叫ぶ

先日、学部時代の恩師に会いに、自転車に乗って昔通っていた大学へ行ってきました。いま席を残している大学から、ぼくの超安全運転で30分ほどのところです。ひさしぶりに自転車を整備して、のんびり、散歩がてらの訪問です。待ち合わせは、ぼくが最初に通っていた大学。どうもぼくのようにあちこちの大学を流れてきた人生を送っていますと、このような場合に分りやすい表現をするのが難しくなってしまいます。などと書くと本当にそう受けとめられてしまって悲しいのですが、なかなかどうも、レトリックというのは難しいですね。

それはともかく、約束の時間より少しだけ早く到着したので、大学食堂前にあるベンチの脇に自転車を停め、しばらく、ベンチでぼんやりとしていました。背中側には、昔、ぼくらが人形劇をしていた部活棟があります。いまはすべての部屋が暗く、まだ使用しているのかどうかも定かではありません。ぼくは別段、その部活に対しては何の感傷も義理もありません。そもそも感傷を覚えるような人間でさえないのですが、しかしそれでもやはり心にかかるものがあるとすれば、それはあのときあの場所を共有していた誰かさんたちに対してだけであって、抽象的な集団なり歴史なりではない。だから、ぼくらが昔、講義にも出ず(出なかったのはぼくだけですが)日がな一日無意味なお喋りに興じていたあの部屋が死んだような薄暗さに沈んでいるのを見ても、特に何も感じません。

頭痛薬を飲み忘れたので、落ち窪んだ目で虚ろに空を眺め、ベンチにだらしなく凭れて口を開けているぼくを、若い学生たちが胡乱気に眺めながら歩いていきます。彼らが入っていく食堂も、もう、ぼくと相棒がバイトをしていた食堂ではなく、そしてまた大学をやめてからだいぶ経って、友人の披露宴の司会を相棒とふたりでやったときの食堂でもありません。ずいぶんと長い時間が経ったということでしょう。その自覚もないまま、昔はなかった小奇麗な広場の小奇麗なベンチに、死んだように肢体を投げ出しているぼくがいます。

***

最近、叫ぶことがなくなったなと、ふと思いました。じゃあ昔はそんなに叫んでいたのかといえば、実際、ぼくらは子供のころ、些細なことですぐに叫んでいたように思うのです。それは、そのときのぼくらでは言葉として表現できないような、けれど表現せざるを得ないようなナニモノカに出くわしたとき、そしてぼくらは毎日、毎瞬、そういったナニモノカかに出くわしていたのですが、その訳の分らない感動に突き動かされるままに、その衝動そのものが叫びとしてぼくらの口から湧き上がっていたのではないでしょうか。

大人になるにつれ、ぼくらは、そういったナニモノカに「形」を与える術を覚えていきます。それが大人になるということで、それが社会性を持つということです。誰もが共有できる「形」。衝動を衝動として、感動を感動として、誰に伝えようとするのでもない生の衝撃として、叫び声としてそれを発する。そんなことをすれば、ぼくらは普通に、この社会から外れたものにならざるを得ません。そうならないために、ぼくらは自分の心の内側に向け、複雑怪奇な迂回ルートを、解析不能な変換機構を組み上げていきます。そういった緩衝材を経て現われたとき、すでにその原初的な衝撃は、おやおや不思議、規格化され製品化され共有可能な、この社会の構成部品のひとつになっています。

ずいぶん以前の話ですが、キレやすい17歳とやらが社会的な問題となっていたとき(しかしぼくは、それは社会的な虚構に過ぎないとも思っていましたが)、井上ひさしが新聞に書いていたことが印象に残っています。正確には覚えていないのですが、若者たちがキレるのは、自分の感情を「キレる」としてしか表現できないからだ、というものでした。これは卓見だとぼくは思います。キレる17歳が事実かどうかはさておき、人間が自分の感情を自ら分析できないことの危険性は、間違いなくあります。何だか分らない怒り、何だか分らない不安、何だか分らない悲しみ。そういったものも、自己を冷静に客観視し、言葉で切り刻んでいけば、案外、その正体はごくありふれた、つまらない、ささやかなものであることが多いでしょう。そうして、そのように暴かれてしまった何かは、解決はできないにしても、少なくとも他者と共有でき、共感されるものになるかもしれません。

これは、とてもとても大事なことです。言葉の変化を嘆くひとがいますが、恐らく、それ自体は別段問題ではない。若者言葉というのが低俗化する一方だというのは、いずれにせよ、いつの時代にも語られてきたことでしょう。もし問題があるとすれば、若者であれ老人であれ、自分の中に渦巻く光の届かない粘つくうねりを、鋭く切り取り解剖するだけの精緻な刃を持った言葉を持っているかどうか、そこにこそあるはずです。

そして同時に、それでもなお、ぼくらは言葉だけでは自分のなかにあるすべての衝動、名づけようのない混沌、すなわちナニモノカを征服することはできません。そもそもそれは、「征服できないもの」としてのみ定義される定義不可能なものなのです。それはつねに、ぼくらの身体として、ぼくらの魂として、そしてぼくらの素振、誰かに向ける視線、息遣いのなかに在り続けます。

だからこそ、演劇や音楽、あらゆる芸術、人間との関係性、あらゆるものとの唯一、一回限りの無限の関係性をぼくらは求めます。

けれどもそれが社会のなかに現われた瞬間、それは他者と共有可能な、言葉として表現される(自然言語かどうかはともかくとして)商品に置き換わっていってしまいます。

ぼくらは、ぼくらの中心に在り続けるナニモノカを閉じ込めます。閉じ込められないにも関わらず閉じ込め、閉じ込めることによって初めてひととして定義されるぼくらは、従ってつねにその存在それ自体が矛盾に曝され続けています。

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弾けもしないコントラバスの、調弦もしていない弦を、いつまでもはじき続けること。何を描くべきかも分らないまま真っ白なカンヴァスに叩きつける最初の一筆。

それは、酔って大声を張り上げるのでもなく、カラオケで濁った声を轟かせストレスやらとを発散させることでもなく、仲間内でけたたましく莫迦笑いを響かせることでもありません。

ぼくは昔、仲間たちと一緒にけれど独りで、独りでけれど仲間たちと一緒に、発声練習のふりをして部活棟のベランダから薄暗い木立に向かって叫んでいました。

最後に本気で叫んだのがいつだったのか、もう、思い出すこともできません。

原初の混沌として在り続ける、極身近な、けれどまったくありきたりではない何かに触れるたびに爆発的な官能と喜びに震えるそのナニモノカを解き放 つ。ジェリコの城壁を打ち崩した角笛のように叫び声が魂の鎧を壊し、眩い光が差し込んでくる。

叫ぶこと。そして叫ぶこと。そしてなお、叫ぶこと。

改行とか、お祈りとか。

最近軽いことを書いていないので書きなさいという指令を受けたので書きます。おお、何か電波を受信中みたいで良い文章ですね。

ところで、このブログ、アーカイブを見ると改行が全然反映されていないのです。文字がびっしりつまっている。びっしりつまっているって、いま書いていて鳥肌がたちましたけれど、何だか薄気味の悪い語感です。少なくとも美しいものはびっしりつまったりしない。びっしりつまったオードリー・ヘップバーンなんて在り得ない。自分で何を書いているのか良く分らないのですが大丈夫でしょうか大丈夫です。ともかく、アーカイブにも改行が反映されるようになりました。ちょっとほっとしました。改行がないのって見栄えが悪いですからね。

改行といえば、昔、いまでいうライトノベルの走りみたいなお話を読んだとき、何しろ句点ごとに改行しているのには驚きました。無論、これだって比較の問題でして、古い時代の小説で、時折改行どころか句点もないままどこまでも続いていく文章を見かけますが、あれはあれで辛いと感じてしまう。だからまあ、何が良くて何が悪いということではないのですが、とにかく驚いた。

だってそうだろう、と彼は思った。

改行だらけの空白の本に、その空白に、ぼくらはお金を払っているとでもいうのか?

彼はそう思った。

彼は、そう思ったのだった。

だからといってでは改行なしにどこまでも書いていく、それはそれで読みにくいのも確かで、ここで今回のタイトルの話にずれるのだが、50日ほど前に出した公募に落ちたお知らせが届いており、読めば予想通り不採用で、それ自体に別段ショックは受けはしないのであって、なぜならもともとぼくのようなイレギュラーな経歴を持っている人間がまっとうな公募枠に応募したところで、最初からまっとうな経歴で勝負している連中に敵うはずもなく、敵うと思うとすればそれは自信というよりむしろ現実感覚の喪失に近いように思うし、またそもそもぼくはぼくを落とす連中に対しては例外なく「地獄へ落ちろ」と自転車のスポークを刺すかあるいは「将来俺が偉くなったときには後悔のあまり転げまわって死ぬがいい!」と思うほどには傲岸不遜で唯我独尊なのだがしかし言いたいことはそんなことではなく、そのお知らせの最後に「今後も一層のご活躍をお祈り申し上げます」などと書いてありぼくはそれに激怒したのであってその理由は他でもない、いったいこれを書いた人間は何に対して祈っているのかが分らないからで、祈りとはそんな簡単に口にできる言葉ではないとぼくは思っていて、だからもっと正直になってほしい。

「私どもは正直貴兄の今後の人生には何の関心も責任もございませんが、貴兄が偶然であれコネであれ不正行為によってであれ何らかの公募に通ることがあれば(それが私どもの大学ではないことだけは断言できますが)、ハハッ! 良かったね、くらいには頭の片隅で願っていると申し上げれば嘘になりまして、本当にどうでもいいのです。敬具」

まあそういう訳でして、改行というのはけっこう大事だよね、などと思うのです。個人的にはあまりに改行を多用した文章ばかり読んでいると、思考の持続力というか、息の続く限り論理の海深くに潜る肺活量というか、そういったものが弱まってしまうのではないかという危惧も感じています(改行ばかりの論文が基本的には在り得ないように)。

けれども一方では、短いセンテンスの連なりのみが持ちうる軽やかな飛翔感というのも美しくはある。ま、平凡な結論ですが(何しろ凡庸なこと以外は口にしないという非凡な才能に恵まれているので)、どちらも大事だね、というよりむしろ、表現形式とその内容は不可分であって、俺を表せ、俺を顕せと叫ぶナニモノカにふさわしい形を与えてやるべく、自分のなかに耳を澄ませるしかないのでしょう。

だいぶ無茶苦茶なお話になってしまいましたが、時折こうやってリズムを崩さないと、どうもぼくは陰湿で陰惨な性格の趣くままに書いてしまいがちなのです。というわけで、クラウドリーフさんの今後のますますのご活躍とご健勝をお祈りしつつ、ハハッ! あなかしこ、あなかしこ。

あの日魔法を使っていたきみは

言葉というものは不思議なもので、つまらない使われ方ばかりされてきた言葉というものは、どうしても力を失ってしまいます。魔法、なんていうのもそのひとつですね。けれどもぼくは、この魔法という言葉、案外好きなのです。ですので、すっかり色あせてしまった魔法という言葉に、いまいちど少しだけでも魅力を取り戻させようというのが今回のお話です。

ぼくが初めて魔法とでも呼ぶほかない特別な力を目にしたのは、大学に入ってからすぐのことでした。相棒に出合ってからまだ間もないころ、あれはどこだったでしょうか、都心のどこか地下にある薄暗い喫茶店で、彼女が手の中に小さな、けれど鋭く美しい火花を散らせたのです。

彼女がそれを見せてくれたのは、そのときただ一度だけ。でも本当のことをいえば、いまならぼくも同じことができます。いえ、これを読んでくれている誰にでも、簡単にできることなのです。だけれども、やはりあのときのそれは、魔法というより他はない、特別な輝きを持った何かでした。その一瞬のみに可能であったもの。誰もができて、同時に誰にもできないもの。

あるいは、やはりこれも彼女のお話。ぼくの交友関係の広さが窺われますね。ある日の夕方、ある建物の屋上の縁を、彼女が歩いていました。何の柵もなく、一歩間違えばそのまま墜落するしかないところを、彼女は平気な顔をしてバランスを取りながら、すいすい進んでいきます。高いところが平気なひとであれば、どうということもない話でしょう。けれども、そうではないのです。ただの事実としてエンパイアステートビル(というものが何なのかぼくは知りませんが)の天辺の避雷針の上に片足で立ちクルリと舞ってみせたところで、それは要するに超人的な体術というだけで、魔法ではない。そのときの夕暮れの空の色、風の匂い、遠くから届く子供たちの声。そういったものすべてを含めて、何一つ欠けてはならないその全体として、魔法が完成していました。もちろん、彼女が落ちたら即座に後を追うつもりで、摺り足で奇妙なダンスでも踊るかのように彼女を追跡していたぼくも含めて。

リンギスは、コミュニケーションを透明なコミュニケーションとノイズのコミュニケーションに分けて考えます。前者は合理性によって根拠づけられたコミュニケーション形態を意味します。そこでは、その語られる内容のみが問われ、誰がどのように語るかは問われません。ぼくがいうのであれ、きみがいうのであれ、1+1は2でなければならない、そういったものです。そしてそれ故、そのようなコミュニケーションにおいては、語る者はつねに交換可能な誰かさんでしかありません。

一方、ノイズのコミュニケーションは、誰がどのように語るのかこそが重要であり、何を語るのかには本質的な意味がないようなコミュニケーション形態を意味します。死に逝く誰かの傍でレコーダーが合成音で「ダイジョウブデスヨ」と慰める。そこには恐らく何の救いもないでしょう。けれども、もしそれが、きみにとってかけがえのない誰かを看取るきみ自身の声であれば、そのとき、それが言葉として、文法として破綻していても、そこには置き換え不可能な意味が生まれます。きみが、その場で、そのとき、その相手に語ること。その絶対的な唯一性。

飛躍しているのを承知でいえば、前者を科学、後者を魔術といってもよいかもしれません。

どちらが正しいとか、どちらが大切ということではないのです。そのどちらも、ぼくらが生きるために不可欠な要素です。けれども、現代社会というものは、そして同時にぼくらが大人になるということは、魔法を捨て、科学へと傾斜していく在り方そのものなのかもしれません。この世界に暮らす大人たちで、いまだに強力な魔法を使えるままでいるひとを、ぼくはあまり見かけることがないのです。それはやはり、少しばかり寂しいことのように思えます。

ある日、相棒とぼくは、一緒に街を歩いています。ざわめく雑踏の中、けれど周囲から切り離されたような静寂を、ふと感じます。ぼくらはいつでもそうやって生きてきました。彼女とつないでいる手に少しだけ力をこめ、ぼくはいいます。――ひさしぶりに、また魔法をみせてよ。彼女は、少しおどけて肩をすくめ、――いいよ、と答え、そしてそれきり、何もおきません。ぼくらはそのまま、どこまでも歩いていきます。

たぶん、それ自体で、その全体が、ひとつの魔法なのだと思うのです。

I don’t believe in a hereafter

数日前に学会発表が終わりました。最近は相当に疲労が激しいのですが、それでも、自分にとってそれなりに意味のある発表にはなったと思います。ただ、聴いてくれていた人びとからは「(壇上で)やけに動き回っていた」「ドスが効いていた」「瞳孔が開いていた」などと、発表内容とは関係のないコメントばかりもらいました。

本当は、知的に眼鏡をくいくいとさせながら、理詰めで隙のない論述を淀みなく語りたいのです。けれども現実的には服もぼろっちく髪はぼさぼさ、ついつい興奮してクマのようにうろうろと歩き回り、時折よだれをたらして唸り声をあげつつ鮭を素手で捕まえる。そんな発表ばかりしています。いやさすがに会場に鮭はいなかったけれど。

今回の発表(そしてここ最近の研究)は「死」がテーマです。いえ、もともと博論を書いていたときからそれは隠れたテーマだったのですが、最近ようやく、自分の書きたいように書いてやれ、と思えるようになってきました。ですので、これからしばらくは、真正面から「死」について考えていこうと思っています。「死」それ自体が目的というより、むしろそこから必然として導かれる見知らぬきみとの原初的な共同性こそが目的だというべきかもしれません。

少し話が変わるようですが、ぼくは研究室のほとんどのひとに、このブログのことを知らせていません。もちろん、興味もないブログのことなど、教えられても却って迷惑なだけでしょう。

ただ、そういったことだけではなく、このブログにおいて、ぼくは父の、そしてあるいは別の誰かの死について幾度か書いてきました。それは現実に起きたことというより(そういった側面が逃れようもなくあるにせよ)、このブログのタイトルがまさに「物語」であるように、そのひとの、そしてぼくの人生を語りなおし続けるということを意味しています。

そうして、それは論文においても同様です。どのようなフォーマットを用いるにせよ、言葉以外のどのような表現によるにせよ、あるいはただ道を歩き、呼吸をし、太陽の眩しさに目を眇めるだけであるにせよ、そのようなすべての経路を通じて、誰もが、そのひとにしか語れないかたちで、あるひとつの(けれど無限の様態を持った)物語を物語っています。

とはいえ、やはり、論文は論文であり、ブログはブログです。当然ですが、ぼくは論文に、ぼくが経験してきた幾人かの死について、直接的に書いたりは決してしません。ブログで(やれないことを承知で)やろうとしていることは、要するに、『ピギー・スニードを救う話』でアーヴィングが語っていることです。そこには避けがたく、(物語として)このぼくの経験としての死が現われます。また、それ以外に書くべきなにものもありません。

だけれども、ぼくは自分が書く論文を、いかなる意味においても私的なものとしては読んでもらいたくないのです。いうもの恥ずかしい話ですが、何らかのかたちで自分の経験を正当性の根拠とするようなものは、それは論文ではありません。それが例え隠しようもなく顕れるものだとしても。

そう、それはどうしようもないものとして顕れてしまうのであって、意図的に表現するようなものでも、完全に消し去れるようなものでもない。そのどちらも、魂を込めた、他にどうしようもないからせざるを得なかったものとしての研究ではない。ぼくはそう思います。

と、ここまで書いてふと気づいたのですが、これは結局のところ、物語を書くときにぼくが思っていることと、何も違いがないようです。

哲学出身でもないままに思想系の研究室に進んでしまい、いまにして思えば、きっと客観的な評価が欲しかったのかもしれません。ぼくというひとりの人間の私的な背景から切り離された言葉。

けれども、所詮は無理なお話です。この世界のなかで描かれるぼくらの軌跡は、そのまますべて、物語です。唯一のこのぼくが、唯一のきみに語る、その都度唯一のものとしての物語。

だから、もっと自由に論文を書こうと思います。虚実を織り交ぜ、このぼくという位置からあふれ出す、あることないこと、ないことあること、無数の言葉の欠片、無数の欠片の言葉。もっと自由に、もっともっと自由に。

その欠片のたった一葉だけでも、きみの下にある日ひらりと届けば、人生なんて、それで大成功。

感度良好

というわけで、まだデザインその他で変更はするかもしれませんが、ようやくこのサイトを使い始めることができる状態になりました。まだまだ息がつけないほどに忙しい日々が続くので、なかなか以前のようなペースでは書いていけないかもしれませんが、まあ、気長に続けていくつもりです。

はてなもtwitterもfacebookも、すべてアカウントを削除するか閉鎖するかしました。そのことについて少し。

だいぶ以前からでしたが、はてなで書くことにだいぶ息苦しさを感じるようになっていました。ぼくは、当たり前のことかもしれませんが、誰かに語りかけるために書いています。けれども、これはtwitterもfacebookもそうなのですが、どうもぼくが思うような形で語りかけることが難しくなってきたと思うようになったのです。語りかける、つながるということが、結局そのまま、語りかけない、つながらない境界を作り出してしまっているかのように思えたのです。

これは本当に困ったことですが、ぼくはどうも、良い人間、優しい人間だと思われてしまいがちです。けれども、ぼくがコミュニケーション論や倫理を通して語っているのは、他人というものがどうしようもなく存在し、避けようもなくこの私に迫ってくるものだということ、そこには途轍もない恐怖と悲しみがともなうのだということです。決して、仲良しクラブがいいね、などと言っているわけではありません。

また、他者との関係を絶つことなど不可能だというのも、いつまでもだらだらと表面的な「友達」状態を引き延ばそう、ということを意味しているのでもまったくありません。ある一回限りのできごとの(そして一回限りでない出来事など果たしてあるでしょうか)、恐ろしいまでの取り返しのつかなさをいっているのです。

例えば人ごみのなかで、(そのようなことが可能だとして)徹底して他を廃絶した集団で固まり、その内だけでお喋りに興じること。あるいは拡声器を使い、ざわめきを圧するほどの大きさで叫び続けること。どちらも、語りかけるということの対極に位置しているとぼくは思います。

そうではなく、例えば誰もいない草原で、草の擦れる音に消えてしまうほどの小さな声で語り、にもかかわらずなおその声が、地平線の向こうにいる見知らぬ誰かに届くように語ること。ぼくが願うのは、そのような形で、開かれた――まさにこの地球上のすべての大気中に開かれたものとして――声を発することなのです。

インターネットによって可能となるコミュニケーションへの批判の大半は、前者のような形式に対するものです。ぼくは、そのような議論には興味がありません。

耳を澄ませば、無数の他者が語る声が、あらゆるところから届き、静かに、けれど確かに響き合っています。騒々しいノイズの背景に、誰かが届けと願い発した声が隠されているのです。

もしあえて言うのであれば、目の前で語っている見知った誰かもまた、本当はきっと、見知らぬ誰かであるはずです。もしそれが見知った誰かであるというのであれば、そのときそう語るぼくの世界には、実際にはただこのぼくひとりしか存在しないことになるでしょう。

親密圏から始まる共生倫理など、糞食らえ、です。それは、幻想に過ぎません。

ぼくらは、いついかなる時代においても、徹底して異なる他者の声に、地平線のはるか彼方から、あるいは足下から届くそれらの声に耳を澄ませ、その声に声でない声で応答するものとしてこの私になってきたのだとぼくは信じています。自分を知っている、自分が知っている関係性のなかから自らを生みだすなど、矛盾でしかないでしょう。お互いに知らない何かのなかから生まれるからこそ、この私はかけがえのない(それは価値のある、という意味ではなく、端的な事実としてのみ理解されるべきですが)唯一の存在者になるのです。

言葉が、道具が人間を人間たらしめるように、インターネットもまた、ぼくらを真の意味での(ある完成した状態、あるいは完結する地点としてではない)人間に近づけるものです。下らないネットワーク批判にも、ありきたりなネットワーク礼賛にも、うんざりです。ぼくらは、聴こえないものに耳を澄まさずにはいられないし、手の届かないものに手を伸ばさずにはいられません。そうすることにより、このぼくは、知っているということにより可能となったこのぼくという矮小な枠組を乗りこえるものとして、自らを顕すことができるのです。

何らかの関係性に安定するのであれば、ぼくは別段、インターネットの中を流れる風に自分の声を乗せる必要性を感じません。地域性とやらにへばりついているのと何が違うのか、ぼくにはまったく理解できないのです。

そんなこんなで、改めまして。こんにちは、cloud-leafです。聴こえていますか? ぼくは聴こえています。感度は、いつだって良好です。

きみに語る言葉がすべて音楽になるように

こんにちは。あるいははじめまして。けれどもきっと本当は、いつだって「はじめまして」なんだろうなあ、などとも思います。
まだ、しばらくはブログを再開できないかもしれませんが、何かを書いてもよい場所があるというのは、それ自体ですばらしいことです。だからまずは、場所だけを準備してみました。
だけれども、何もないとやはり寂しいものです。ですので、先日とある場所で発表したときの原稿の一部をのせてみることにしましょう。何を言っているのかよく分らないと、各地で絶不評(そんな言葉はない)だったものです。

誕生と死は、我々の生の始まりと終わりにある、この私が決して到達できない極点として在るだけではない。他者から呼びかけられることにより、他者を根源に抱えるが故に語り得ない自分を語りなおすたびに、私は誕生する。そして死にゆく他者に寄り添い、超えられない境界により別たれつつも無媒介に接触している他者に手を差し伸べるとき、私はその都度死ぬ。
そのとき、我々は、他ならぬその他者が、この「私」の存在に欠かせないものであったということに、この「私」と他者という主体の前に、そしてその後に、つねに共‐出現するものとして、脱自の場における有限性として分割=分有されるものがあったということに、気づくのである。
可傷性を通して他者に開かれているというのは、自己を自己として完全に理解できるという幻想から手を離すことによる途轍もない恐怖をともなう。死にゆく他者に寄り添うということは、耐えがたい死の苦しみをともに引き受け、その他者を送り、残されなければならないことによる耐えがたい悲しみをともなう。
私は存在論的に他者とともに在る。ともに在るものとしてのみ、私と他者は存在する。私は、私として既に共同体である。すなわち、他者に対する責任=倫理は、外在的な規範として我々に与えられるのではない。それは私自身の真の名前として、この「私」に先行して私の根源に刻まれ、あるいはこの「私」の外側で分割=分有されている。それ故、カントの言葉を借りていうのであれば、「恐怖と悲しみは、私と共=出現する他者に対する直接的な感情なのである」。
それが我々の、他者に対する責任=倫理の出発点となるであろう。

とにもかくにも、気負わず倦まず、ここからまたいろいろなことを書いていこうと思います。願うのは、きみに語りかける言葉を失わないこと。時折覗いてみていただければ、幸いです。

謝辞

この連休中に、論文を一本書こうと思っています。特に出かける予定も遊ぶ予定もないのですが、それでも、一つだけでも自分の考えていることをまとめられるのであれば、それはきっと良い休日だったと言えるでしょう。考えてみれば、昨年は博論に追われ、五月の連休もお盆もひたすら読むか書くかで過ごしていました。今年もいろいろな締め切りが迫っているのですが、この連休くらいは自分のペースで論文を書く余裕があります。

昔、人形劇をやっていたころ、何しろ少人数の部活でしたから、ぼくらはそれぞれ、仕事を兼任しなければなりませんでした。ぼくの場合は、たとえば脚本と役者と大道具小道具など。思えば、いまぼくは女性がひどく苦手でして、相棒以外の女性に近づくなど考えただけで胃が痛くなるのですが、当時は狭いけこみの中で、ほとんど女の子ばかりの部員に混じって人形を操ったりしていたのです。不思議です。もしかしたら、あのころのぼくはつねに幽体離脱状態で生きていたのかもしれません。

それはともかく、大道具を作るとき、自分の癖なのでしょうか、結局ごみになってしまう多くの試作品を無駄に作ってばかりいました。不器用だったということもないので、そういったスタイルでないとものを作れないということなのかもしれませんね。十の無駄から一の完成品。良いことではないのですが、どうしてもそうなってしまう。

それはいまも変わらないんですね。文章を書くとき、大量の下書きのなかで、残るのはせいぜいほんの少しの断片だけです。けれども、その断片だけをいきなり手にすることはできません。どうしても、無数の書き損じがなければならない。論文の最終稿にはまったく残らない多くの思いつき。けれども、最後には消えてしまうそれらすべてが、残ったひと欠けらに、確かにその痕跡を残しています。

当たり前のことですね。論文もそうですし、写真だってそうです。そもそも、ぼくらの人生そのものがそうではないでしょうか。忘れてしまった多くのものごと、いなくなってしまった多くの人びと。けれども、それらすべてが、いまこの瞬間ここに在るぼくというものを形づくっています。思い出せないすべての出来事が、確かに、このぼくという存在そのものに、直接その存在を記録している。

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論文には書けないような、ただの空想。例えば、こんなことを考えます。

ぼくらは、可傷性を通して他者に開かれています。この私がいまだ私でないとき、その私ならざる私に対して、お前は誰だときみが呼びかけます。呼びかけられることにより、この私はそれに応答を強要されるものとして、在ることを強制され、答えるものとして私になります。したがって呼びかけは暴力、根源的かつ最大の暴力です。けれどその暴力がなければ、それを暴力と呼ぶ私は存在し得なかった。そしてその暴力に対して互いに剥き出しに曝されているからこそ、ぼくらは真に(どうしようもなく)つながっているのだし、互いに責任を持つことができる。だから、この原初の呼びかけが、ぼくら人間にとって、倫理の根源にあるし、それは単に外在的な規範ではなく、ぼくらの存在そのものでもある(例えばバトラー)。

けれども、神は違います。出エジプト記でモーセが神に名を問うたとき(すなわちお前は誰だと呼びかけたとき)、神は答えます。「わたしはある。わたしはあるという者だ」(新共同訳 出エジプト記3:14)。これは様々な解釈が可能な箇所ですが、思うに、神はここで、自分が人間のように呼びかけられることによって存在を始める、存在が規定されるようなものではないことを明らかにしているのではないでしょうか。あらゆる関係性から切り離されている神は、何ものに対しても責任を負う義務を持ちません。むしろ神に呼びかけられ、侵害される我々人間こそが、神に対して一方的に責任を持たなければならないのです(例えばレヴィナス)。

けれども、神を信じるという能力の欠如したぼくからすれば、こんなことはまったくのたわ言です。思えば昔からぼくは倣岸不遜な人間でした。いつでもつねに、いつかぼくが死に、存在しない神の前に立つときのことを考えていました。そのとき神はぼくに訊ねるでしょう、「お前は誰か」と。ぼくらは、ただ独りで存在しない神の前に立ち、この世界のすべての歴史を引きうけ、答えなければなりません。ぼくの答えは決まっています。「俺は俺だ、這いつくばって死ね」。最後の瞬間、存在しない神に対してそう言い放つ。なぜ神がそう問いかけてくるのか、そしてなぜ自分がそう答えなければならないのか、ずっと分らないでいました(その理由を考えることもなかったというほうが正しいでしょう)。けれど、この数年間何か分らないものに突き動かされるまま考え続け、いまようやく、その理由が少し分ったように感じています。神というものは、それ自体で、ぼくの信じる責任と倫理に敵対しているのです。

***


60mm、F4.0、1/30秒、ISO100、WB:オート、クリエイティブスタイル:AdobeRGB(一部モザイク)

大学へ行ったら、写真部が展示をしていました。新歓の案内もあります。ぼくらの研究室がある建物の一階に展示ができる小さなスペースがあり、写真部の人びとが時折そこで展示をしています。ぼくのようなイレギュラーな学生にとって、サークルとか部活とか、そういったものはもうまったく関心の対象にはなりません。もちろん、向こうだってぼくのような年嵩が入ったら扱いに困るでしょう。

けれども、そんなことではなく、ぼくはもう何かの集まりに入ることはないだろうと思っています。昔、ぼくは犬を飼っていました。ずっと昔です。昔、ぼくは人形劇のサークルに入っていました。これも、信じられないくらいずっと昔のお話です。もう、それで十分過ぎるほど十分な記憶を、ぼくは得ました。楽しいことを抱えきれないほど経験しました。「楽しいヨ!」と書かれた看板に見えるのは、ただ、過去の時間です。

だけれども、暗い話ではないのです。決して暗い話ではない。ぼくらはつねに何かに対して開かれています。すべてに対して、開かれています。あらゆるものがぼくに、そしてきみに呼びかけてきます。ぼくはその看板にカメラを向け、一枚だけ、写真を撮ります。きっと、伝わらないかもしれません。あるいは、伝わるかもしれません。けれどこの一枚の写真から、ぼくには、ぼくがいままで関わり、いまはもういないすべての存在と過ごしたときの声が、微かに聴こえてくるように思うのです。

***

きょう、あちこちに配るために改めて製本した博論が届きました。謝辞に、このブログを通して知り合った人びとへの感謝を記しています。ネットはぼくにとって、他者への開かれのひとつの希望であり、ぼくらの頑迷な人間観を打ち壊す確かな可能性です。周りにはお気楽な主張だと言われ続けていますが、それで結構。もしもぼくがお気楽に生きているというのであれば、それはぼくにとって誇るべきことです。

個人名がたくさん出ているので、写真に撮って載せる訳にいかないのが残念ですが、せめて謝辞の一部を、これを読んでくれているきみに。多くのものごとをここでも切り捨ててきたけれど、それでもそのすべては、論文のなかの一つ一つの言葉に、見えないけれどはっきり見える足跡を刻んでいます。

他大に所属していた頃から数え、計十年近くに及んだ仕事と研究の両立は、時に大きな労苦を伴うものでした。そのようなとき、ネットの向こうから常に私を「書くこと」へと繋ぎとめ続けてくれた幾人もの仲間にも、心から感謝します。ネットは決して空虚なものではないという信念を、名前も知らないきみたちが証してくれた。

本当に、ありがとう。