後先考えずにエントリーする勇気

という訳で最近あまり良いことがない。例えば今年のバレンタインデーは誰にもチョコを貰わなかった。と思ったが先週か先々週、プロの店で業務用板チョコみたいのを自分に買っていたのでぎりぎりセーフ。やたら硬いのでいまだに結構残っている。そう言えば大学時代はバレンタインデーというと人形劇部の女の子たちにチョコをあげていた。最近は男もチョコを買うのが流行っているらしいがそれなら俺は時代の最先端だったのか。でも当時は女性に混じってチョコを選んでいるとひたすら変質者だった。また例えば防水だというので喜んで買ったWX330Jの電波のつかみ具合があまりに酷く音質も悪い。話していてもぶちぶち切れるし、メールを受信しようにもネットワークエラーが頻発する。防水だというその一点のみで我慢してきたがそろそろ堪忍袋の尾も切れた。堪忍袋とはオーストラリアに住む有袋類の一種だ。尻尾をつかまれるとそれを切り捨てて逃げると見せかけ激怒する。だから緒でなくて尾で正しいのだそれはともかく。昼休みにwillcomのサイトを見たらWX330Jのバージョンアップのお知らせがあり、これで少しはまともになるかと思ってバージョンアップしていたら昼休みの半分が過ぎた。さてあと10分しかないのだがこのブログを書き終えることができるのか。無論書き終えることができなかったところで人類の歴史には何の影響もないのだが。さてバージョンアップがいま終わり、いそいそとメールを受信してみたら「[楽●天]トラベルニュース ○○様婚活はじめに、ほにゃらら以下略」というのが一通だけ届いていた。婚活はじまらねーよ! っていうかそもそも何の略だよ! と切れてみたものの空しいだけで、しかしきょうのぼくは落ち込むだけではない。なぜかと言えばカメラを持ってきているのです。寒いけれどふかふかのセーターも着ているし、仕事が終わったら海にでも行って写真を撮ろう。暗いことばかり多かった昨年だけれど、改めて写真を趣味にできたことは大きな支えになった。以下写真について感動的なことを書こうと思っていたが案の定昼休みが終わっていまは15:00。仕事はちょっと一段落だが感動的なフレーズはすべて消えた。けれど諦めが悪いのがぼくの良いところなので無理やり書いてみる。最近マクロレンズを買ったと前に書いたけれど、なかなか撮るものがない。仕方がないので自分の指紋を撮ったりする。自分の人生の意義について考えたりもできるので超オススメ。ちなみにぼくは指紋に関しては一家言あって、いやないんだけど、手足を合わせればほとんどすべての指紋の種類を一人で網羅している。ちょっと自分の身体が怖い。あれ全然感動的な話題にならないな。もう一度やり直し。写真を撮るようになってから、以前よりいっそう歩くようになった。仕事帰りに二、三時間カメラ片手に歩くなんてこともある。もともと歩くのは好きだったけれど、面白いもの、美しいものはないかと探しながら歩くのはとても楽しい。身の回りのものに対する視線が鋭敏になった気がするし、自然の移り変わりにも注意深くなったように思う。おおなかなかに良い話っぽい流れ。まあそんなふうにして身体は鍛えられ、精神は研ぎ澄まされる。終いには悟りを啓くか武道の達人になりそうな勢いだ。スティーブン・セガールだって倒せるかもしれない。セガールと言えば「沈黙の聖戦」だったかであまりに肉々しくおなりになっていたのに衝撃を受けた。ぼくはてっきりあれは CGで、怠惰と安逸を貪り肉々していたセガール(CG)が仲間の危機を前に心を入れ替え身体を鍛えなおしセガール(リアル)になり云々というストーリーを予想していたら最後まで肉セガ(CG)だった。アクションスターも大変だ。アクションスターと言えば珍しく見たい映画があって、「その男ヴァン・ダム」。タイトルは違うかもしれない大体こんな感じだったはず。久々に名作の予感がしている。どのくらいしているかと言うと、ぼくの予感って当たったことないんだよなと絶望するくらいにビシバシ予感がしている。とは言えいまは映画どころではなく仕事どころでさえなく、空腹なのです。朝ちょっとしんどいことがあって食べる時間がなくて、まあお昼に会社の自販機のカップラーメンでも食べれば良いやと思っていたら財布の中に五千円札一枚と一円玉六枚しかない。これでは何も買えないではないか。駅前にあったコンビには去年潰れた。先週買い置きしていたアップルティーと緑茶のペットボトルだけを希望に生きていこう。そう誓ったは良いけれどやはり空腹で、どうやら昨日の晩飯以降24時間何も食べずに過ごすことになりそうだ。けれどまだ新人だったころ、とあるメーカーの仕事を請け負ったときは辛かった。右も左も分からぬ状況でさあバグを直せバグを直せいま直せと言われ、36時間飲まず食わず眠らずで他人のプログラムを解析したことがあった。まあ飲まず食わず眠らずなんてどうということもないが、トイレにも行かなかったと言えば結構みなさん尊敬してくれるでしょうか。してくれませんね。だから世界でぼくだけがぼくを尊敬することします。俺凄い! 俺凄いけどこのブログひどい! けれどもぼくはかなりええかっこしいなところがあって、どうも最近ブログで格好つけているというか気取っているというかそんな気がする。そんなこんなで、そろそろ定時。たまにはこんな、自然体。ここまで読んでくれた人が誰も居ないことに賭けるけれど、その賭け金は、ここまで読んでくれた奇特なあなたに対する、惜しみない、愛。

我に囚われた我々に赦しはあるのか III

ここまで、ぼくらは罪と赦しについて、神を出発点として考えてきました。我を捨て神との合一に立ち帰るのか、それとも我に固執して存在しない神を告発し続けるのか。けれども、それはどちらも、結局のところ鏡に映った自分の姿に過ぎません。どちらが本質ということもなく、それは互いに向き合ったまま口を開き、音もなく何かを叫んでいるだけです。ぼくらの生きるこの日常は、そのような極限的な形を取るわけではないし、また取らなければならないわけでもない。

以前、ぼくがブログに書いた、神学を学んでいて気づいてしまった恐ろしいことというのは、実は恐ろしくも何ともない、極自然で、もしかしたら愛すべきでさえあることでした。ぼくは、存在しないにも関わらず、あるいはそれ故、ぼくから大切なものを奪った(わけですらない)存在しない神を憎んでいました。そうして、神を信じる人間もまた、ぼくにとってすれば敵でしかありませんでした。けれどその人々は存在しない神と違い、間違いなくそこに存在する。だから、ぼくは戦えるはずでした。自分の魂を懸けて、ぼくは戦いたかった。けれど神学を学ぶ過程で、各地の各教派の教会に行き、幾人もの信者やあるいは神学生たちと話す中で、ぼくは彼らの大半の心に神がいないことに気づきました。これはとても失礼な言い方かもしれません。あるいは極当然のことだと思われるかもしれません。けれども、ぼくは本当に怖かった。神を信じるという人々の中に神は存在せず、ただ、神に存在してほしいという願望があるだけだったのです。そして一方で、神を信じないという人々においてもそれは同様でした。神を信じると言う人も信じないと言う人も、つまるところその中身はまったく同じで、ただただ神に存在してほしいという思いしかなかったのです。それは神が存在すればという甘えであり、存在しないかもしれないという怯えでもあります。ぼくはそんな彼らを嫌悪し、そして恐怖しました。神への信仰も拒絶も、それは人間が人間としてぎりぎりの状況下で問われるものです。彼らは敵ですらなかった。ぼくは彼らのそのような弱さを心の底から恐怖しました。

彼らの救いは、そして赦しは、ではどこにあるのか。絶対的なものが存在する/しないからこそ、ぼくらは赦しを得る/得ないことができる。信じているのでも信じていないのでもない、ただ中途半端に神の愛に頼り、神の不在に怯えるのであれば、そこにはそもそも赦すことも赦さないことも存在し得ないのです。死という絶対性を前にしたとき、そこには一切の逃げ道がない。ぼくらがそれでもなおまっすぐに立ち続けるには、存在する神に合一するか存在しない神に憎しみを抱き続けるか、ふたつにひとつです。教会に行こうが洗礼を受けようが祈ろうが、あるいは神は存在しないと嘯こうが、その最後の瞬間に至ったとき、彼らは自分をごまかしどっちつかずの態度を取り続けてきたつけを払うことになる。圧倒的な、絶望的な恐怖に泣き叫んでも、そこには神も、それどころかあなた自身さえもいない。本当に神とともにある人間はあまりにも少なかった。その事実にぼくは最初怒り、そしてすぐに怯えました。そのような形で「神が居ない」とは、ぼくは思ってもいなかった。世界にはあまりにも救いがなかった。

強姦されAIDSにかかりまともな治療を受けることもなく病と餓えの中で汚物にまみれ死んでいく誰かさん、生まれて初めて目にしたきれいなものを手に取ったらそれが爆発して両手を失い失明した誰それさんを前にして、ぼくは語る言葉を持てない。だからこそぼくは、それでもなおかつ神の愛を語る狂信者が敵として必要だったし、敵として存在して欲しかった。だけれど、ぼくが目にしたのは、神に対する不信を必死に、自らにさえ隠しながら、このぼくに対して「あなたにもいつか神の愛が分かります」などとしたり顔で話す、惨めな人間だった。神の愛などと、ぼくは彼ら/彼女らに、軽々しく口にして欲しくはなかったのです。神の愛とは、そんな安易なものでは断じて、ない。

けれども、もしここまで読んでくださった方がいるとすれば同意してくださると思うのですが、明らかにこれはおかしな考え方です。おかしいだけではなく、ひどく倣岸ですし、浅薄です。ぼくはいったい、人間を何だと思っていたのか。人間を神にでも仕立て上げるつもりだったのか。そう、その通りです。ぼくはすべての人間に、神と並び立つ位置に居て欲しかった。けれども、人間は神ではない。神ではないからこそ、人間は人間なのです。だから素晴らしいということではまったくなく、価値判断すら超えて、人間は人間だし、人間でしか有り得ないし、そして人間で「良い」のです。ぼくは長い間それを受け入れることができませんでした。(もちろん、いまでもできているわけではないのですが)。

ぼくはそうとうに偏った人間です。自分のことになると笑ってばかりいるけれど、外に出たとたんに憂鬱になるようなつき合いにくい人間です。みんなが本当に幸せに生きているのか、笑ったまま死ねるのか、なぜか分かりませんが、それが気になって仕方がない。そして心の中に住んでいる決して語らない死者たちへの強迫観念に囚われています。それでも、そんなぼくにさえ、尊敬できる友人が、生者死者を問わず幾人かいます。そんな彼ら/彼女らを通して、少しずつ、分かってきたことがあります。あらかじめ申し上げますと、ぼくが数十年を要して理解し始めたことは、みなさんが普段の生活の中で当然のこととして感じられていることだと思います。ですから、あまり読む意味はないかもしれません。

日常生活における信仰というものを考えるとき、いつもぼくが思い起こすのは、銀河鉄道の夜(中でも第三次稿)なのです。ぼくはあまりカムパネルラが好きではない。誰かを救うために命を捨てるというのは、ぼくは容易なことだと思っています。しかしそれは自らにとって大切な者のためであればであって、ザネリを救うために、恐らくぼくであれば一切の危険を冒すことを拒否するでしょう。神の存在しない世界において、世界に対して圧倒的に無力であるぼくは、自分の限られた力を自分が選んだものに対してのみ向けざるを得ないし、そうやって極限まで力を一点へ収束させてさえ、ぼくはなおあまりに無力なままです。ぼくは選ばなければならないし、常にその覚悟を持っています。そういった意味では、ぼくは自分の死というものにさほど関心がありません。けれども、では愛する者のために死ねば良いのかと言えば、無論そんな馬鹿な話はありません。自分の命そのものに価値がないのであれば、当然、それを捨てたところで自分が愛する人に対しても何ら喜びを与え得るはずがない。そうではなく、むしろ生き抜くことにこそ意味がある。命など、死ねば消えるだけのものでしかない。けれど生きれば、ぼくらは常に、人間としての限界にさえ挑むことができる。だから愛する者のために死ぬなど、ナンセンスも良いところです。カムパネルラの決意はあまりに安易であり、選ぶということをしなかったという点において、ぼくから見れば冒涜的でさえある。もちろん、それがぼくにとって冒涜的であったとしても、それはカムパネルラが彼自身の信仰を持っていたが故のものです。そして同時に、カムパネルラが自らの信仰に従ってザネリを救い自らが死んだことを受け入れたとしても、彼が残してきた者たちに対して悲しみを感じなかったわけでもない。繰り返しますが、神との合一というのは何も考えないということではなく、何が起きても神の被造物としてそれを受け入れることにあります。悲しみ、苦しむかもしれませんが、それは不信仰ではない。それにも関わらず神にすべてを任せることが信仰です。

その上で、ぼくはやはりカムパネルラを認められない。カムパネルラの答えは、あまりに単純明快過ぎます。それを信仰だというのであれば、手を出せなかったカトウは、あるいはもしカムパネルラが居なかったとして、溺れて死ぬことになったであろうザネリは、そしてあるいは…要するにあの世界に生き残ったすべての人々にとっての救いとは、赦しとは何なのか。死んでいったすべての人々にとっての救いとは何だったのか。カムパネルラの生き方は、恐らく彼らに対する答えにならない。

だから、ぼくはジョバンニが好きなのです。特に第三次稿においてより明確にされているのは、ジョバンニの生活における救いのなさです。父の存在もカムパネルラとの交友もぼんやりとしか窺えません。母へ持ち帰る牛乳が最後まで手に入らないのは象徴的です。けれどそれでも、彼はこの世界に戻り、病気の母と不在の父が待つ暗い家へと帰っていく。明日から始まるのはこれまでと同じ日常であり、未来への希望はありません。それでも、では彼が惨めであり弱い人間であるかと言えば、そのようなことはない。それどころではない! 彼の人生において、すべてに答え得る万能の答えは存在しません。悩み、苦しみ、怯え、あるいは怒り、けれどそれに応答してくれる声はどこにもない。それでも、彼はその日常に自ら戻っていく。

「ああマジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのためにみんなのためにほんとうのほんとうの幸福をさがすぞ。」ジョバンニは唇を噛んでそのマジェランの星雲をのぞんで立ちました。そのいちばん幸福なそのひとのために!(『ポラーノの広場』、宮沢賢治、新潮文庫、p.324-325)

カムパネルラの死に比べて、ぼくはジョバンニの生にこそ、より尊い輝きを見るのです。

神を失っているぼくの強さは、要するに、論理だけで動くテロリストの強さであり、目的と手段を混同したテロリストの暴力であり、そして抑圧された他者を作り出す神装置としてのテロリストの愉悦です。そこにぼくらの生活はない。答えがあるというのは、要するに狂気によってこの世界を測るということです。

「おれは心ならずも指揮をとる。だが、けっして途中ではやめぬ。おれを信じろ、この戦いを勝つ機会が一つあれば、おれはかならず勝つ。[中略]しゃべるな。ゆけ。[中略]これから人間の支配がはじまるのだ。美しい門出だ。[中略]おれは屠殺者と死刑執行人になろう。[中略]心配するな。おれは途中で、まいりやせん。 それ以外に愛し方がないから、おれはあの連中をおびえさせるのだ。ほかに服従しようがないから、命令するのだ。このほかに、みんなとともにいるしか仕方がないから、おれは頭上のあのからっぽの天を相手に孤独にとどまるのだ。なすべきこの戦いがある。おれはやるつもりだ」(『悪魔と神』、サルトル、新潮文庫、p.248)

それはぼくの心を強く惹きつけます。けれど、ぼくは繰り返し、自分に言い聞かせなければならない。答えがないことは弱いことではない。愚かなことでもない。それこそが人間の在り方なのです。

「雄々しく堪え忍ばねばならぬ。ここが神よりお前たちのすぐれているところである。神は災難に堪えることの埒外にあるが、お前たちは災難に堪えることを乗り越えているからである」(『怒りについて 他一篇』、セネカ、岩波文庫、p.216)

まさにそうだと思うのです。ぼくらの生活には、答えなどない。あるとき神が現れてぼくらを赦してくれることもなければ、断罪してくれることもない。そんな安易な解決は、ぼくらには与えられていない。そして無論、ぼくらの方から神のところで出向いて跪くか唾を吐くか、そのような極端さもまた日常からはかけ離れたことでしょう。救いも赦しもない日々において、ぼくらは堪えるしかない。時折風や光に神を感じるかもしれないし、あまりにも堪え難くつらい出来事に神の不在を想うかもしれない。憎むかもしれないし、それでもなおかつ、なおかつ、愛さえあるかもしれない。ぼくらはそのすべてを堪え、受け入れ、またこの日を生きていきます。

前回引用した安部公房の書く物語が、多くの場合そのラストにおいて、ある種透明で開放された孤独感を帯びているのは示唆的です。神を失った世界で、ぼくらは最終的に、人間としてただ独りになる。それは神を得たとしても同じことだとぼくは思います。そうして、いまもうひとつ思い浮かべるのは、大江健三郎の『洪水は我が魂に及び』のラストにおいて発せられる「すべてよし!」という言葉です。それは静かだけれども、叩きつける水の只中にあってさえなお世界に響き渡り、過ちを犯し、怯え、疑い、諦め、それでもなおかつ生き/死んでいったすべての人間に対する肯定が込められています。それは(大江健三郎の物語がいかに宗教的な外衣をまとっていたとしても)信仰者の声ではなく、ましてテロリストの声でもなく、そこにあるのは疑いもなく人間の声なのです。そしてまたそれは、創世記における「神がその造られたすべてのものを御覧になると、見よ、非常によかった」(『創世記』, 関根正雄訳, 岩波文庫, p11)という言葉と美しい対比を見せています。神が創った世界の摂理を、ぼくらが知ることは永遠にない。それでも、その中でもがき苦しみ、這いつくばって死んでいくとき、ぼくらは死んでいったすべてのものと生き残るすべてのものとに対して、「すべてよし!」と叫ぶことさえできる! 答えがでないまま、それをそのまま受け入れる。いえそれどころか、答えが出ずに悩んだまま終わりを迎えることさえ受け入れる。それはぼくの思い描いていたものとは違うにしても、確かに神を超えた強さであり、また同時に、神を捨てていない強さでもあります。
我に囚われた我々に赦しはあるのか

そろそろこのお話も終わりに近づいてきました。今回のエントリーのタイトルは『我に囚われた我々に赦しはあるのか』でした。ぼくらは、信仰と不信仰、その極限の位置からそれを考え、そのどちらもが結局は同じであることを見てきました。人が人であることとは、そのような極限からではなく、むしろ日常の中でこそ考えるべきであるということに気づくまで、ぼくは長い長い時間を必要としました。赦しはあるのか? あるかもしれない。ないかもしれない。あるときぼくらは神を信じるかもしれない。またあるときは神を疑うかもしれない。死は恐れるべき何ものでもないように思えるかもしれないし、恐ろしさのあまり死にたくなるかもしれない。愛はあるかもしれないし、けれどそれは憎しみかもしれない。答えがでないまま、ぼくらは生きてきたし、きょうも生きているし、そして運さえ良ければ(あるいは悪ければ)明日も生きているかもしれない。良いとか悪いとか、正しいとか間違っているとか、そんなことをすべて超えて、それこそが人間であり、それがぼくらの持っているすべてなのだと、いま、ぼくはそう考えています。

これで、ぼくのお話はお終いです。当然ですが、ぼくはいまだに神を見ることはできないし、ぼくがぼくである限りにおいて、存在しない神を赦すことは決してありません。神についてどれだけ考えても、それはぼくを変えることにはなりません。鳥が飛ぶ姿を見て、ぼくらは流体力学を理解するかもしれない。けれども鳥は物理を理解するが故に飛んでいるわけではないし、ぼくらは物理を理解したからといって飛べるようになるわけではない。それでも、例えぼくに神が見えないとしても、人間を見ることはできます。そして人間は間違いなく、そこに居ます。人間を見なければならない。存在しない神だけを見つめ続けてきたこのぼくに、そもそも人間の赦しを語る資格などなかったのです。

けれども、希望はあります。最後にひとつだけ、ルターについて触れてみましょう。ぼくはあの頑固そうな顔が大嫌いなのですが、それでも、信仰の極北へ至った人間の一人として、彼がどのようにそこを突き抜け人々との関わりに戻ってきたのかを追ってみるのは、決して無駄ではないはずです。

ルターについて学んでいく上で最も疑問に感じるのは、修道院時代における前期ルターの内省的性格と、宗教改革運動に身を投じた後期ルターの異常なまでに活発な行動力との間にある、大きな差異についてです。前期ルターは厳しい修道僧としての戒律を守りつつ、それでもなおかつ、どうしようもなく罪深い自分の存在に苦悩し、懺悔の日々を過ごしていました。しかしやがて自らが宗教改革の大きなうねりの中心となってしまったとき、ルターは突然変貌を遂げます。彼は各地を転々としながらも膨大な手紙を書き幾冊もの重要な書を著して宗教改革を強力に牽引し、しかも聖書の独語訳まで成し遂げてしまうのです。その変貌の原因はどこにあったのでしょう。

『キリスト者の自由』においてルターは、旧約(律法)によって定められた戒律は、人間には絶対に実行不可能なものである、と言います。それは人々に、自らの救い難い罪深さを認識させるために存在するに過ぎません。しかし、その認識によって自己を砕かれ謙虚になったとき、神からの呼びかけとしての新約が与えられ、人は救われるのです。当時の一般的な理解によれば、人は善行を積むことによって救いへと導かれるとされていました。従ってその前提として、当然律法を守ることが人間には可能であるとされていたのです。しかし、これは信仰理解に歪みを与えてしまいました。つまり、人々が善行を「貯蓄」し、それと交換に神から「救い」を得るという、ある種の取引的な観念を与えてしまったのです。取引である以上、人は自分を神と対等の存在として考えてしまいます。「これだけの善行をあなた(神)に渡すのだから、あなたには私を救う義務がある」というわけです。そして、いったん善行(あるいは悪行)や救済が商品として捉えられてしまったなら、教会や民衆の間でさえ、それは取引の対象となってしまうでしょう。これが贖宥符などを生み出す原因となりました。

しかし、もしルターの言うように、人間には律法を守ることが絶対に不可能であるならば、十戒の第一戒である「あなたはただひとりの神を崇むべきである」ということすら人には守れないことになってしまいます。神を信じることなしに、いったいどこに救いを求めれば良いのでしょうか。これに対してルターはこう答えます。「呪われるべきわたしにさえも、純粋な憐れみから、キリストを通し全き富を与えたもうた」。つまり、信仰によって人は救われるのであると同時に、しかしその信仰さえも揺らいでいるような罪深い自分に対して、救いが一方的に神から与えられ、それ故に人は神を信仰せざるを得ないのだ、と彼は言うのです。

こうして考えてみると、後期ルターの異常な活動力の原因が分ってきます。自らの罪深さにおののきつつ必死に救済を求めていたときのルターは、他人のことなど考える余裕がなかったのではなく、むしろ恐れていたのではないでしょうか。戒律によって縛られていたルターにとって、その関わりは当然、善行として現れなければなりません。しかし、罪深い者としての自分がその善行故に神に救われるのだという誤謬を犯す可能性があることに、鋭敏なルターは気づいていたはずです。けれど、あるとき神の救いが一方的に与えられているのを知ったとき(それはまさに啓示です)、彼の善行は突然、全くの自由に解放されます。既に神によって救われてしまったルターにとって、善行は、もはや神との取り引きに使われる商品にはなりようがない。彼は完全な自由のもと、好きなだけ人と関わり、キリスト教徒として人に善き行いをすることが可能になったのです。

無論、ぼくはルターとは違い、神の赦しなど糞食らえと思う人間です。それでも、信仰者の鏡像としてのぼくにもまた、他者と関わる可能性が必ずあります。誰よりも「人間」であることに懸け、「人間」であることに誇りを持っていたサン・テグジュペリはこう言っています。

「努めなければならないのは、自分を完成することだ。試みなければならないのは、山野のあいだに、ぽつりぽつりと光っているあのともしびたちと、心を通じあうことだ」(『人間の土地』、サン・テグジュペリ、堀口大學訳、p.6)

混乱と錯誤に満ちた文章だったかもしれませんが、これがいまの時点における、ぼくの結論です。まずは人間を見ること。そして共に在ること。その先に、きっとぼくら人間の、救いと赦しが見えてくるはずです。

ここまで読んでくださった方に、心からのお礼を。どうもありがとう。

我に囚われた我々に赦しはあるのか II

前回、我の極北まで突き進み神を告発し、なおかつその我を投げ捨て神へと回帰したヨブを通して、人間の原罪の起源や信仰について考えてみました。今回は、ではそのような信仰を持てない、あるいは持たない者にとっての罪と救いについて考えてみたいと思います。

さて、けれどそもそも、神を持たない人間にとっての罪とはいかなるものなのでしょうか。当然、ここで言っている罪とは法的な罪のことではありません。信仰を持った人にとっての原罪(すなわち神からの離反)に相当するような罪を指しています。

以前にも少し書いたことがありますが、ぼくはある時期、神学を学ぶために会社を辞め、大学に入り直しました。何しろぼくは徹底した無神論者ですし、それを公言していましたから、神学を学ぶその場に馴染んでいたとは到底言えなかったと思います。それでも幾人かの先生方には非常に良くしていただき、神学を学ぶことによってぼくの中で何かが変わったということはなかったかもしれませんが、けれどその四年間を後悔することがないのは、そういった素晴らしい人たちと出会えたということがあるからだと思っています。

中でもぼくが尊敬していたのは、長く牧師をしていた経験のある先生でした。穏やかだけれども、信仰と、そして人間が人間であるということについては極めて厳しく、ぼくのような神を見ることのまったくできない人間においてさえ、(これは信仰のある人々に失礼な表現だとは思いますが)確かに人はその魂に神を持ち得るのだということを確信させるような方でした。講義は無論のこと、個人的にも何度かお宅にお伺いし、いろいろなお話をすることができました。今回はそうしたお話の中で、特に印象深かったことを手がかりにして、罪と赦しについて考えてみようと思います。

内村鑑三は『余は如何にして基督教徒となりし也』で、この宇宙の神秘を前にしたとき、それをただの偶然と見なすことはできない、そこに神を見ざるを得ないと書いていた、ような気がします。実はぼくは内村鑑三が嫌いでして、いま改めて『余は~』をぱらぱらと捲ってみたのですが、これとても改めて読む気力が沸きません。ですからあやふやなまま話を進めます。いやあやふやでも話の大筋には影響しないのでご安心下さい。

あるとき、それが先生とお会いした最後でしたが、何の話題からそうなったのか、「けれどきみとて、この宇宙の神秘については感じざるを得ないだろう?」と先生が仰いました。それはもう夕暮れ時で、先生のお宅からお暇する直前だっとことは、はっきり覚えています。そのとき、ぼくらは互いに、はっきりと互いの間に横たわる深い断絶を理解したと思うのです。

ぼくのような神を信じない人間にとっても、あるいはいかにこの世界に人間の理解を超えた不幸があったとしても、それでもぼくらは、この宇宙を前にしたとき、その圧倒的な謎に、人間の限界を感じざるを得ない。その謎が厳然としてぼくらの眼前に存在することから、神を感じざるを得ない。無論、理屈としてはそれは分かるのです。それはまさにヨブが通った道でしょう。けれどもぼくは、宇宙の謎や神秘になど、実はほとんど興味がないのです。いや、興味がないわけではない。とても面白いとは思います。けれども、それは単にこの「ぼく」にとって面白いに過ぎない。この「ぼく」にとって謎であるに過ぎない。ぼくが神に問いたいのは、そんなことではないのです。

これはちょっと伝わるかどうか分からないのですが、常に、ぼくを悩まし、激怒させていることがあります。良く見る光景ですが、夏になると、ミミズが焼けたアスファルトの上で悶え苦しんでいます。もし、お前にとって神とは何かと訊かれたら、ぼくはその光景こそがぼくにとっての神の在り方だと応えるでしょう。それはまさに神の不在の象徴なのです。

当然ですが、ぼくは無数の犠牲(というよりむしろ収奪)の上に自らの生が成り立っていることを知っています。だから単にミミズの苦しみに同情をしているとか、そういったことを言っているわけではありません。ぼくは偽善も偽悪も心の底から嫌悪します。ぼくらの生が罪深いのは当たり前のことです。ことさらそれをあげつらうことに意味はない。ぼくが言いたいのは、そこには、つまり焼けたアスファルトの上でのたうち回って死んでいくミミズの姿には、二重の意味で絶対的に説明不可能な苦しみがあるということです。二重の意味とは、すなわち説明不可能性と他者性です。

ぼくらの生が罪に塗れていようがどうであろうが、そんなものは所詮主体の問題に過ぎない。ヨブもぼくも、既に答を得てしまった人間です。ヨブは答など必要ないと答え、ぼくは答などないと答えるでしょう。それはつまるところ、どちらも究極的にある個人の魂の物語であって、要するに信仰でしかありません。どちらも、それを他者に強要するとき(実際の行動として強要しなくとも、そのようにして世界を捉えるということ自体が既に強要だとぼくは思います)、暴力として現れます。しかしその上で、ヨブは神を通して世界を見るが故に、一匹のミミズの死に対して暴力的に答えることが可能です(言うまでもなく、これはヨブが他者の苦しみに対して共感しないとか同情しないとか悲しみを感じないということを意味しているのではまったくありません)。一方ぼくは、神を認めないが故に、一匹のミミズの死に対して答えない、答えられない、答えられないことだけが真理であるという暴力をふるうことになります。

ちょっと話がずれていると思われるかもしれません。そもそも神を信じない人間にとっての罪と赦しとは何か、を話しているはずなのに、どうして他者の問題が出てくるのか。例えばヨブ記であれば、作者にとって突然家が崩れて死んでしまうヨブの子供たちのことなど、はなから眼中にないですよね。問題はあくまでヨブ個人の苦しみでしかない。ただ、そういった意味でいうと、ぼくは自分自身のことで悩んだり苦しんだりということはほとんどないのです。もちろん肉体的な苦痛とか、まあ人並みの悩みはあるのかもしれないけれど、そういったことにはあまり関心がない。ひとつ例を挙げると、ぼくはちょっと常軌を逸して自信過剰な面がありまして、いままで生きてきて試験に落ちたり就職活動(ほとんどやっていませんが)に失敗したりもするわけです。けれどもそのようなときでも、心の中ではぼくを落とした企業や大学の担当者に向かって「俺を落として後悔するのはお前だ。自分の過ちを悔いながら泥に塗れて這いつくばって死ね」と、負け惜しみではなくかなり本気で思うほどに自信過剰なのです。そうしてまた極端に楽天的だし、ささやかなことで幸福を感じるし、自分の生に対して徹底的に肯定的です。道を歩いていて風を感じてお日様が暖かくて、そんな一瞬があっただけで俺の人生はもう完璧だ、と、そんなふうに思って生きています。だから悩みとか苦しみとか不安とか後悔とかがあんまりない。あくまで自分自身に対しては。

けれども、だからこそ、ぼくは他人の人生が怖い。ぼくの生に対する喜びというものが、自分の異常性(もちろんぼくはかなりの常識人だと思っていますが)に根ざしたものであることを知っているから、そういった異常性を持たない他の人々がどうやって生きているのか、その苦しみや悲しみ、悩みや不安と戦っているのか、そもそも戦い得るのか、それが分からない。本当に分からないのです。だから、とても怖い。そこに救いはあるのか。本当にみんな幸福に生きているのか。あるいは幸福になれる可能性はあるのか。

いやはや、非常に高慢で倣岸で他者に対する侮蔑に満ちた考え方ですね。ここには根本的に、他者を自分より劣ったものだとする思想が露骨に現れています。それはその通りだと思います。ですから、こういった考え方からいかに脱却するか、それは要するに他者に対する信頼をいかに持つかということなのでしょうが、それがぼくにとって非常に重要なことになってきます。ですが、それはまた次回触れることにして、ここでは、あくまでそういった偏った考え方をする人間がいるとして、その位置から何が見えるのかをもう少し追ってみましょう。

神というのは要するに、原理的に不条理であるこの世界と、その不条理に耐えるほど強くない人間との仲立ちをしてくれるものだとぼくは思っています。その不条理さに、それでも/それ故神を見出すのか、あるいはすべてを偶然だと捉えるのか。そしてぼくは偶然だと捉えます。あらゆる存在がこうむってきたすべての苦痛に、必然的な理由などない。もちろん、死後の世界など(ぼくにとっては)存在しませんから、その無数の苦痛は取り返しのつかないものとしてぼくらの前に突きつけられることになります。

神を信じないぼくにって、終末論的証明など糞の戯言に過ぎません。そして死を見ることのできないぼくにとって、死に対して他者の抱く恐怖は理解できず、それ故それを共有して共に苦しむこともできません。ですから、苦しみ恐怖しながら死んでいったすべての人々が、絶対的に救いのないものとしてぼくに迫ってきます。その死を無駄にしないとか、何でも良いのですがそういった理由づけは、繰り返しますが生者の言葉であって、死者の言葉ではない。あらゆる死は究極的に個人的な体験であり、それを前にして語られるいかなる言葉も高慢であり暴力です。あるひとつの苦痛は、絶対に消えることのない、赦されざる罪なのです。安部公房は『死に急ぐ鯨たち』の中でインタヴュアーのある質問に対してこう答えています。

「そこで救いとして宗教を持ち出したら、途端に死ぬやつは生き延びるやつを許さなきゃいけなくなってくる。[中略]神を試すなかれですよ。おまえが選ばれないからといって、嘆いてはいけない、これも神の試練なのだと言われれば、もうどうしようもないじゃないか(笑)」(『死に急ぐ鯨たち』安部公房、新潮文庫、p.111-112)

ぼくも、そう思うのです。

しばしば、礼拝において聞く話に、「いかにして神の救いが私に与えられたか」というものがあります。悩み、恐れ、苦しんでいたとき、神の愛によって救われたと彼ら/彼女らは言います。ぼくはそのような人々を見るたびに激怒しました。では彼らは、救われなかった無数の人々に対して同じように語れるのか。彼らの取り返しのつかない恐怖を前にして、それでも薄ぼんやりとした笑みを浮かべて神の愛について語れるのか。自分には救われる価値があったがお前にはなかったと言うのか、それとも苦しんで死んだお前にも救いがあったと言うのか。どちらにせよそれは暴力です。もちろん、この批判はまったく裏返しのものとしてぼく自身に跳ね返ってきます。ぼくはどのような権利を持って、ある救いのない人間が存在したと断言できるのか。その人間の魂が救われなかったと、いかなる立場からぼくは断じることができるのか。彼らが神の愛によって暴力を振るうと言うのであれば、同じようにこのぼくも、存在しない神に対する怒りによって暴力を振るっている。

その先生の言葉でぼくが深く共感したことがあります。まだ若かったころ、彼が事故に巻き込まれ、九死に一生を得たことがあったそうです。そのとき彼はどうしてもやらなければならないある仕事を抱えていて、瞬間、神に祈ったと言います。どうかまだ、いまは死なせないでください、と。そうして彼は、奇跡的に助かりました。だけれども、先生は仰いました。そこに理由をつけること、すなわち自分に救われる価値があったとか、自分のやらなければならない仕事に価値があったとか、そういうふうに考えるのは間違っている。神の恩寵というのは、それぞれの人の、それぞれの一瞬一瞬においてさまざまな形で一回限りのものとして現れるのであって、それは人間にははかり知れないものだ。だから人は、与えられたすべての毎瞬を全力で生き抜かなければならない。そこにあるのは、神に代わって世界を説明しようとする高慢さではなく、神に与えられたものを(それが苦しみであれ喜びであれ)ただ平らかに受け入れる、神に対する純粋な信頼です。

あるとき、世界のどこかで、誰かさんが苦痛にのたうち回って死んだとする。何故か、と訊かれると困るのですが、ぼくはどうしてもそれに対して答える義務を感じるのです。そしてぼくは、そこに回答の絶対的な欠落を見てしまう。意味づけることの暴力に対して、病的な怒りを感じるのです。無論、繰り返しますが、他者の苦痛に対して意味づけができないとするぼくの態度もまた、ひどく暴力的なものです。おそらくそこには、ぼくが人間というものを徹底的に独りであるものとして考えているということが反映されています。それはたぶん間違っていて、普通の人であれば誰もが自然に理解しているのでしょうが、人間は独りではない。けれどもぼくは、どうも器質的にそれが理解できないらしい。

そんなぼくにとって、ですから神というものは究極の暴力として顕現することになります。しかもそれは存在しない神ですから、その暴力に対抗しようとするあらゆる努力は、どこにも焦点を結ぶことができない。永遠に遠ざかりつづける敵を殺すための矢を射るためには、つまるところ永遠に弓を構え続けるしかない。絶対的に神を認めないとするとき、ぼくらは、すべてを神で説明しようとするのと(鏡像的な意味で)まったく同じ暴力によって他者を蹂躙することになります。そしてそれを純粋に個人の内面から捉えるのであれば、このように言うこともできるでしょう。すなわち、信仰とは神を赦すことによって自らが赦されることであり、非‐信仰とは存在しない神を赦さないことによって自らを赦さないことである、と。

結局のところ、これはぼくにとっての信仰の物語でしかありません。ぼくの世界には、徹底的に他者が存在しない。他者が存在しない限りにおいて、ぼくの信仰は極めて強力です。神の見えないぼくにとって、存在しない神に対する憎しみは真理としてあり続けます。けれども、同時に、ぼくはこうも言わなくてはなりません。ここに書いてきたことはすべて嘘である、と。信仰とは、決して論理的に導かれるものではない。そしてここに書かれたことは、あまりにも論理的に過ぎるのです。ぼくの存在しない神に対する怒りというものが、存在しないが故に神を素通りして自分に跳ね返り、そしてぼくはその赦されないということによってぼくという存在を成立させている。赦されないというその一点のみにおいて、ぼくはぼくたり得る。そして当然、それは自己矛盾であり、やがては破綻するだろうと思うのです。

ヨブは神との合一により「我」を捨て、その魂は不壊のものとなりました。ぼくは神との離反によって「我」に固執し、それ故必ず崩壊することになります。どちらも、結局、同じことです。そうして、どちらも、他者との関係を究極的には放棄しています。ぼくはそう感じています。

けれど、ぼくらはこの世界で独りで生きているわけではない。そしてぼくらは、誰もが「我」を捨てられるわけではないし、「我」だけを武器に神と戦おうとするほど病的なわけでもない。神はいるかもしれないし、いないかもしれない。世界は美しいかもしれないし、醜いかもしれない。

という訳で、次回はようやく最終回です。ぼくらにとっての罪とは、そして赦しとは何なのか。それは、いままで語ってきたような極端な形の中に在るようなものでは決してないはずです。ぼくらが生きる日常において、ではそれはいったいどのような形で現れてくるのか。答えは恐らく出せませんが、長く深い憎しみを経て、最近ほんの少しだけ、見えてきたものがあります。それはみなさんが聞いたら、恐らく驚き呆れるような単純なお話ですが、たぶん、真理なんていうものは、そこら辺に転がっているありきたりなものなのだと思うのです。

我に囚われた我々に赦しはあるのか I

原罪とは何か、ということを考えるとき、当然ですが創世記を読み直す必要が出てきます。けれど旧約聖書が成立する過程というのは極めて複雑ですから、ただロジカルに読むだけであれば、そこには多くの矛盾が生じます。けれども、それを単に無意味な論理的破綻と捉えるべきではない、とぼくは思います。いまぼくらの眼前にある聖書を前にして、そこから何かを読み取るということは、決して無駄ではない。いやこれはクリスチャンの方からすれば極当然のことだとは思うのですが、ぼくのように徹底して無信仰な人間からすると、どうしても本文批評して分析してばらばらに解体してラベルを貼って、ということをしがちになる。もちろんヴェルハウゼンだってフォン・ラートだってグンケルだってノートだって、みんな立派な信仰者だったでしょう。けれどもぼくの場合、そこに神のいない分析になってしまう。それはやはり自分自身に対して批判的にならざるを得ない。聖書というのは、そういうものではない。ただ、ぼくはやはり信仰というものを持つことはできないし、ぼくにとっての信仰とは、人間が手を羽ばたいて空を飛べないように、要するに原理的に不可能なことです。そしてその上で、無神論者である自分を認めた上で、それでもなおかつ(あるいはだからこそ)、信仰とは何かということを考えなければならないとも思うのです。そうして、キリスト教の本質が救済史にあるとするのであれば、ぼくらはまず原罪から、すなわち創世記から始めなければならない。そしてもしできるのであれば、この数回のブログを通して、どうしても信仰を持つことのできない「我の化物」としての自分にとっての救いとはどこにあるのか、それを考えてみたいと思うのです。

これは極めて個人的なお話になります。聖書を本文批評的に読むわけではありませんし、かと言って純粋に信仰を持って読むわけでもない。ですから、信仰のある方にもない方にも、等しく失礼なところがあるかとも思います。けれど、ぼくは決して信仰も理性も(それらが対立するものかどうかはまた議論があるでしょうが)馬鹿にするつもりはありません。どちらに対しても最大限の敬意を払いたいと願っています。その上で、要するにどこかの誰かさんが、神と、どうしても我を捨てられない自己との間でこんなふうに考えている、考えながら生きてきたという、単にひとつの記録であると思っていただければ幸いです。と言ってもそんなに長くはありません。極々シンプルなお話です。

疑問

創世記は、恐らく聖書の中でも最も知られているもののひとつでしょう。神が世界を、そしてアダムとイヴを創り、エデンの園に彼らを置く。けれど彼らは神の禁令を破り善悪の智慧の木の実を食べ、楽園から追放される。ぼくはこの物語(と言っても良いのであれば)を初めて読んだとき、幾つかの疑問を覚えました。何故、善悪の知恵の木の実を食べると死ななければならないのか。何故、善悪の知恵の木の実を食べたことにより人は裸を恥じるようになったのか。何故、人は先に善悪の知恵の木の実を食べたのか。先に生命の木の実を食べたらどうなったか。何故、蛇なのか。そして何故、男ではなく女を誘惑したのか。

生命の木の実を食べると永遠に生きられる(3:22)とすると、善悪の知恵の木の実を食べる前の人間は死すべき存在だということにならないでしょうか。そうでなければ、生命の木の実は楽園に存在する積極的意義を失います。けれどだとすれば、善悪の知恵の木の実を食べれば死ぬことになるという神の警告は意味をなしません。そもそも人は死すべき存在だったのですから。

知恵

そこでまず、善悪の知恵の木の実によって得られる「知恵」とは何かを考えてみましょう。それは自分が裸であることを知るだけのものではないはずですが、しかし人が神のように全知になれた訳でもありません。つまり、蛇の言う「神のように善悪を知るもの」(3:5)を字義通り捉えるだけでは、この箇所は意味が分からなくなってしまうのです。そもそも裸でいることは悪だったでしょうか。けれども、確かに蛇は嘘をついていません。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった」(3:22)と神自身が言っているからです。では、「善悪を知る」とはどういうことなのでしょうか。

「知る」の原語はハ・ダースであり、これはヤーダーの[冠詞+]分詞形です。この動詞には「知る」以外にも、「認識する」「選ぶ」「経験する」「洞察する」「判断する」など、様々な意味があります。しかしこれらの動作に共通するのは、それが主体的な行為である、という点です。したがって、善悪の知恵の木の実を食べよという蛇の誘惑は、「自らの判断によって善悪を決め、それを選び取れ」という誘惑、つまり「我」の獲得を指すものだったのではないでしょうか(あるいは主体や自我と言っても良いですが、やはりぼくは己が己であるということに対するある種の妄執を表すものとしての「我」という表現がしっくりくるのです)。

ここで注意すべきは、人は善悪の知恵の木の実を食べた時点で「我」を得たのではない、ということです。人が蛇の言葉によって木を見たとき、人はすでに自らの判断を神の判断よりも優先し始めています。これこそが「我」であり、従って、仮に人がこのとき木の実を食べることを拒否したとしても、それは自分の判断による拒否でしかなく、すでに神からの乖離は起きてしまっているのです。すると、善悪の知恵の木の実の持つ積極的な意義が失われることになってしまいますが、これは善悪の知恵の木の実と蛇とをあわせて考えることで理解できるかもしれません。これについてはあとでまた触れます。

人が神と共にあったとき、死は生の自然なサイクルの一部に過ぎませんでした。「我」のない人間にとって、死は怖れるべき何ものでもありません。しかし、「我」を得たことにより、人は、自らが失われる時の必ず来ることを知ってしまいました。神の言っていた「必ず死ぬ」という警告の意味することは、まさにこのことなのではないでしょうか。死は、「我」が永遠に失われてしまうことであり、それを認識するものこそが「我」なのです。だからこそ、人は死を恐れざるを得ません。

生命の木が禁令の対象とならなかったのは、人が「我」を持つ存在ではなかったとき、生命の木の実によって不死を獲得するのが、人の中にあった神の「霊」(6:7)だからです。神の霊はそもそも不死であり、従って禁じる必要がありません。けれど人が「我」を得たとき、人を人たらしめるのは神の霊ではなくまさに「我」となり、不死性を獲得するのもこの「我」であることになってしまいます。神が「今は、手を伸ばして生命の木から取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある」(3:22)というのは、まさにこの「我」、神よりも己を上に置く意識が、今度は自ら手を伸ばし、永遠の存在となろうとすることに対する拒否の表明なのです。

蛇とは何でしょうか。古代オリエントの世界において、蛇とは生命、あるいは生殖の象徴でした。しかし、これは旧約の信仰からすれば、あくまで異教的な概念に過ぎません。蛇と永遠の生命という、旧約と同じモチーフとテーマを持っているギルガメシュ叙事詩について少し見てみましょう。

ギルガメシュ叙事詩は、シュメール人に起源を発すると言われています。彼らは楔形文字により、多くの神話や文学作品を残しました。ギルガメシュ叙事詩はその後の歴史の変遷の中で大きな変容を受け、様々な版が残されていますが、完全な形では現存していません。けれども残された幾つかの異本の断片から、オリジナルが推定されています。ギルガメシュ叙事詩では、特に大洪水の物語が、ノアの洪水 (6:9~9:19)との類似によって注目されています。

多くの神話と同様、ギルガメシュ叙事詩においても、永遠の生命の探求が中心的なテーマとなっています。ギルガメシュは不死を求め、洪水を生き延びた伝説の王ウトナピシュティムに会いに行きます。そこで永遠の若さを与えてくれる植物の存在を知ったギルガメシュは、遂にその入手に成功します。しかしちょっとした隙に、彼はそれを蛇に食べられてしまい、不死の獲得に失敗してしまうのです(蛇は脱皮という生態によって、不死の象徴とされていました)。

創世記において、永遠の生命は前面には現れません。これは、ギルガメシュが求めたのが、あくまで自己の肉体的な不死、つまり「我」の永続性であったのに対し、旧約における不死性(あるいは永遠性)は、ただ神との合一の中にしか求め得ないものだからです。したがって、神を離れて「我」を得るということは、旧約においてはまさに本当の死をもたらすものに転じてしまうのです。

こういった、「我」の生を肯定する異教の象徴として、蛇が登場します。蛇の賢さは、このことを示しています。つまり、蛇もまた(他の被造物とは明らかに異なり)「我」を持つ存在なのです。だからこそ、蛇は自らの死を恐れ、そして神の庇護下にあって自然な生を生きる人を憎悪するのです。それが蛇の人を誘惑した動機であり、だからこそ、すべてが神に露見したときも、蛇は神の前で沈黙を守るのです。なぜなら、彼は(あくまで彼の次元においてはですが)既に勝利しているからです。「生」を犯すという目的を達した彼に、もはや弁解する必要はありません。

このとき、蛇と善悪の知恵の木とは不可分な存在です。人は蛇に誘惑されなければ善悪の知恵の木の実を食べなかったでしょうが、しかし蛇だけでは人を誘惑することはできません。これらは表面的には二つの存在ですが、本質的には旧約の信仰に対立する「我」の、異なった表出に過ぎないのです。

蛇の存在をこのように考えると、なぜ蛇が女を誘惑したのかが明確になります。これは、旧来主張されてきたような、女の罪に対する弱さを表すものなのではまったくなく(キリスト教史的にはそのような読み方がされてきたという歴史が確かにあるのですが)、女によって表象される「生」(すなわち性と死の自然なサイクル)と、蛇によって表象される「死」(「我」の発生とその消滅)の戦いの物語なのです(ただ、女性をここでの読みのように捉えるということ自体、実はフェミニズム的にはどうかと感じる面もあるのですが)。人の弱さは、むしろ神に対する弁解として、男女共通のものとして描かれています(3:12以下)。ここでは、子を産む力を持たない男は、初めから蛇の眼中にありません。つまり、「お前は、苦しんで子を産む」(3:15)とは、「死」と戦って敗れた「生」が、その手段としての性の中に「死」を内包させてしまったことを指しています。

善悪の知恵の実を食べることにより、人は互いに裸を恥じ(3:7)、そして神を恐れて身を隠すことになります(3:8)。これは一見知恵とは何の関係もないように思えますが、「生」と「死」の戦い、という観点から考えると理解ができます。

初め、性は「生」に与えられた自然な手段でした。しかし「我」の獲得によって「死」が別の意味を持ってしまったように、性もまたその意味を変えてしまいます。生殖は、「我」が失われることに対する不毛な足掻きでしかなくなり、そして性行為は、死の恐怖を紛らわすための逃避でしかなくなるのです。人はそれを理解しているからこそ、互いに「性」(の象徴としての性器)を神の前に恥じるようになります。

「我」を持ち、神から離反してしまった人は、もはや自然のままの姿では神の前に立つことができません。裸を恥じるようになるとは、すなわち神によって与えられた姿を恥じるということです。だからこそ、人はそのように考えるようになってしまった自己に対し、神の怒りが下るのではないかと恐れます。これ以降、人はもはや複雑に規定された儀式、儀装を通してしか神と関わることが出来なくなってしまいます。

必然としての神からの離反と回帰/イニシエーションとしての原罪

神から離反してしまった以上、人はもはや神の庇護下に生きることはできません。人は糧を得るために苦闘しなければならなくなり、生は苦しみに満ちたものとなります。

けれども、人は、旅立たなければならない。「我」を得た人は、もはや神と合一することはできません。しかし、逆説的に言えば、ここからこそ、初めて信仰が始まるのです。人は、信仰を持つために、まず神から離れなければならない。徹底的に「我」に囚われ、そこから離れられない人間が、その「我」を捨て去ること、その不可能性にすべてを賭けることこそが、信仰なのではないでしょうか。ぼくはここで、ヨブ記を想起せざるを得ないのです(ヨブ記についても本文批評的には複雑な背景がありますが、ここでも同じように、いまぼくらの前にある聖書を読む、という形でこの物語を読もうと思います)。

神に厳格に従っていたヨブは、我が身に激しい苦難が与えられたとき、その理由を理解できず、神の義しさを疑うようになります。応報思想に立つ三人の友人は、ヨブが何らかの罪を犯したからこそ、この悲惨な境遇に陥ったのだとし、ヨブに悔い改めを迫ります。無論、ヨブとて自分が全く何も罪を犯していないと考えるわけではありませんが、しかしこれほどの苦難を受けなければならないような罪は絶対に犯していないとし、友人たちに断固として抵抗します。最後には神に対してさえ自己の潔白を主張し、神に挑むことになります。

ここで主題となっていることは、序における敵対者の言葉、「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか」(ヨブ記1:9)に現れています。人は神の故に神を信ずるのではなく、自己の利益のために神を信ずる、という人間中心主義がそこにはあります。応報思想では、これを乗り越えることができないのは明白です。ヨブもまた、応報思想を前提とはしています。しかしヨブが神に対して自らの義さを叫ぶとき、そこには応報思想を超えた、異様なまでに気高い人間の姿が浮かび上がってきます。けれどこのときヨブは同時に、自らの義を主張すればするほど神から自己を遠ざけることになってしまうのに気づかざるを得ません。

これに対し、遂にヨブの前に現れた神は、世界創造の時いったいお前は何処にいたのか、とヨブに問い返します。これは、端的に言えば、お前は神なのか、という問いに等しいでしょう。いつの間にか自分を世界の中心に置き、神さえ批判の対象としていたヨブは、ここにおいて世界の中心から追われ、口を噤まざるを得ません。しかし神は、「天の下にあるすべてのものはわたしのものだ」(ヨブ記41:3)という言葉によって世界全体を肯定し、ヨブをも被造物として受け入れます。ヨブは自己の不信を悔い、そして神の全能を讃えるのです。

神から離反した人の罪の歴史、すなわち原罪史は、人間としての限界までにその「我」を高め、けれどなおかつその「我」を捨てさり神に回帰したヨブにおいて、完結します。

ここまでたどり着いて、ようやくぼくは断言できます。エデンの園に善悪の知恵の木が存在したのは、神にとっての必然ではなく、人にとっての必然であったのです。創世記からヨブ記を通してぼくらが見てきた物語とは、すなわち人が無自覚な信仰から自覚された離反を通り、やがて真の信仰へ至るためのイニシエーションの物語であり、その意味においてまさに、これは人類の原初史なのです。

さて、けれども、その上でぼくはやはりどうしようもなく「我」に囚われていますし、ヨブの姿に胸を打たれるとしても、ぼくはぼくなりの形で、信仰というものを常に切り捨てて生きていかなければならない。そう感じています。そこで次回は、このどうしようもなく己に固執した「我の化物」である自分にとって赦しとは何か、そして救いはどこにあるのかについて考えてみたいと思います。

それでは、また。

床に残る記憶

学園祭の時期ですね。いやもう終わったか。まあいいや。いま、ぼくは勉強することが好きでして、またとても楽しいとも感じています。それは自分が生きるということと自分の研究テーマが、極めて強く結びついている、結びついてあるようになったからだと思います。呼吸をするように研究テーマを考えることができるようになって、だいぶいろいろと楽になった気がするのです。最初の大学では情報科学というものを形ばかり専攻していましたが、このときは辛かった。周りの連中は、確かに優秀なのもいる。けれどではいったい彼らが何のために勉強しているのか、それが全然見えてこない。単なるマニアにしか見えないのです。そういう自分も結局は同じで、知識を自分の生にとっての武器にできていなかった。自分の魂を表現するものとしての学問を持てていなかった。だから中退したのはある種当然の結果であって、まあ適当にやって卒業して、良い企業に就職してさっさと結婚していまごろ役職についていて、もしかしたら子供もいて、そういう人生もあったかもしれませんし、それを否定しようとも思わないのですが、けれどやはりぼくはいまの人生を送らざるを得なかったし、それがぼくの在り方なのだなあといまは思っています。もちろんそれは現状肯定ということではなく、いまのぼくの生活には深刻な問題が多々ありますし、それには立ち向かっていかなければならないけれども。

何の話でしたっけ……。そうそう、学園祭です。だからいま、ぼくは学園祭というものにあまり関心がない。まあ当たり前でして、三十過ぎの男が「学園祭だーいすき☆」とか言っていたらそれはそれでちょっとやばい。けれども昔はぼくも学園祭が好きでした。学園祭そのものというより、そこでぼくらは人形劇を公演するのですが、それが楽しかったのですね。

先日、相棒とふたり、とある大学の学園祭を覗いてきました。ぼくらとは縁もゆかりもない大学ですが、たまたまやっていたのです。時刻はもう夕方で、ほとんどの企画や展示は終わりかけていたのですが、まだ校内にはその日最後の盛り上がりが残っており、その中を二人で歩きました。ただ、ぼくらはあまり賑やかなのは苦手でして、流されるように賑やかな表から裏側に入り込んでしまいました。そこは製作棟のような雰囲気の建物でした。その、ペンキ跡に汚れた床を見て、ぼくはふいに、昔自分がまっとうな大学生だったころのことを思い出していたのです。

大学時代、ぼくは相棒他何人かの部員と人形劇をやっていました。だいたいは子供向けで、たまに近所の幼稚園へ出張公演をしたりもしました。けれども学園祭では、どちらかと言えば子供向けよりも少し大人向けの演目をやることが多いのです。子供向けには子供向けの、学生向けには学生向けの、それぞれなりの難しさ、楽しさがあるのですが、まあそれはいずれ。

学園祭が近づくにつれ、当然ですが部室はだんだん修羅場になっていく。ぼくらは弱小な部でしたから、大抵脚本と演出は兼任になります。で、人形劇ですから人形を作らなければならないし、同時に役者も演じなければならないから台詞の通し練習や立ち位置の確認、発声練習もある。大道具小道具の製作もあるしパンフやポスターの作成もある。みんながひとり何役も持っているから、とにかくてんやわんやになります。手が足りないので、公演前になるとヘルパーさんも来る。狭い部室に作りかけの人形や大道具小道具、裁縫道具や工具が散らばり、ポスターやパンフの原稿、脚本も積んである。ベランダでは発声練習をする者もいるし、部屋の中では裁縫をしたり鋸で木材を切っている者もいる。何故か単に遊んでいるだけのやつもいる。

ぼくは、その雰囲気が好きでした。そしてもちろん、公演直前の緊張感、真暗なけこみの中にしゃがんでいるとき、あるいは音響/照明担当で開幕のタイミングをはかりつつスイッチに手をかけているときの緊張感も、あるいは舞台が終わり、お客さんのはけた後の客席にぼんやりと座っているときの開放感も好きでした。

だけれど、いま、ぼくの記憶に何よりも残っているのは、公演が終わりすべての後片づけが終わった後、再び見えるようになった冷たいコンクリート剥き出しの、部室の床なのです。そこには長年にわたってついた傷、塗料などの跡が点々と残っています。そして今回の公演準備の間についた新しい汚れや傷も増えています。ぼくはそれを見るのが好きでした。堅く、ひび割れ冷え切ったコンクリートに、けれど確かに、生き生きとしたぼくらの活動の跡が残されていたのです。

いま、もうその部室は使われていません。もしかしたら建物すら、すでにないかもしれません。けれどもし、あの部室をもう一度訪れることがあったら、ぼくはきっと、あの床を写真に撮るだろうと思っているのです。

旅に出たって自分なんか見つからないってお母さんいつも言ってるでしょ!

いや、先日とある映画の試写会に行ったのですが、これがまあひどい映画でした。タイトルは”Into The Wild”。基本的にぼくはレビューとかしないんですけれども、あまりにひどいのでちょっと書きます。内容どころかラストにまで触れていますので、映画を観ようと思っている方は以降お読みにならないでください。

とか言ってですね、まあみなさんご存知のように、ぼくにレビューができるはずがない。絶対に話がずれるに決まっています。それから、いつも書いている通り、ぼくは自分の主観と他人の主観を厳密に分けています。ですから、ぼくにとってつまらなかったからと言って、その映画に価値がないというつもりはありませんし、あなたがその映画を観てもつまらないかどうかは分かりませんし、あなたが面白いと思うのであれば、それを否定するつもりもまったくありません。ぼくが書けるのは、ただ、ぼくがその映画をどう思ったのかだけであって、このブログも、ぼくが何をどう感じるか以上のことは書けるはずもありません。

今回この映画を観に行ったのは、相棒が試写会の抽選に応募して、それが当たったからです。相棒は結構こういう試写会とかに応募するひとで、たまに当たると、二人で観に行きます。で、おんぶにだっこの状態で申し訳ないのだけれど、これが大抵、つまらないどころか無茶苦茶な映画であることが多い。いや『ダーウィンの悪夢』は面白かったな。でも『中国の植物学者の娘たち』はひどかった。あまりにひどくて憤激して、これは絶対ブログに書くぞと思っていたのだけれど、基本的につまらないことはすぐに忘れるたちなので、きょうのきょうまですっかり忘れていました。まあそれは良いや。で、どのみちぼくは映画そのものよりも相棒と映画を観に行くという行為自体を楽しむので、映画の内容がひどくても、行ったこと自体を後悔することはないのです。

で、今回の”Into The Wild”。これもひどかった。これはクリス・マッカンドレスという実在のアメリカ人の若者が、親との反目やら何やらが原因で、「本当の自分」を探しに「すべてを捨てて」荒野を目指し、けれどもその途中で毒の豆を間違えて食べて死ぬ、という、現実の話を元にした映画です。90年代初めですから、年代的にもぼくに近い。彼の方が半回りくらい上ですけれども。

誤解されがちなのですが、ぼくは決して優しい人間ではありません。むしろまったく逆だとお考えいただいた方が良いでしょう。ぼくが恐れるのは偽物の生です。ぼくにとっての悪とは本当の生を腐食させるあらゆる偽物のことであり、それを認めてしまったら、人間、もう後は生きたまま死ぬだけになります。それは絶対に嫌なのです。そして”Into The Wild”にはぼくの敵たる「偽物」の匂いが芬々としている。だからぼくはぼくに対して、それを告発しなければならない。

と言いつつなかなか本題に入らないのですが、映画だけでなくて、試写会全体もひどかった。最初に配給会社の宣伝部か何かの担当者が出てきて能書きを垂れたのですが、サイトでこの映画の広告をしているから見てくださいと言うのです。それだけなら、ああそうですか、という話ですが、何かですね、繰り返し繰り返し「このサイトには著名人の方々も参加して云々」と言う。その俗悪さたるや! だいたい「著名人」って何ですか? ぼくらは名もなき衆愚ですか。そりゃ結構。けれどもですね、あの、人を見下したような、私はセンスがある! みたいな虚飾の自信に溢れた宣伝担当者を見ていると、とても悲しくなってくるんです。「著名人」ねえ……。それからしばらく、相棒とぼくの間では「チョメイジーン!」というのが流行っていました。

そしてもうひとつ、ラウンジで登山靴を展示していたんです。何だろうと思っていたのですが、その担当者によればどこかのメーカーとタイアップして、まあ要するに映画を観て”Into The Wild”したくなったらその靴を買え、と。はっきり言えばそういうことです。莫迦らしい! ハイテク登山靴なんて、まさにこの資本主義に塗れた世界の成果として生れたもののひとつな訳ですよね。悪くないですよ? ぼくだって登山靴は好きです。出勤時にまで履いているくらい好きです。でもね、それは決して、”Into The Wild”じゃあないんです。繰り返しますが、悪いことじゃない。むしろぼくらは、そういったもので武装してWildに乗り込んで良いんです。でも、それは自然と自分との一対一の闘いなんかでは決してない。人類の総体が、自然を破壊してきた工業社会の歴史全体を背負った人類の総体が、自然と「一対一で」向かい合っているなどとたわ言を吐く誰かさんの背後に間違いなく存在するんです。それを誤魔化してはいけない。

で、いきなり本題に入るのですが、要するに主人公もそうなんですよ。家族との軋轢に悩んで、大学では南北問題とか人権問題とかを学んで、卒業するときに「本当の自分」「ありのままの自分」を求め、”Wild”に行こうとする。でもそのとき、彼の装備は、何度も言いますが、彼が否定したつもりになっている資本主義経済が生み出した製品なんです。銃とか、服とか、靴とか、あらゆるものが。それはね、全然否定になっていないし、自然との闘いにもなっていない。自分がそういった世界の中にあり、そこから離れがたくあることを認めた上で、初めてぼくらは自然と戦える。もし戦うというのなら、ですけれども。どんな御託を並べたところで、それが分からないなら、そりゃあピクニックですよ。

そして第二に、結局彼は最後、食べられない毒のある豆を間違って食べて死ぬんですけれども(まあこれもですね、自然を甘く見すぎだろうと思うのですが)そのときにですね、心の中で両親と和解するんですよ。ちょっと待てよ! と思うのです。何か最後の章のタイトルは「偉大なる英知」とか何とか、たぶん違うけれどそんな感じでした。おいおい、資本主義を否定して家族を否定して、そのくせ工業製品で武装して”Wild”に行って、そのすぐ入り口で挫折して(彼は結局、最後まで遠くに見える山の麓にすら辿り着きません)、豆食って死んで最後「お父さんお母さん仲良くしたかったです」かよ! それが最後につかんだ偉大な智慧かよ!

ちょっとね、おい、なめるのもいい加減にしろよ、という話ですよ。権威に、親に、社会に唾を吐いたなら、死ぬまで反抗し続けろよ。そうでなきゃ、そんなんただの若気の至りで、大人になってですね、いやああのころは私も若くてねえあっはっはとか、そんな大人になりたいのか。それでいいのか? 恥ずかしくないのか、自分の人生に対して、自分自身に対して? 反抗って、そんな適当なものなんですか?

だからですね、もの凄い保守的なんですよ。結局のところ。最後は家族の愛(笑)かよ、みたいな。あえて不快な言い方をしますけれど。これはね、凄く危険ですよ。第一に、自分というのがここではないどこかにあるという安易な思考。そんなん、「いま、ここ」で戦えないお前の姿が本当のお前の姿な訳です。当たり前ですよ。第二に、「自然の中でたった独り」というこれまた安易な思考。たった独りじゃないっつーの。じゃあお前が履いているその靴を、お前は作れるのか? そして第三に、死ぬ間際に頼るのが結局家族の愛かよ、という安易な思考。もう考えるのが面倒くさいんで「安易な思考」を連発するぼくの方こそ「安易な思考」なんですけれど。戦うことを選んだならね、すべてを殺す覚悟を持たなけりゃならないんですよ。和解するくらいなら、最初から戦うべきではない。何もかもが中途半端。最初から親を許すか、最後まで許さないか、それができて初めて戦ったと言えるんです。いや、ぼくらは大抵、そのどちらもできない。それで良いんです。人間ってそういうものです。けれど、そのときに、その結果をですね、「偉大な智慧」だか何だか、そんなお為ごかしで誤魔化してはいけない。それはぼくらの弱さなんです。戦い辿りついた偉大な結論ではなく、逃げた結果、負けた結果であることを認めるからこそ、ぼくらはそれを智慧と呼べる。

まあとにかく滅茶苦茶でした。何が言いたいのかさっぱり分からない。主人公も、ちょっとそのストーリーで表そうとしているらしい「繊細さ」を表現するにはあまりに鈍い演技だったし。最後、気合で痩せれば良い訳ではない。役者はボクサーではない。断食芸人でもない。

そしてもしあの映画のテーマが馬鹿な若者の過ちを描いたものであるのなら、それこそふざけるな、と思います。最後まで親を許さず、社会のすべてを否定しつつ荒野の中で死んでいくのか、あるいはヘラヘラと笑いながら荒野に行き、ヘラヘラと笑いながら社会に戻ってきて一生を過ごすのか、あるいは最初から荒野になど「逃避」せず、真正面から家族の問題と取っ組み合うのか。そこで初めて、ぼくらは人間の強さ、独りで戦うことの意味、全力で戦った結果その向こうに現れる巨大な悲劇を見ることができる。

とか何とかですね、激怒していたのです。そうしたらタイトルバックで、彼が生前に撮ったポートレートが出てきました。おいおい、お涙頂戴かよ、と思ったのですが、相棒がですね、映画館を出た後でぽつりと、「彼は戻るつもりだったんだよね」と言ったのです。「戻るつもりがない人間なら、写真など撮らない」、と。

そのとき、何か少し、彼に共感できた気がしました。映画は糞です。それは間違いない。けれども……。そう、やはり……、何とも言えないな。ぼくは彼に同情する気は一切ない。けれど同時に、やはり、やはり、帰る気があるのなら、帰させてやりたかったなあ、と思うのです。

正しいとか戦うとか、そんなん、普通の人間にはどうでも良いんです。生きて帰って、たまに楽しいことがある。まあでも、だいたいはくだらなくつまらない、何も起きない日常生活。そんな人生で良いんだともっと早くに気づけば良かったのに。そう思うのです。戦いっていうのは、結構、そんな日常生活そのものにある。分不相応な背伸びをしなくたって良いんです。そのままで、この場所で、いやこの場にこそ、世界でいちばんハードな戦いがある。

もっと早く彼がそれに気づいていればと、そんなことを思いました。

ぼくはあなたの家畜ではない

しばらく体調を崩していた。といっても、長年にわたる過負荷とストレスの結果だから、これはすぐにどうなるというものでもない。身体のあちこちに問題が出てきて、正直ちょっと参った。とは言え、根が頑健にできているので、少しずつ調子は戻ってきている。面白いことに、具合が悪いときには、自分の身体の中のことがまったく見えなくなる。まるでウィルスの培地が一杯に詰まったみたいに、透視しても何かモアレのようなものが見えるだけ。いまは少しずつ、内臓や筋肉の形が見えるようになってきた。

さて、きょうはちょっと怒っているお話です。いえ、本当は滅茶苦茶に激怒しています。

先日、相棒と二人で大学の近くへ買い物に行きました。で、少し遅めの昼食でもとろうかという話になったのですが、その辺りにはレストランはあまりありません。ぼくは基本的には何を食べるかより誰とどう食べるかを重視します。これが相棒には少々不満のようなのですが、ぼくとしては相棒とゆっくり話しながら食べられれば、コンビニの肉まんだって良いと思っているわけでして、どうしてそれが不満なのか、本当のところは良く分からない。まあそれはどうでも良くて、いやどうでも良くないですね。今回書く内容は、食べるということから始まるので。

とにもかくにも食べるところがないのであれば仕方がありません。幸い近くの大きなオフィスビルの一階にコンビニが入っていましたので、そこでお弁当を買い、外の広場のようなところで食べることにしました。その日は土曜日だったので、人影もほとんどありません。

お弁当を買って、相棒が手を洗うというので、ぼくだけ先にベンチに座って待っていたのですが、戻ってきた彼女が変なものがあったと言いました。トイレに、「ここで食事をするのはやめてください」と書いてあったというのです。

どことは書きませんが、整備された区画にある、まだ新しい大きなオフィスビルです。立地から考えても、それなりに名の通った企業が入っているのだろうと思います。

ぼくも、すでに十年以上会社員をやっています。酷いことも体験したし、惨い話も見聞きしてきました。ですから、いまさら驚愕するようなことではないのかもしれない。

それでも、やはり、これはあまりに異常です。誰が好き好んで、少ない休み時間にわざわざトイレで弁当を食べたいと思うのか。「やった、お昼休みだ! きょうも楽しくトイレでお弁当だよ!」などと思う人間が、どれだけいるというのか。あのですね、理想は大事ですが、確かに実際問題、ぼくらは全員が全員天職について、楽しく働いているわけではないですよね。それぞれに生活があって、いろいろ大変なこともあって、それでも一生懸命働いているわけですよね。それで、そんな風に働いている誰かが、どうして食事を、トイレで食べなければならないのか。なおかつ、どうしてそんな境遇に置かれた上で、置いているシステム側から「食べるな」と命令されなければならないのか。

これは、そういった張り紙をするのがビルのメンテナンスをする人々であるとか、そんな無意味な反論を認めるような問題ではないのです。確かに、ビルの清掃をしているのはぼくらと同じ誰それさんです。彼ら/彼女らからすれば、トイレで弁当を食べ散らかされれば、それは本当に困ったことです。けれども、ぼくが言っているのはそういうことではない。ぼくらをそういった奴隷以下の存在へと押し込めようとしているシステムそのものの話なんです。

ぼくらは、奴隷ではない。家畜ではない! 狭いコンクリートの中に押し込められ、人間性を導き育てるようなことからかけ離れた仕事さえ、もしかしたらしていて、それでも必死に生きている。そうした人間に対して、トイレでしか食べる場所、時間がないような環境を与え、なおかつそれを禁止する。そのようなことに対して恥じることのない人々を、ぼくは唾棄します。それは、もはや人間ではない。ぼくらを人間以下の存在に貶めようとするあなたがたこそ、人間ではない!

これは、人間性に対する重大な犯罪です。ぼくらは、もしそうできるのであれば、誰だってゆっくり時間を取り、自分の好きなところに行って、おいしいものを食べたいと思う。もちろんそれはとても贅沢なことですし、一歩間違えれば傲慢や退廃に堕するかもしれない。けれども、それは彼らの犯罪を正当化する理由にはまったくならない。ぼくらが自らに対する誇りと、他者に対する責任とを忘れるのであれば、それはぼくら個々人の罪です。まだ起きてさえいないその罪を、無関係なシステムに責められる謂れはまったくない。

あなたがペットを飼ったとします。例えば番犬だとしましょう。あなたは番犬としての仕事を彼に要求する。けれどあなたは最低限の散歩しかしない。仕方なく彼が庭でウンチをしてしまったら、あなたは激怒し、彼を折檻する。庭でうんちをするなと言ったろう、と。

けれども、彼をそうさせたのは、他ならぬあなたなのです(ブログを読んでくださっているあなたではないですよ)。ぼくらは、誰も、トイレでお昼ご飯を食べたいなどとは思っていない。そうせざるを得なくしているのは、誰でもない、あなたなのです。そのあなたに、「トイレで弁当を食べるな」などと、ぼくは絶対に言われたくない。

これはお昼ごはんの話でしたが、それ以外にも、こういった例はいくらでもあります。けれども、ではどうしたら良いのかと言うと、残念ながら答えは、ありません。ぼくらは確かに、働かなければ生きていけない。残念ながら現代社会において、ぼくらは自分の好きな生き方を選ぶことはできない。もし、現実社会においてそれが可能である、できないとすればそれはお前の努力や才能が足りないのだ、と言う人がいるのなら、おめでとう、あなたは御立派な人間様なのですね。どうやらぼくは、あなたから見れば人間ではないようだ。別段、それでかまわない。ぼくもあなたを人間だとは思わないから。

人間は、確かに戦わなければならない。ぼくがぼくであるために、自分の全存在をかけて戦わなければならない。けれど、それとこれとは、まったく別の話だ。現実社会における成功しか基準を持てないのであれば、それはその人の「現実」という仮想に囚われた奴隷でしかない。ぼくらの本当の生は、ブルトンの言う通り、もっと別のところにある。

繰り返すけれど、答えは、ない。そんな職場をやめろとは言えない。ぼくは次の職を紹介することはできないし、そもそもこれは、どこか特定の企業だけに限った話ではないだろうから。それでも、ひとつだけ、この世界において意味があるかどうかは分からないけれど、ぼくらにひとつだけ、できることがある。

それは、心の中で、「これは人間に対する挑戦だ」と叫び続けることだ。それ自体に救いはない。何も解決する力はない。それでも、ぼくらは、それを忘れないことによって、どんなに泥に塗れ頭を彼らの足で踏みつけられても、人間でいることができる。人間で在り続けることができる。人間で在るということは、楽しいことでも、救いの在ることでもない。それを受け入れることができる者だけが人間になれるとぼくは思っている。

それは誰にでもできる容易な、かつ不可能であるとすら思われるほど難しいことだ。けれど、それがぼくらの戦いなのだ。ぼくらは、家畜ではない。