離れ、ひっそりとやり過ごすことが増えていた。皆が集まるのは二年ぶりだったが、けれどもその二年は、先の見えない学生時代という特別な時期を共有していた仲間たちを別つのには十分だったのだろう。仕事の苦労話や車のローンの話などを自然に語る彼らの間に、きみはもうどうやって入ったら良いのか分らなくなっていた。彼女も、きっとそうだったのかもしれない。たかだか二泊三日の旅行だったが、きみたちは自然と二人でいるようになっていた。傷を舐めあう、などということではなく、単に、極かすかにだったとしても、共有しあう何かがあると思えたからだろう。

対人恐怖症で不器用で壁にぶつかったらいつまでもぶつかり続けるようなきみとは違い、彼女は人当たりもよく、器用で頭も良かった。そんな彼女がなぜいまだに就職もせずその日暮らしを続けているのか、本当のところは、きみにはよく分からなかった。二日目の夜、宴会の盛り上がりから離れ、きみと彼女は縁側に出て風にあたっていた。田舎の夜空には恐ろしいほどに星が溢れている。吸い込まれてしまうような気がして慌てて目を逸らし、きみは隣にいる彼女を見る。所在なさ気に団扇をもてあそんでいた彼女が、きみを見返す。きみは気になっていたことを彼女に訊ねてみた。――……あのさ、俺は、もうどうやっても卒業とか無理だと思うんだよね。実際、大学へ行っただけで息が詰まって吐きそうになるんだ。恥ずかしい話だけどさ。彼女は悲しそうに、川を挟んだ向かいにある暗い山なみに目をやる。――でもきみはちゃんと卒業もしたし、成績だって悪くはなかった。それなのに……。――それなのに、何? 彼女はいつの間にか俯いたまま微笑んでいた。何だってきみは俺と同じ側にいるんだ? きみは、その疑問を口にできないまま、いや、何でもないよと誤魔化し、昨晩皆でやった花火の残りを持ってくると、彼女とふたりで線香花火をした。

もう、それも十数年昔の話だ。きみはいまだに何者にもなれず、既にあのころ時間を共有していた誰とも連絡をとることはなくなっていた。きみはある女子大で、ほんの幾つかの講義を持つようになった。何人かの生徒はきみの話を聴き、何人かの生徒は教室に入るなり後ろの方の席で輪になり、あとはひたすらお喋りにいそしんでいる。それはそれで、きみにはどうでもいいことだった。講義を聴いている学生の迷惑にならない程度なら、私語をしようが携帯を眺めていようが、それは本人の選択だときみは思っていたからだ。結局最初の大学を中退したきみには、講義をまじめに受けるよう彼女たちに働きかけるいかなる理由もなかった。

けれども、時折、きみは叫びだしそうになる。彼女たちの、生きていることに対する盲目的で無根拠な自信が、きみを苛立たせる。いや、それは苛立ちではない、嫉妬ですらない。それは恐怖だった。講義の間、ふと、きみは急激な吐き気に襲われる。きみは彼女たちが恐ろしかった。蜂のようなざわめき、光があることを当然のように受け入れるその笑顔が、きみには途轍もなく恐ろしく思えたのだ。けれども、震える足を力で抑え、きみは講義を続けた。

きみよりも器用で、きみよりも人当たりがよく、きみよりもはるかに頭の良かった彼女は、けれどもきみよりも早く、この世界から退場することを選んだ。いま、きみには何となく分る気がしている。いまだに留まり続けているきみは、要するに、それだけ鈍く、それだけ愚かだったということなのだ。――ま、なるようにしかならないんだから、仕方がないさ。驚くほど疲れきった声で、きみは自分に語りかける。

線香花火をすべて燃やし終えたあと、きみと彼女は夜の川辺へと降りていった。小さく浅い川は、けれど夜に沈み、あまりに黒く深い。それでも彼女はスカートを膝まで上げて軽く縛ると、ばしゃばしゃと水を撥ねさせ水の中へと入っていく。危ないぞ、というきみに柔らかく光を放つような笑顔を向け、大丈夫だもん、と子どものようにいう。そしてふいに、真剣な声音できみに訊ねる。――ねえ、何だかこれって、時間の流れみたいだよね。きみは無駄に堅く縛った靴紐を解きながら聞き返す。――時間の流れ? どういうことさ。彼女は直接は答えず、さらに問いを重ねる。――川上と川下、どっちが未来で、どっちが過去だと思う? 時間が流れるものなら、川上が過去で、川下が未来。でも、私は逆の気がする。水に流されて消えていくのが過去で、流れに逆らって進むのが未来なの。私は、きっと流されるだけだな。彼女の声が遠ざかる気がして、きみは慌てて靴を脱ぎ捨て、川に入る。あっという間に、ジーンズが重く水を吸う。川のせせらぎに混じり、どこからか彼女の声が聴こえてくる。――きっときみなら進めるよ。いまは立ち止まっているだけのように思えても、きっと、進める。

それが、きみの記憶に残る、最後の彼女の言葉だ。旅行から戻った後も幾度か彼女に会ったが、いまでも覚えているのは、あの夜の彼女の声。彼女が過去に消えてしまったのか、あるいは先に未来へと行ってしまったのか。どのみち、きみが独りで残されたことに変わりはない。ふと、教室が静まり返っていることに気づき、きみは我にかえる。学生たちが、きみを薄気味悪そうに、あるいは莫迦にしたような笑みを浮かべて眺めている。きみは何事もなかったかのように講義を再開する。

あのときの黒い川のただ中に、きみはいまでも立ち竦んでいる。恐怖をこらえ、吐き気をこらえつつ、きみは流れていく水を感じている。

ルーアッハ、ルーアッハ、ルーアッハ。

基本的にぼくは、太宰にならうわけではありませんが、「おしるこ万才」など糞喰らえだと思っています。別に破滅願望とか、そういうお話ではありません。むしろそれはぼくにとって徹底して生きることを意味しています。おしるこ万才には、どこか生に対する甘えと怠惰と驕りが隠されている。そういうものには、心底怖気をふるうのです。ぼくを支えてくれるのはつねに、ジョバンニの強さです。救いのない日常を日常として生き抜くこと。大仰な言葉とか分りやすい敵だとか、そういったものは必要ありません。そして同時に、戦いを矮小化したいわけでもありません。なぜ「魂の戦い」が抽象論とされ、理想論とされるようになってしまったのか。なぜぼくらは、生きているこの一瞬一瞬に魂を感じることができなくなってしまったのか。根源的な問題がそこにあります。

***

女子大に行く途中、たいていいつも、一人の老人が恐らく彼の住んでいるであろう家の前に立ち、群のように歩いていく彼女たちを眺めています。それは、ぼくの偏見かもしれませんが、微笑ましいような情景では決してありません。それはぼくに、どこか澱んだ寂しさを感じさせるのです。透明な寂しさが硬く美しいものだとすれば、澱んだ寂しさはただひたすら痛々しいものです。道を行く彼女たちの多くは、恐らくその老人を見てはいないでしょう(同じことは、残念ながら教室におけるぼくと一部の生徒に関してもいえます。彼女たちの眼に、おそらくぼくは映っていない)。そして同時に、その老人の目もまた、過ぎ去っていく彼女たちを「彼女たち」以上のものとしては見ていない。

先日、北海道に行きました。夜に到着し、翌日昼に帰着。ただ発表のためだけの移動。体力的にはともかく、精神的には少々つらいものがあります。発表は、最近自分にとって面白いと思うことに、ほんの少し新しいことをつけ加えたもの。というと聞こえが悪いですが、博論を提出し終えてからようやく自分なりの立ち位置というものが少し見え始め、いまはそこを基準点として幾つかのものごとを考えようとしているところです。だから見た目同じような話になってしまうし、実際まったく同じことを語ってもいるのだけれど、それぞれにベクトルが違うものでもある。なかなか、短い発表時間でそれを伝えるのは難しいですね。

けれどもそれ以上に、今回の発表ではいわゆる教授陣のような人々からは一切反応がなかったというのが、反省を通りこしてだいぶ不気味になりました(若い人たちからは鋭い指摘を受けて、それだけで十分だったのですが)。ぼく以外の発表者に対してはそれなりに意見が出ていたのが、ぼくのときだけ完全に彼らの目が死んでいるのです。まあ、学会の性質的にも仕方がないことかもしれないけれど、それにしても若干びっくりしてしまいます。いま、この瞬間を生きている少なくない人々が抱えているであろう問題に、ここまで無関心を決め込めるその神経が恐ろしい。そして彼らの発表や質問時におけるあまりの非常識さや失敬さ(その点、質問さえされなかったぼくは、むしろ幸福だったのかもしれませんが)。その人生において大学から一歩も外へ出たことがないひとであっても、当然ですが立派なひとはたくさんいます。けれども、そうでないひとも、残念ながらたくさん見てきました。そういった人々の眼には、どうやら「人間」なるものはまったく映ることがないようです。

ぼくとて、自分にとって意味のある人間としか関わるつもりがないと断言する程度には断絶した部分を持っています。けれどもそれは意識した断絶であって、無自覚的な欠落ではない。そして意識した断絶を超えて、人間というものがどうしようもなく開かれ、剥き出しに曝されたものであることをぼくは知っています。それは恐怖であり、悲しみであり、苦痛としてぼくに迫ってきます。それは決して自己のうちに閉じたものとしてではなく、開いている、曝け出されているが故のものです。けれども、年齢にも立場にも関係なく、完全に閉じてしまっている人びとが存在するのもまた、どうやら事実のようです。限られた才能と時間しか持たない意識されたものとしてのこのぼくには、いずれにせよそれはそうだとして諦めるより他ありませんし、またそれ以上のことをするいかなる義務もありません。ぼくは聖者でもなければ暇人でもない。その両者は同じことかもしれませんが。

先週、二つ目の大学でゲストスピーカーとして喋る機会をもらい、好き勝手なことを話してきました。やはり「死」や「神」や「魂」について話すのは、こういったブログであれば自由に書けるのですが、いまいる研究室ではなかなか(というよりきわめて)難しいのです。そういった意味で、いまはもうぼくがいた学部は存在しないのですが、それでも当時の雰囲気が欠片でも残っているところで話すのは、思っていた以上に楽しいことでした。当たり前ですが、学会によっては発表で「魂の苦しみと救済」とか言ったら頭がどうかしたと思われるのがおちでしょう。

その後、恩師と、その日が初対面のまだ若い牧師さんと食事をしたのですが、そういった場は、ぼくのように、どこにいっても器用だけれど器用なだけで終わるような中途半端な人間にとって、いちばん自然な言葉で話すことができる場でもあるのです。別に理想化しているわけではありません。むしろぼくは「神」的なるものに対して根源的に批判的な立場にいるし、だから仲良しごっこ的な意味で楽だということではまったくないのです。単純にそれは、勝ち負けやフォーマットを超えて、自分にとって話すべきことを話せる場というだけのことです。けれども同時に、なかなか得にくく、大切な場でもあります。

女子大での講義は、想像以上に準備が大変ですが、想像以上に楽しくもあります。自分がなにをもっとも伝えたいと思っているのか、それが見えてくるのが面白い。ぼくにとってのそれは結局のところ、考えるということは、答を出さず、断罪せずに耐え続けることだという、ただその一点なのかもしれないと感じています。答を出し、断罪を(あるいは救済を)するのは、そんなことは神野郎にでもやらせておけば良い。

***

また一つ非常勤をもらえる可能性があるようなないような雰囲気ですが、どんな形で研究をしていくのか、改めて考えなければいけません。しかしどうなるにせよ、最終的には魂の問題へと戻っていくことだけは、逃れようのない事実としてあるようです。

地球の裏側で蝶が羽ばたく音を

先日、とある集まりに参加するために、ひさしぶりに新宿へ出ました。集合の時間がちょっと中途半端だったため、新宿御苑で時間を潰すことにしました。きょうはカメラも持っています。本も、飲み物も装備して、冒険の準備はばっちりです。「そうやって油断した奴から死んでいったんだぜ」などと呟きつつ、フヒヒと笑って御苑に突入です。きょうは節電のため、大木戸門では自動券売機が止まっており、窓口のおじさんから切符を購入。ここで交わした会話が本日のハイライトでした。

新宿御苑前で地上に上がったときから、デモ行進がずっと続いていました。聞くともなしに聞いていると、どうやら脱原発を訴えての活動のようでした。デモ行進の列はなかなかに長く、御苑に入ってから閉園するまでの間ずっと、拡声器を通してその声が届いていました。

9.11とか3.11とか、そういった記号化された表現を、ぼく個人はあまり好きになれません。そしてまた、3.11を通して思想は変わらなければならない、変わらざるを得ないという哲学者たち、研究者たちは極めて多いのですが、ぼく自身はそうは思わないのです。無論、社会状況は変わるでしょう。人びとの意識も変わるかもしれません(しかし人びととはいったい誰のことでしょう? ぼくには分りません)。けれども哲学の在り方が根本的に変革を迫られているという言葉を聞くと、違和感を感じざるを得ないのです。ぼくら人類は、この世界において、その歴史のなかで、つねに取り返しのつかない、耐え難い悲しみや苦しみのなかで戦ってきました。そういった意味で、もし思想というものが在るのであれば、それはいままで通り戦い続けなくてはならないのだし、また同時に、それはルーチンワークなどではなく、あらゆる一瞬を生きる人びとの唯一性によって、瞬間瞬間に変わり続けることを原理的に強制されたものでもあります。それを抽象論だというのは容易いことです。けれどもまた、ぼくはどうしても、3.11という形でものごとを捉えるということに抽象性を感じてしまうのです。

とはいえ、これはとてもとても狭い、極一部の研究領域内におけるお話でしかありません。デモの声を聞いていて感じたのは、もっと別のこと。

その内容如何に関わらず、ぼくはやっぱり、デモというものが苦手です。斜に構える、ということではなく、恐らくもっと単純に性格的なこと。子どものころ、クラスにひとりかふたり、どうしてもみんなの仲間に入れない子がいましたよね。ぼくもそんな感じでした。それは別段、寂しいことでも何でもなく、本さえ読んでいれば楽しかったのです。それがそのまま、大人になってしまったということでしかないのでしょう。

形而下の生活、というものは、当たり前ですが、大切なものです。形而上的なことばかり考えているのが高尚だとか、そんなことを本気で考えている人間がいたら、それはちょっとばかり寂しいことです。みなで協力して、共同で、社会に働きかけていく、何かと戦うというのは、とても素晴らしいことです。

ただ、ぼくはその「みな」というものに、どうしても疑いの目を向けてしまう。それは価値判断を超え、要するに、そのひとの性質ということです。そうして、そういう性質というのは、別段、珍しいものでもひけらかすものでもありません。引け目に感じなければならないようなものでもありません。人間には様々なタイプがある。ただそれだけのことです。問題は、生まれつきか自分が選んだものか社会に強制されたものか、分らないけれどもともかく、自分のいまいる立ち位置から見える世界を見るということです。

大きな声、というものが苦手です。誰かが何かを拡声器を通して叫ぶ。そこで語られるのが何であれ、そしてそこに正当性があるにしても、さらにそれが自分も同意できるような内容を語る声であったとしてさえ、なお、ぼくはその声の大きさが持つ暴力に恐怖を感じます。

これは、ぼくが所属していた研究室でも(あ、いまでも形式的には所属していますね)、なかなかに伝わらなかったことですが、語るということは、つねにそれだけで、暴力的なものです。いえ、表面的には伝わります。伝わるけれど、でも、そこにこめられた恐怖というものは、どうにも伝わらない。それはそうで、そんなことを言っていたら、研究なんて不可能になってしまう。論文を書くということはそれだけで何かを殺すことにつながっているんだよ、などといわれても、じゃあどうしたらいいんだ、ということになってしまいます。

けれども、語るということは、やはり暴力です。とても恐ろしい、かつ根源的な暴力です。にもかかわらずぼくらは語らざるを得ないし、誰かが語る声に耳を傾けざるを得ない。そしてだからこそそれは暴力でもある。その無限の循環のなかでぼくらは他者と共にあるのだし、そこでしか共にあることはできない。だからこそぼくらはつねに悲しまざるを得ないのだし、だからこそぼくらは、他者に対する責任=倫理を持たざるを得ない。

世界を何色かに塗り潰そうとする大きな声が、ぼくは怖い。塗り潰されることに対する戦いとしてであってさえも、やはりぼくは、大きな声というものを持ちたいとは思わないのです。そこには、きっと、あるひとりの、たったひとりの誰かの声は、既に存在していません。

いうまでもなく、これはかなり一面的な理解でしょう。無数の集団のなかに、しかし必ずそこには差異があるはずです。拡声器越しの叫び声、繰りかえされるフレーズ。そういった戦術的な統一性を超えて、そこにはそこにいるひとりひとりの回収しきれない差異がつねに残り続けます。

だからやはり、もっと単純に、ぼくは大きな声が苦手だ、というだけのことなのかもしれません。クラスに馴染めない子どものようなものです。いまだに、ぼくはそんな感じで生きているのでしょう。

だけれども、それが孤独であるなどとは、ぼくは思いません。語るということの暴力に居座るのではなく、語るということが暴力であることを認めつつなおそこに希望を、そしてきみを見いだすこと。

御苑の奥で、トンボが木の枝にとまっていました。カメラを向けつつにじり寄ると、意外に厳しく、トンボに額を攻撃されました。やれやれ、痛い痛い、などと思って顔をしかめていると、お母さんに連れられた小さな女の子が、そんなぼくを見てきゃらきゃらと笑いながら通り過ぎていきます。

誰もいなくなった道。その瞬間、あらゆる音が、遠くから聞こえてくる拡声器の声さえもが消え、無限の静寂のなか、トンボが飛び立つ音が、確かに、ぼくの耳に届きました。

ある一瞬の、ある一点の

今週から始まる講義で使う資料が足りず、ひさしぶりに彼女と東京で落ち合い、本屋に行ったのです。彼女はフィールドワーカーなので、研究のデータは海外の熱帯雨林なり日本の森林なりに出向いて集めなければなりません。ぼくはまがりなりにも思想系で研究をしているので、基本的には論文や書籍が彼女でいうところのデータのようなものにあたります。いまは便利な世の中なので、論文も書籍もネットでも手に入れることができます。無論、図書館もありますし、時間があればこの日のように本屋さんに行っても良い。いわばそこが、ぼくにとってのフィールドです。本屋でフィールドワーク。研究者としては安直に過ぎますが、それでも、大げさに言えば、現代日本社会においてぼくらの研究している分野がどのように捉えられているか、資本主義というフィルターを通して、けっこう面白く見えてきたりもするのです。そうそう、OZONの丸善では「共生」フェアなるものをやっていました。共生って、何でしょうね。しばらくそのフェアをやっている本棚の前で茫然自失としていました。

それから数日後、大学の院生部屋にこもってレジュメを作っていました。最近は頭痛がいよいよ酷く、薬を飲み続けです。それでも、資料をひっくり返しつつ講義の構想を思い浮かべるのは、とても楽しいことです。勉強するというのは、とても楽しいことです。ぼくはそれに気づくのに、長い長い時間を必要としました。でも、それはそれで、きっと昔のままのぼくでは見えなかったものも見えるようになったと思っているので、別段、後悔することはありません。

暗くなる前に大学を出て、ちょっと遠出です。二年ほど前に彼女と自転車で散歩をしていたときにふと見つけた、鶏肉の専門店に行こうと思ったのです。専門店といっても、住宅街の細い路地に面した小さなお店。でも、そこでぼくらは鳥のから揚げを買い、大通りに面したベンチに座り、ふたりでむしゃむしゃと食べていました。ぼくを支え、ぼくを形づくる大切な記憶のひとつ。

二十年近くの昔、人形劇の部活で遅くまで残り、真暗な帰り道、コンビニで肉まんを買ってふたりで食べながら帰った冬の夜。そんなささやかなことこそがずっと記憶に残ります。いつまでもくっきりと輝き、ぼくの生を照らし続けてくれます。

ともかく、その鶏肉屋さんに行こうと思ったのです。頭痛が酷いので、きょうは自転車ではなく歩きです。彼女はいないので、足下を這う蟻んこなどを眺めつつ、ぼんやり歩いていきます。時折、散歩中の犬と出会うと挨拶をしたりして、飼い主さんに不気味がられたりもします。何だか、妙に幸せです。

ようやく着いた鶏肉屋さんは、けれども、閉店していました。数年前に彼女と行った際、既にだいぶお年寄りのご主人が営業していたので、もしかしたらもう、お店をたたむことにしたのかもしれません。寂しいことですが、所詮はただ通り過ぎるだけの人間であるぼくには、それに対して何かコメントする権利がないのもまた、確かでしょう。結局、そこからさらに歩いて、駅前で彼女と落ち合い、いつもどおりのスーパーでいつもどおりの買い物をして帰りました。けれども、いろいろなことすべてをひっくるめて、何だか良い一日だったなあと思ったのです。

良い一日。美しいものを見ました。寂しいものも見ました。寂しさのなかには美しさがあります。美しさのなかにもまた、寂しさがあります。良い、ということは、恐らく、とても厳しいものなのだと、ぼくは思います。

頭痛が酷くて、起きていられないとき、畳の上で転がり、頭を打ちつけ、殴りつけ、涎を垂らし、涙を流しつつ、けれどもふとそのぼやけた視界の向こうに、畳の目が見えます。その畳の目が、途轍もなく美しく見えるのです。それは、その美しさはきっと、その瞬間、その一点に集中するからこそ顕わになる美しさです。

それは、F値を開放したときの、レンズの向うに見える光景です。ある一瞬の、ある一点に集中したぼくらの視線。

東京で会ったとき、彼女が、ハリネズミをぼくにくれました。ぼくは彼女に、小さな小さなお話を渡しました。

すべての一瞬一瞬をかけがえのないものとして、記憶していたい。苦痛も恐怖も後悔もすべてひっくるめて、きっとそこに、人生の美しさが顕れてくるのだと、ぼくは思っています。

生きている限りぼくらには

始発の下りに乗り、三日ぶりの家路につく。徹夜続きのせいか動悸がおかしく、うまく眠りに潜りこむこともできないままに地元の駅へ着いてしまう。ホームの自販機で冷たい缶コーヒーを買い、だらしなくネクタイを緩め、だらしなくベンチにもたれる。それがぼくの、数少ない息抜きのひとときだ。どのみちアパートに戻ったところで、埃の積もった床と冷蔵庫のなかの腐りかけの牛乳以外に、ぼくを出迎えてくれるものもない。ひたすら過酷な労働が続くだけの職だから、二年を過ぎたころには同期のほとんどが辞めていた。独り暮らしの家ではもちろん、会社でも私的な会話を交わすような相手はいなかったけれど、それが気楽でもあった。

――まあでも、それもそろそろ限界かもしれないよなあ。最近、独り言が多くなった。甘いだけの缶コーヒーを啜り、ホームの天井を見上げる。――ほんとうに、そう見えるよ。あんまり無理をしたらだめだよ。突然隣から声が聴こえ、慌てて顔を向けると、そこにはいつの間にか若い女の子が座っていた。しばらく驚きのあまり声もでないままその子を見つめていたが、ぼくの顔をにこにこと眺めているその子を見ているうちに、ぼくの心がふと和んだ。どこかで、納得している自分もいた。――こんにちは。いや、おはよう、かな。とりあえず挨拶をしてみる。彼女もにっこりと笑い、――おはよう。と挨拶を返す。そうして、ぼくらはしばらく、まるで旧知の友人同士のように、どうということもない雑談を交わした。

やがて向かいのホームに出勤するサラリーマンが目につき始めるころ、ぼくは立ち上がり、彼女に別れを告げる。――ありがとう。おかげでいい気分転換になったよ。彼女は、私も楽しかったよと答えてから、気遣わしげに尋ねてきた。――ずいぶん疲れているみたいだけれど、きょうはお休みの日なの? ぼくは苦笑いを浮かべる。――いや、家に戻って二、三時間気を失って、目が覚めたらシャワーを浴びて着替えて、そしてすぐにまた会社へとんぼがえりさ。彼女は少し寂しそうな表情をしていう。――そんな生活を続けていたら、身体を壊しちゃうよ。深刻さというものにはもう耐えられなくなっていたぼくは、わざと軽薄に混ぜ返す。――なんと、幽霊に健康の心配をされてしまった。彼女はびっくりしたように目を見開く。――気づいていたの? ぼくは思わず笑ってしまった。――そりゃそうだよ。そもそもきみ半透明だし。彼女は慌てたように胸の前に手を組み、上目遣いにぼくを睨む。――いやいや、そういう意味じゃないし。けれどもそれは彼女の冗談だったようだ。表情を緩め、くすくすと笑いだす。――やれやれ。じゃ、本当にもう帰らなきゃ。――うん。しっかり休んでね。ありがとう、と答え、ぼくは改札に降りる階段へ歩いていく。下りホームにも既に幾人かのサラリーマンがいて、ぼくを胡乱気に眺めていた。よれよれのスーツにぼさぼさの髪。寝不足の充血した目で独り言を呟いているとなれば、ぼくだって薄気味悪く思うだろう。けれども、そんなことなど気にならないくらい、ぼくは気分が良かった。アパートの部屋に辿りつき、敷きっ放しの布団に倒れこむとそのまま意識を失う。夢も見ない真暗な眠りのなか、なぜか懐かしい匂いに包まれていた記憶だけが微かに残った。

それからも相変わらずの日常は続いた。家に帰れるのは週に二回もあれば良い方で、激務に耐えかねたチームのメンバーはどんどん入れ替わっていった。激務であることはぼくにとっても同じだったが、けれどそれは同時に、何も考える必要がないということでもあった。増え続ける預金残高に比例して体調は悪化していったが、それすらも、ぼくにとってはどこか心地よさを伴うものだった。要するに、逃げていたということなのかもしれない。それでも、たまに家に帰れるとき、地元の駅のホームで幽霊の女の子と話す時間だけは、本当の意味で心が安らぐ時間だった。ぼくの身体を心配する彼女の言葉は適当に聞き流し、彼女とどうということのないお喋りをするのがぼくは好きだった。生前の記憶をすべて失っていた彼女は、自分がなぜ幽霊になったのかも分かっていなかった。――でもさ、やっぱり何かこの世に心残りがあるから、きみはここに居るんじゃないの? 何度目かになるその問いに、やはり彼女は首を傾げるだけだった。――そうなのかもしれないけれど、でも特に何も思い当たらないのよね。いまだって、あなたのことが心配だっていう以外には気がかりもないし……。――いやまあ、俺のことはいいよ。すると彼女は怒ったようにいう。――良くない。あなた、自分の顔、最近鏡で見た? まるで骸骨みたい。私よりもよっぽど幽霊みたいだよ。失笑するぼくの足を、彼女はひとつ空けた隣のベンチから足を伸ばして蹴ろうとする。もちろんそれは、ぼくを素通りするだけでしかない。半透明の彼女は、全体的にくすんだ白。けれど不思議なことに、頭のなかで想い起こすとき、全体が灰色で塗り潰されたぼくの生活の中で、彼女と過ごすその時間だけは、微かに明るく色づけられていた。

ある朝、いつものようにぼくはホームで彼女に会う。けれどベンチに背を向けたままホームの端に立つ。――そんなところにいたら危ないよ。そうにいう彼女には答えず、呟く。――こうやってさ、仕事仕事で自分を追い込んでいけばいろいろ思い出さずに済むかなとか思ったりもしたけれど、当たり前だけどさ、なかなかそうはいかないよね。振り返って、不安そうな顔をしている彼女に微笑みかける。――俺も、きみのところへ行けば、もう何も思いださないでいられるのかな。そうしてきみと……。言いかけたとき、ふいに彼女がぼくに駆け寄り、ぼくの顔を、ホーム中に鳴り響くほど本気で平手打ちをした。彼女は泣いていた。――馬鹿じゃないの! 死ぬなんて馬鹿よ。大馬鹿よ! 彼女の泣き声と頬の痛みで、ここしばらくずっと靄がかかっていたいたような頭が、急にすっきりしたような気がした。ぼくは妙に晴れ晴れしく笑ってしまいながら彼女に答える。――死ぬなんて馬鹿だって死んだ人間に言われてもなあ。第一、いまきみに引っ叩かれたとき、俺、ホームから落ちそうになったんだけど。彼女は慌てたようにごめん、と謝り、泣き顔のままぼくと顔を見合わせると、そのまま笑いだしてしまう。ぼくらはそのまま、隣り合ってベンチに座る。そのときはじめて、ぼくらは間を空けずに座っていた。彼女は真面目な顔をするとぼくにいう。――あのね、生きることは義務なんだよ。生きている限り、みんな生きなくちゃいけないんだと私は思う。私はあなたに生きていて欲しいと思う。死んだひとはみんな、きっと、生きているひとに生きていて欲しいと思っているんだよ。ぼくは苦く笑う。――勝手だな。――そう、すごく勝手だよ。でもそれは死んだ人間の権利で、そうして生きている人間の義務なんだと私は思うな。ぼくはそっと、彼女の手に自分の手を重ねる。もちろんその手は、掠ることもない。――さっきさ、きみ、俺に触れたよね。触ったっていうか殴ったよね。彼女は恥ずかしそうに頬を赤らめる。――だからごめんってば。でもほんと、言われてみると不思議ね。どうして触れたのかな。――どうせだったらさ、あのとき、きみにキスでもすれば良かったよ。彼女はふいに優しく微笑み、ぼくのほうが逆に恥ずかしくなってしまう。――バカね。そういってぼくの額を突く彼女の指は、もちろん、ぼくに触れることはなかった。

しばらくして、ぼくは会社を辞めた。無駄に溜まった貯金を使って、もう一度大学へ行くことにしたのだ。もう一度、ぼくはすべてをやり直そうという気持ちになっていた。最後の日、会社の若手たちが無理矢理時間を作り、ぼくの送別会を開いてくれた。意外にぼくは、彼らに好かれていたらしい。三次会までつきあい、別れ際、彼らにくれぐれも無理はするなよと伝える。若い連中は笑って、先輩じゃあるまいし端からそんなつもりはないですよ、と言っていた。そのドライさには苦笑するより他なかったが、おかげでそれほど心配せずに去ることができた。

最終電車に間に合い、地元の駅に着く。どこかで予想していたが、誰もいないホームには彼女が独りベンチに座っていた。ぼくはいつものように缶コーヒーを買い、彼女の隣に座る。――あのね、結局最後まで、私は自分が誰なのか、何のために幽霊になったのか思い出せなかったけれど、でも、何だかもう、やるべきことをやったっていう気がするの。――……うん。――でね、次の電車に乗ろうと思うの。それに乗れば、あの世っていうのかな、とにかく私が本来行くべきだったところに行けるから。どうしてかは分らないけれど、でも分るの。――……うん。彼女は清々しいように、けれどどこか寂しげに笑う。――何だか、とっても楽しかったな。本当にありがとうね。ぼくは一瞬上を向いて瞬きをする。少し滲んでいた風景を、無理矢理もとに戻す。――やっぱりあのとき、キスでもしておけばよかったな。――……ほんと、バカね。そうしてぼくらは、つなげない手を黙ってつないでいた。

やがて、来るはずのない電車が、音もなくホームに入ってくる。彼女は立ち上がり、開いたドアの前まで歩いていくと、くるりと振り返って見たこともないほど素敵な笑みを浮かべた。――じゃ、さよなら。ぼくは座ったまま、笑顔で軽く手を振る。――さよなら。また会おう。彼女の目に涙が溢れる。

彼女が電車に乗り、発車のベルが鳴ったとき、ぼくは思わず声をかけていた。――あのさ、本当は……。けれどもそこで扉が閉まり、彼女とぼくを隔てる。もの問いたげな彼女に、何でもないというように首を振る。互いに笑みを交わす。そうして、電車はどこかへ去っていった。――本当は、俺、きみのことを良く知っていたんだ。誰よりも良く、さ。これは独り言。そうして、最後の独り言にしようとぼくは思う。

それからぼくは大学をやり直し、幾度か引越しを繰り返し、何人ものひとと出会い、そして別れた。電車に乗ってどこかへ向かうとき、ふと、これがこのまま彼女のいるところへ通じていたらな、と想像するときもある。けれども、まだそのときではない。ぼくは彼女と約束をした。生きている限り、生きている人間には生きる義務がある。それはあまりにも身勝手な死者の願いではあったけれど、その身勝手さこそが、きっと死者と生者を結ぶ愛なのだと、窓の外を流れる景色をぼんやり眺めながら、ぼくは考える。目的地に着き、ホームに降り立つ。眼が痛むほど眩しい日差しと熱せられたコンクリートから立ち上る熱気。汗が不快に背中を流れる。世界が割れるような蝉の声。

生きている限り、ぼくらには生きる義務がある。大丈夫だよ、というように、いまはもういない彼女に、ぼくはそっと手を振った。